【主日礼拝メッセ−ジ要約】 −献堂1周年記念−                     2005年1月16日

 家を建て、町を守る 
詩127編1―5節
 メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 昔、あるクリスチャン画家がいました。彼はイエス・キリストを信じて間もないころ、ひとつの作品を発表しました。それは海で溺れそうになっている人を、誰かが精一杯腕を伸ばして助けようとしている絵です。溺れそうになっている人もその腕に必死ですがりついています。それは画家の信仰告白でした。自分はこのように罪に満ちた人生の荒波からイエス・キリストによって救われたという神への感謝と罪の悔い改めを描いたものでした。しかし、彼は数年後、またひとつの作品を発表しました。それは以前とほとんど同じです。しかし、以前と違っていました。荒海にもまれて溺れそうになっている人が助けようとしている人の腕にすがっているところまでは以前と全く同じです。しかし、以前は両の手で助けようとしてくれる人の腕にすがっていたのが、この絵では一本です。もう一本はどうしたのかと見ると、更に沖合で溺れそうになっているもう一人の人に伸べられていたのです。これは彼の信仰の証でした。かつては自分が救われることに必死だった彼ですが、数年後には自分の家族、友人、地域社会の人々に伝道する者へと変えられていたのです。

 詩127編1節をもう一度見てください。最初の2行は先ほどのクリスチャン画家が描いた最初の絵、続く2行はそれから数年後に描いた作品と同じだと思いませんか。この詩人も最初は自分と自分の家のために信仰を守ることがやっとでした。しかし、彼はやがてもっと広い範囲の社会、国家、世界で罪の闇路、人生の荒海に溺れている人、誘惑の世界の中でもがき、呻いている人々にイエス・キリストの福音を知らせる人、見張り人へと成長させられているのです。

 今朝、神はキリストの僕であるあなたを、「この町の見張り」をする者として選ばれました。あなたの周りにいる大勢の人々が悔い改めることを知らないまま滅びに堕ちて行くことのない為にです。

  
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【主日礼拝メッセ−ジ】−献堂1周年記念−                       2005年1月16日

 家を建て、町を守る 
詩127編1―5節
 メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 今朝わたしたちは特に詩127編1−2節を通して神と共に歩むことの意味について、御言葉に聴きたいと思います。

 初めに少しこの詩編の背景を考えて見ましょう。1節の表題に、ソロモン作とあることから、古い訳の聖書が言うように、神殿やお城のことを詠ったものというよりは、一般家庭と社会生活を指していると読むことができます。同時に家を建てるとは、土台を築き、柱を立て、屋根を葺き、壁を塗るという建築のことではなく、神を中心とした家庭の営みの大切さを教えるものであり、また町を守るとは、城壁をめぐらして外敵に備えるということではなく、この町が神の守りの中にあることをわきまえ、清められる必要を説いているのです。2節で指摘しているように、世の多くの人々は、何を焦るのか、朝早く起き、夜遅くまで忙しい、忙しいと生活しています。それは、自分の家庭が神によってこそ築かれるべきことを知らないからです。主なる神は愛する者に眠りを与えて下さる方であることを知らないからです。

 新約聖書の中に面白いお話があります。群衆の一人が財産わけを巡って、主イエスにその仲介役を願い出ました。そのとき、主はある金持ちの譬話を通してその人に教えます。このお金持ちは、うらやましいほど順風満帆の人生で、その年も収穫物をしまっておく蔵が足りないほどです。そこで古い蔵を取り壊してもっと大きな蔵を建て直すことにしました。これで、将来の備えはできたし、後は悠々自適の余生を送るだけと満足していました。 その時神の声が彼の耳に響きました。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか」と。主はこの譬話を閉じるにあたって、相談に来た人に言われました。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と(ルカ12:13−21)。

 あなたの心の蔵には何が納められていますか。あなたの家庭の中心には誰がいますか。この世のものにあこがれる思いで溢れてはいませんか。この世のことに終われて神の前に出る備えができていないのではありませんか。欲望という名の悪しき霊が、あなた自身とあなたの家庭を破壊してしまうことにならない内にイエス・キリストをあなたの家庭に、また心の王座に受け入れましょう。あなただけではありません。世の多くの人も同じです。神なき家庭は土台を持たない建築物と同じです。神の守りを祈ることを知らない社会はいつまで経っても安定しません。そういう不幸な社会を作らないために、神は「町を守る人」を選んでおられます。詩人が言う町を守る人とは政治家、教育家、企業のトップと理解することもできます。しかし政治家が夜も眠らず、外国の力を凌ぐ強い国を目指して国民を導こうとしても、教育家が優れた学問をその子弟に教え込んでも、また企業家が豊かな社会を築くために努力をしても、もしその「町を守る人」の心に神を畏れる思いがなければ、国民の幸福を保証する者として安心して頼ることはできません。

 この国を、この社会を本当に正しく見張るべきはキリストの教会でなければなりません。聖書が預言者たちを国の「見張り人」と呼んでいるからです。旧約聖書の中で、神は一人の預言者に向かってこのように言っておられます。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。」(エゼキエル書3:16−18)と。

 

 わたしたち仙川キリスト教会は昨年1月18日の午後、「献堂式」を挙行しました。「献堂式」と言っても、聖書のことや教会のことをまだよくご存じない方にとっては、何のことかお分かりにならないと思います。「献堂式」とは、「この会堂を、私たちの信仰と礼拝の対象である主イエス・キリストの父なる神に献げ、神の御用のためにのみ用います。」と神に告白し、この世に対して宣言をしたことを意味するのであります。あれから早1年の月日が流れました。これを機に私たちは今朝、この会堂の献堂1周年を記念して礼拝をささげています。献堂を記念するといっても会堂建築に至るまでの、また建築中の苦労話をするためでしょうか。そうではありません。神はこの中原の地にどうして会堂を建てさせたかを心に留めるためです。新会堂が竣工して以来、ずいぶん多くの人がこの会堂を訪れてくださり、共に礼拝をささげることができました。今も少なからず続けて出席しておられることは本当に嬉しいことです。

 献堂を記念するにあたって、今一度思い起こすべきは、わたしたちがこの会堂に集められて礼拝をささげるのは、ただ個人的に恵まれたいと願うためではありません。もちろんそれが悪いというのではありません。しかし、そのような礼拝のささげ方は私たち個人の喜び、満足にはなっても、神が本当に喜んでくださっているとは言えないのです。

 昔、あるクリスチャン画家がいました。彼はイエス・キリストを信じて間もないころ、ひとつの作品を発表しました。それは海で溺れそうになっている人を、誰かが精一杯腕を伸ばして助けようとしている絵です。溺れそうになっている人もその腕に必死ですがりついています。それは画家の信仰告白でした。自分はこのように罪に満ちた人生の荒波からイエス・キリストによって救われたという神への感謝と罪の悔い改めを描いたものでした。数年後、彼はまたひとつの作品を発表しました。それは以前とほとんど同じです。かつてその画家が描いた絵を覚えていた人は少しがっかりしましたが、それでも以前のものとどこがどう違うのかと気を取り直してもう一度見直しました。すると確かに以前の絵と違うところがありました。荒海にもまれて溺れそうになっている人が助けようとしている人の腕にすがっているところまでは以前と全く同じです。しかし以前は両の手で助けようとしてくれる人の腕にすがっていたのが、この絵では一本です。もう一本はどうしたのかと見ると、更に沖合いで溺れそうになっているもう一人の人に伸べられていたのです。これは彼の信仰の証の絵でした。かつては自分が救われることに必死でしたが、数年後には自分の家族、友人、地域社会の人々の救いの為に祈る者、伝道する者へと変えられていたのです。

 詩127編1節をもう一度見てください。最初の2行は先ほどのクリスチャン画家が描いた最初の絵、続く2行はそれから数年後に描いた作品と同じだと思いませんか。この詩人も最初は自分と自分の家族のために信仰を守ることがやっとでした。しかし、彼はやがてもっと広い範囲の社会、国家、世界で罪の闇路、人生の荒波に溺れている人、誘惑の世界の中でもがき、うめいている人々にイエス・キリストの福音を告げ知らせる「見張り人」へと成長させられているのです。

今朝、神はキリストの僕であるあなたを、「この町の見張り」をする者として選ばれました。あなたの周りにいる大勢の人々が悔い改めることを知らないまま滅びに堕ちて行くことのない為にです。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

 今朝、わたしたちは一昨年、この中原の地に会堂が与えられたことを覚えて、献堂を記念して礼拝をささげることができました。心から感謝します。今朝、あなたはまた、私たちの手にこの会堂を委ねてくださったことの深い意味を教えてくださいました。家を建て、町を守るという尊い使命に与っていることを思い起こさせるためでした。

私たちは今新たな思いで、「わたしとわたしの家は主に仕えます」とあなたにむかって告白します。同時に、この仙川キリスト教会に導かれた私たちはわたしが救われたことをもって満足することなく、この町に住む人々、私たちの家族、友人、地域に住む人々の救いのために、「見張り人」としてあなたに仕える者とならせてください。

イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。

         


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