【主日礼拝メッセ−ジ要約】                         2005年3月13日

 「ふるいにかけられる信仰」 
ルカによる福音書22章31節〜34節
 メッセージ:篠原健治兄  

 

31:「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
32:しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。
 だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
33:するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
34:イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
 

 イエス・キリストを自分の救い主と信じ、キリスト者(クリスチャン)になるためには、バプテスマ(洗礼)を受けなければなりません。それでは、バプテスマ(洗礼)を受ければ、あとは「左うちわ」の生活が保障されているという訳ではありません。主イエスの一番弟子シモン・ペテロも主イエスと共に死ぬ覚悟であることを表明しますが、あっさりと裏切ってしまいます。

 ところで、ある調査によると、せっかくバプテスマ(洗礼)を受けたのに、教会を去って行くクリスチャンの平均が「2.8年」であるとの報告がありました。「元クリスチャン」という方が、多くいるという衝撃的なデータでした。

教会を去っていく理由には、いろいろなものがあると思いますが、私達が信仰生活をまさに「死守」していくためには、次の3つを意識することが重要です。

1.私達の信仰が「小麦のようにふるいにかけられる」という現実があること。

2.サタンに「ふるいにかけられないように」祈るのでなく、「ふるい」に勝利できるように祈ること。

3.バプテスマ(洗礼)後も、御言葉を中心に信仰生活の基本を学び続ける。 上記の1〜3は、人間ができる努力の範囲です。忘れてならないことは、私達の信仰生活の背後で、主イエスが、信仰が無くならないように祈っていて下さる(31節)ということです。主イエスも、人々から、そして自分の父なる神から十字架という「ふるい」にかけられ、復活され勝利されました。最悪で最低の「ふるい」に勝利された方が、私達のために祈って下さっているのです。

   
福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝メッセ−ジ】                        2005年3月13日

 「ふるいにかけられる信仰」 
ルカによる福音書22章31節〜34節
 メッセージ:篠原健治兄  

 

 主イエスの受難週が近い今日の主日礼拝で、私達は、ルカ22:31−34の御言葉に耳を傾けていきます。

 

31:「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
32:しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。
 だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
33:するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
34:イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

 この主イエスと一番弟子シモン・ペテロの間の会話には「隔たり(ギャップ)」があることが解ります。

 シモン・ペテロは、どんなことがあっても主イエスに着いていくと表明しており、

一方、主イエスは、シモン・ペテロが呆気なく主イエスを裏切ることを預言しています。

しかも「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と極めて具体的です。

 

 さて、この31−34節を31−32の前半、33−34の後半と分けてみましょう。

 聖書をはじめて読んだ時、多くの人が「鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」の箇所があまりにも鮮烈なこともあって、後半の33−34節の「決して裏切りません」「いや、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」の方が印象的に残りがちです。

 しかし、後半の33−34節は、前半の31−32節があってはじめてある主イエスの御言葉です。

 ですから、今日、私達は、主に、主イエスが、前半の31−32節で何をシモン・ペテロに、そして私達ひとりひとりに語ったのかに耳をかたむけていきたいと思います。

 

31節をご覧下さい。

  31:「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」

 「小麦のようにふるいにかける」とあります。

 小麦を収穫する時、殻と小麦を分別する時に農家の方がやる作業で、小麦の束を背中の後ろに置き、器具めがけて、たたきつける作業のことです。

 主イエスは、シモン・ペテロが、小麦のように、たたきつけられること−迫害−を預言されています。確かにペテロは、主イエスの復活後、殉教していきます。

 

 32節をご覧下さい。 

次に「小麦のようにふるいにかける」という迫害を預言された後、主イエスは、

32:「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

と語っています。

 

 「小麦のようにふるいにかける」

 「信仰が無くならないように祈った」

 「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」

 主イエスのおっしゃっていることは、よく考えるとわからなくなることがあります。

よっぽど、シモン・ペテロの「私は決して裏切りません」の方が単純明快です。

 

 さて、主イエスは、この31−32節で何をペテロに、そして私達ひとりひとりに語ろうとしているのでしょうか。

 疑問点を整理してみたいと思います。

(1)「なぜ、サタンが、シモン・ペテロや私達が小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」のかということです。

神が、サタンの願いを聞き入れたというのです。

神が、サタンの願いを拒否して、私達の信仰が守れることが聞き入れられたのというのであれば話は分かります。

しかし、「現実は逆である」と主イエスは語っているのです。

 だれしも、イエスキリストを信じて、バプテスマを受け、信仰生活をスタートするのですが、信じた途端に「ふるいにかけられる」のは面倒だと思うのが人情です。

 ただえさえ、日頃、会社や家庭で「ふるいにかけられている」のに、

 そこからの救いを求めて、せっかく教会に来たのに、さらなる「ふるい、苦しみ」があるのではご免だ。もっともな意見だと思います。

 

(2)さらに、主イエスは「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と語っています。

 こういう人もいらっしゃるかも知れません。

 「私は、日頃、会社や家庭で、多くの『困難』(ふるいにかけられること)があるのに、とても兄弟たち(周囲)を力づけてやるなんて到底できない。」

 「むしろ、まず、私を力づけて欲しい」

 このような疑問をだれしも持つのではないでしょうか。

 主イエスを信じ、バプテスマ(洗礼)を受ければ、すべてが左団扇で、うまくいくというのであれば話は分かります。

 しかし、主イエスは、私達ひとりひとりに、私達の信仰が「小麦のようにふるいにかけられる」と語っているのです。

 主イエスは、ここで何を私達に伝えようとしているのでしょうか。

 主イエスは、地上における信仰生活の現実をハッキリと語っている−。

 シモン・ペテロが、主イエスの復活後、主イエス・キリストの福音を宣べ伝え、迫害を受け、殉教していきます。

 アジアの諸国−イスラム圏−では、キリスト教に対する迫害は多くあります。

 しかし、日本でキリスト者として生きていく上では、迫害が身近にあるわけではない。 だから、私達の信仰が「小麦のようにふるいにかけられる」ことはまずないと考えるのは日本における信仰の現状を捕らえていないと言えます。

 日本独自の、深刻な「小麦のようにふるいにかけられる」現実があるのです。

<事例>

 『キリスチャン新聞』の調査によると、せっかくバプテスマ(洗礼)を受けたのに、教会を去って行くクリスチャンの平均が「2.8年」であるとの報告がありました。

 日本の伝道がふるわない。なかなか1%の壁を越えられない背景に、実は教会の周囲には「元クリスチャン」という方が、多くいるという衝撃的なデータでした。

 日本バプテスト連盟でも、かつて「ザル教勢」という言葉があり、せっかくバプテスマを受けたのに、教会を去って行き、行方が分からない現状あるというものでした。

 せっかく救われても、ザルのようにどんどん漏れていく姿から「ザル教勢」と呼ばれているそうです。

 水に全身を浸す洗礼方式をとっているバプテスト教会が「ザル」とは言い得て妙だと感心したことがあります。しかし、感心ばかりはいられません。

 ある牧師は、「教会の外に伝道するより、教会員が教会(ザル)から漏れない方に力を入れていくことが、結局教会の教勢を伸ばしていくことになる」とまじめに語っていました。

 また、「2.8年」という現実を踏まえ、今、教会に残っている人は「奇跡」だとも語っていました。10年、20年の信仰生活、ましてや献身者は「奇跡を越えた奇跡」

だというのです。

 確かに、これらの意見は現実を踏まえたものだと思います。

 私は、反面、それでいいのかなとも疑問に思った次第です。

 いずれにせよ、日本には「2.8年」という数字に代表される日本独自の「信仰が小麦のようにふるいにかけられる」現実があるのです。

 

 教会を去っていく理由には、いろいろなものがあると思います。

 理由については、別な機会に考えていきたいと思いますが、「信仰が小麦のようにふるいにかけられる」現実の中が私達の周りにはあるのです。

 

 それでは、私達が信仰生活をまさに「死守」していくために、

 私は、次の3点を挙げたいと思います。

1.私達の信仰が「小麦のようにふるいにかけられる」という現実があることを意識することです。

 日本で、信仰生活を守っていく上で、いろいろな障害があることを知るべきです。

(1)仕事の忙しさ:礼拝が守れないぐらい忙しい。労働条件が厳しい現状があります。  「忙しい」の字は「己を滅ぼす」とは書いて字のごとくです。

(2)親戚つきあい:葬儀、お墓の問題など、日頃からキチンとした準備が必要です。

(3)信仰以外の誘惑:私達の周りには、楽しいものがいっぱい、すぐそこにあります。

          御言葉に聞き、個人的な祈りの時間を奪うものが多くある。

          相当意識してかからないと、サタンの誘惑に負けてしまう。

 つまり、日本は、異教の国であること。キリスト教に対する理解が十分でない。

 その中で信仰を守っていくことは、大変だということを意識していく必要があります。

 

2.サタンに「ふるいにかけられないように」祈るのでなく、「ふるい」に勝利できるように教会で共に祈っていくこと。

 だれしも、穏やかな人生を送りたいと願っています。

 なるべくなら信仰が「ふるいにかけられないように」祈りたいのが人情ですが、現実は先ほど挙げたいろいろな問題があるのです。

ですから、むしろ「ふるい」に勝利できるように祈っていくことが重要になるのです。

そして、一人で祈るではなく、キリストの体なる教会で、信仰の仲間と共に祈っていくことが重要です。

 主イエスの御言葉です。

 「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」
(マタイ18:20)

 自分がふるいにかけられる時は、信仰の仲間に祈ってもらう

逆に信仰の仲間が、ふるいにかけられる時は、仲間のために祈る。

 その中心に主イエスがいて下さるのです。

 「祈祷会」を主イエス共に、また信仰の仲間との闘いという意味を込めて「祈闘会」としてもいいのではないかと思う時があります。

 「ふるい」に勝利できるように教会で共に祈っていくことは、とても重要です。

 

3.バプテスマ(洗礼)後も、御言葉を中心に信仰生活の基本を学び続ける。

 教会生活の平均が「2.8年」になる背景には、バプテスマ準備クラスまでは熱心だった学びが、バプテスマを受けた後、「一丁あがり」、「待てました」とばかりにすぐ奉仕担当がやってくるという日本の教会の現実があります。

 小麦をはじめ、農作物は、雑草を抜き、水をやるなど手間暇をかけて生育するのです。

 バプテスマ後も、御言葉を中心に信仰生活の基本を丁寧に学び続ける必要があるのです。そうしないと、成熟したクリスチャンは育たないのです。

<事例>

 仙川教会でもかつて取り組んだ信徒訓練のテキスト『拡大する人生』があります。

この『拡大する人生』の原題は「サバイバル・キット(生き残るための道具)」です。

信仰生活はバプテスマを受けたら、後は放っておいても大丈夫ということはないのです。

まさに、私達が世の罪の渦から生き残るための道具として『拡大する人生(サバイバル・キット)』はあるのです。

 信徒訓練のテキスト『拡大する人生』は、私達の日本バプテスト連盟と関係があったバプテストメディアセンターが出版しているものですが、今、連盟の教会の中でこのテキストを使っている教会は少なく、むしろ他教派で熱心に用いられているとのこと。

 90年代、日本の教会は熱心に韓国の信徒訓練プログラムを取り入れていましたが、今では、過去の出来事−。単なる熱病だったのかと思うぐらい、冷め切っています。

 新会堂が建ち、伝道をしていこうとしている仙川教会は、バプテスマ後も、信仰生活の基本を学ぶように整えていくことはとても重要だと考えます。

 また、そのために、私自身、奉仕していければと願っています。

 

1.私達の信仰が「小麦のようにふるいにかけられる」という現実があること。

2.サタンに「ふるいにかけられないように」祈るのでなく、「ふるい」に勝利できるように祈ること。

3.バプテスマ(洗礼)後も、御言葉を中心に信仰生活の基本を学び続ける。 

 

 この1〜3は、人間ができる努力の範囲です。

ですから、1〜3をやれば自動的にすべてがうまくいくわけではありません。

忘れてならないことは、私達の信仰生活の背後で、主イエスが、信仰が無くならないように祈っていて下さるということです。

32:しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。

 だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 

 主イエスも、小麦がたたきつけられるように、人々から、そしてご自分の天の父なる神様から「ふるい」にかけられました。

 主イエスは、弟子から、人々から裏切りという「ふるい」にかけられました。

 シモン・ペテロをはじめ、寝食を共にした弟子達は、まさに蜘蛛の子を散らしたように、主イエスから逃げていきました。

 人々(群衆)からは、「ホサナ、ホサナ、神の子に栄光」と熱烈歓迎を受けたのに、主イエスが、自分たちの救いに役に立たないと判断すると、手のひらを返したように

「十字架につけろ」、「十字架につけろ」と「ふるい」にかけられました。

 

 さらに、主イエスは、ご自分の父なる神から十字架という「ふるい」にかけられたのです。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)

 神の子が、天の父なる神から見捨てられるという最低の「ふるい」が十字架です。

しかし、主イエスは、最低最悪の「ふるい」から復活され、勝利されたのです。

皆さん、最低最悪の「ふるい」に勝利されたお方が、私達一人一人ために

「信仰が無くならないように」今も祈っていて下さっているのです。

 

 皆さん、最低最悪の「ふるい」に勝利されたお方が、「教会の頭」として「信仰が無くならないように」祈って下さっているのです。

だから、教会で、共に祈る祈りは、一人で祈る祈りとは違ってくるのです。

 

 最低最悪の「ふるい」に勝利されたお方が、すぐそばにいてくださるから、私達は、また「立ち直って、兄弟たちを力づけること」ができるのです。

このことを信じる時、私達の信仰が、どんなに小麦のようにたたきつけられ、ふるいにかけられても動じないのです。

私達は、サタンの「ふるい」に決して負けません。

 なぜなら、ふるいに勝利し、復活の主イエスが、教会の頭として、今も生きていて下さるからです。

 

私達は、サタンの「ふるい」に決して負けません。

なぜなら、ふるいに勝利し、復活の主イエスが、今も、私達の信仰がなくならないように祈っていて下さるからです。

私達は、サタンの「ふるい」に決して負けません。

 なぜなら、ふるいに勝利し、復活の主イエスが、今も、私達と共に生きて下さり罪との闘いに共に闘っていて下さるからです。

 

最低最悪の「ふるい」に勝利されたお方が、次のように語って下さっているのです。

 

32:しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。

 だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

                                   祈ります。

 

<祈り>

 天の父なる神様、地上の信仰生活では、多くの「ふるい」があります。

 私達の信仰は、その「ふるい」に負けそうになることも多々あります。

 その時、人間の力で解決するのではなく、最低最悪のふるいである「十字架」に勝利された主イエスを見上げながら、主イエスと共にこの世の闘いに勝利していくことが

できますように。

 特に、せっかくバプテスマを受けたのに、教会を去っていった多くの兄弟姉妹を覚えると胸が痛みます。私達がなすべきことがあったら、そのことを指し示して下さい。

主よ、私達ひとりひとりの信仰が、勝利することができますように。

 この祈りを、十字架というふるいに勝利された、主イエスキリストの御名で祈ります。 アーメン。

 


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む