【主日礼拝メッセ−ジ要約】                         2005年3月20日

 「真に神の子」 

マルコによる福音書15章33−41節

 メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 イエス・キリストは十字架上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びを発せられました。これを聞いた百人隊長の一言がわたしたちの心を捉えます。彼は、「本当に、この人は神の子であった」と告白しました。ある書物によると、ローマ軍団の百人隊長は、戦時はもちろん、平時においても重要な任務につきます。今日で言えば憲兵隊長のようなものでしょうか、規律に違反した兵士や帝国を危うくするような犯罪者の処罰、処刑に立会います。時には皇帝の命令とあれば貴族に対しても逮捕特権を持っていたそうです。ですから職務上、これまで沢山の死刑囚が、それぞれどういう最後を遂げるか見てきたことでしょう。彼にとってイエスの叫びは、たかが一死刑囚の断末魔と片付けてしまうことのできない、何か神聖なものを感じ取ったのです。

 そこにおられるのに答えて下さらない父なる神を信頼して、キリストはなおも激しい叫びと涙とをもって祈られたのです。しかも、「父よ」と祈らず、「わが神」と祈ります。このように神のみ子イエスが、あえて人間的な呼びかけをすることで、私たち人間の心を上なるお方に向けさせます。

 わたしたちの信仰生活でも、祈っても、祈っても答えられないことが一再ならずあります。そのような時、わたしたちの心には、ふと神など元々いなかったのではないか。いないものに向かって空しく念じていただけではなかったのかという不信と疑惑の念を持つことがあります。しかし、今日の御言をじっくり読み返して下さい。祈れども答えが得られない苦しみを通して、わたしたちに一つの大切な事実を思い起こさせてくれます。今答えが得られないとしても、神は確かにあなたの祈りを聴いておられるのです。御言にありますように、天の父は、わたしの罪を救うためにご自身の愛するみ子イエスを十字架の上にお見捨てになったのです。これが神の愛の方法だったのです。

   
福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝メッセ−ジ】                    2005年3月20日

 「真に神の子」 

マルコによる福音書15章33−41節

 メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 今日からの一週間を、「キリスト受難週」と言います。特に今日の日曜日を「パームサンデー」と言って、棕櫚の枝を道に敷いて歓迎する群衆に囲まれてロバの子に乗った主イエスがエルサレムに入城して来られたことを記念する日ですが、その様子について、またキリストが不当な裁きで有罪にされた木曜日までの一つ一つの出来事について、わたしたちは既にこのマルコによる福音書を順次読んできました。それで、今朝は一足早く、金曜日の出来事、十字架に上げられた厳粛な瞬間について学ぶことに致しましょう。

 今読んで頂いたように、著者マルコは十字架上のイエスを見つめる人々にも注目していることが分かります。マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメという女性の弟子たち、更に名前は分かりませんが、他の女性信者もいます。死刑とはもちろん犯罪者に対する究極的な懲らしめの意味があります。同時に一般社会に対する見せしめの意味も当然含まれています。それでローマ帝国はこれを公開で行いました。ここには書かれていませんが、他の福音書ではイエスの母マリアも、使徒ヨハネと共にそこにいたようです。彼らは皆どんな思いで十字架上のイエスを仰ぎ見ていたことでしょう。とりわけ母マリアの胸は張り裂けんばかりであったことと察せられます。しかしまた彼らは気丈な人たちだったなあという思いもあります。最後までイエスの死を見届けようとしているのですから。こういった人たちがいてこそ十字架のイエスのことが2000年を経た私たちにも正しく伝えられているのです。

 十字架を仰ぎ見ている人々は他にも沢山いましたが、特に一人のローマ兵の言葉がわたしたちの心を捉えます。百人隊長です。ある書物によると、ローマ軍団の百人隊長は、戦時はもちろん、平時においても重要な任務につきます。今日で言えば憲兵隊長のようなものでしょうか、規律に違反した兵士や帝国を危うくするような犯罪者の処罰、処刑に立会います。時には皇帝の命令とあれば貴族に対しても逮捕特権を持っていたそうです。ですから職務上、これまで沢山の死刑囚が、それぞれどういう最後を遂げるか見てきたことでしょう。その百人隊長が十字架の上で息を引き取られたイエス・キリストを見て、「本当に、この人は神の子だった」と感銘を深くして言いました。彼にとってイエスの叫びは、たかが一死刑囚の断末魔と片付けてしまうことのできない、何か神聖なものを感じ取ったのです。いったい何が彼をイエスのとりこにしてしまったのでしょうか。一つは全地が3時間に及んで暗闇になってしまったことでしょうか。そして何と言っても主イエス・キリストがあの時十字架の上で残された七つの言葉の一つ一つを、一番そばでしっかりと聞くことができたからではないでしょうか。この福音書ではその内一つだけ紹介し、もう一度は何事か大声を出して息を引き取られたということです。

 先ず、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という叫びです。神に見捨てられた神の子の叫びです。25節にイエスを十字架につけたのは午前九時であったということです。そして正午から三時に及んで全地が暗くなったというように、著者はえらく時間を気にして書いています。これには何か意味があるのでしょうか。大いにあります。敬虔なユダヤ人にとって朝の9時、昼の12時、夕方の3時は祈りの時間です。イエスはその間七つの言葉を語り、その内三つは父なる神に対する祈りの言葉です。マルコが書いている「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とは、全地が3時間に及んで暗くなった後の最も悲痛な祈りであり、叫びです。

 ある人が、この3時間の暗黒について、「父なる神」が十字架上の従順なみ子イエスを喜びながらも、全世界の人々を罪の泥沼に陥れている、憎むべきサタンが勝ち誇ったように十字架にとぐろ巻いている姿を前にして、思わず御顔を背けられたので、太陽さえその輝きを失ってしまった。それがあの3時間の暗闇ではなかったかと言います。私もその解釈でよいのではないかと同感です。

 み子イエス・キリストはその時、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びを発せられたのです。しかし、この一見絶望的とも思える叫びも注意深く読みますと、決してそうではありません。むしろ天父に対する信頼から来る叫びだということが分かります。どうしてそんなことが言えるのでしょうか。この叫びは詩22編2節(p.852)からの引用ですが、ご一緒にそこを開いてみて下さい。イエス・キリストは、天父に対して、「わが神」と呼びかけておられるのです。神はいないのではなく、沈黙して答えてくださらないだけなのです。み子イエスには天父がそこにおられるのが見えているのです。そこにおられるのに答えていただけないその切ないお心がこの叫びとなったのです。ヘブル人への手紙の著者はイエス・キリストを全人類の大祭司と呼んで、次のように証しています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。……キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」(4:15,5:7)と。

 キリストは、そこにおられるのに答えて下さらない父なる神を、なおも信頼して、激しい叫びと涙とをもって祈られました。しかも、「父よ」と祈らず、「わが神」と祈られたのです。「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」方の祈りです。この祈りこそみ子でありながら、み子であることに固執しないで、人間的な呼びかけをすることで、私たち人間の心を上なるお方に向けさせます。そして、このイエスの祈りこそ、百人隊長をして、むしろ「本当にこの人は神の子であった」と告白させる力となったのです。思えばイエスは、ピラトによる屈辱的な裁判の中で先ずバラバに代わって彼の罪を贖って下さいました。そしてあの十字架の上で激しい叫びと涙の内に一人の異邦人、ローマの百人隊長をして信仰の告白へと導いてくださいました。

 わたしたちの信仰生活においても、どんなに熱心に祈っても神の答えが得られないとが一再ならずあります。そのような時、わたしたちの心には、ふと神など元々いなかったのではないか。いないものに向かって、ただ空しく念じていただけではなかったのかという不信と疑惑の雲が湧き上がります。しかし、今日の御言をじっくり読み返して下さい。祈れども答えが得られない苦しみを通して、わたしたちに一つの大切な事実を思い起こさせてくれます。今答えが得られないとしても、神は確かにあなたの祈りを聴いておられるのです。天の父は、わたしたちの罪を救うためにご自身の愛するみ子イエスを十字架の上にお見捨てになったのです。これが神の愛の方法だったのです。

 いかがでしょうか。今朝、あなたは、「このわたしこそバラバに等しい犯罪人、わたしこそイエスの死を傍観していた百人隊長にも似た異邦人であった」ということを自覚することができたでしょうか。もし、そうなら、あなたも今すぐ、この百人隊長と共に、「本当に、この人こそ、神の子キリストです」と告白しなければなりません。   祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

今朝も命の御言を頂くことができました幸いを心から感謝します。

 主イエス・キリストは十字架の上で叫ばれました。しかし、わたしたちは、自分の苦しみを主の苦しみよりも大きく、深刻なものと思い込んでしまいます。祈りを聞いてくださるあなたが見えないからといって、不満や愚痴をこぼしてしまいます。

 しかし、今ようやく分かりました。主はこんなに自分勝手で、高慢な者のために、あの十字架の上で激しい叫びと涙を持ってわたしたちの罪を一切合財贖いとって下さったのだということをです。主よ、今わたしたちはあなたの御前にこれまでの罪の全てを告白し、悔い改めます。そして、あなたのみ子イエス・キリストがわたしの罪を救うために死んでくださったことを信じます。どうかこの真実な祈りを聞き入れてください。

わたしたちの救い主イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む