【グッド フライデー特別礼拝メッセ−ジ要約】                         2005年3月25日

 陰府に下る 

マルコによる福音書15章42-47節

 メッセージ:高橋淑郎牧師

 イエス・キリストは私たちの罪の為に死んで後に、アリマタヤのヨセフによって葬られましたが、では葬られた後、復活されるまで、主イエスの霊はどこにおられたのかという疑問が残ります。「使徒信条」というものがありますが、それによると、「イエス・キリストは陰府にくだり」と告白されています。それは聖書のどこに書かれているのでしょうか。

 キリストは、「『昇った』という以上、また地下の低い底にも降りてこられた。」(口語訳、エフェソ4:9)のです。ユダヤ人が「地の底」、また、「地下の低い底」というとき、それは死者が神の最後の審判に備えて葬られた「陰府の世界」です(イザヤ44:23)。使徒ペトロによると、キリストは肉において死んだ後、霊において陰府の世界に眠る神の預言者、またキリスト者のところに下ってゆき、「福音を告げ知らされた」(气yトロ4:6)のです。その福音の内容とは、「眠りについている者、起きよ、死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」(エフェソ5:14→イザヤ書26:19からの引用)といわれている通り、陰府の世界に眠る神の預言者、またキリスト者に永遠の命へと引き上げる宣言を指すのです。

 以上のように、キリストにあって死んだ者も、邪悪で不信仰な者も肉においては共に死に、墓の下に葬られますが、主キリストは墓の下にまで降って行き、キリストにあって死んだ者に向かって、「眠っている者よ、起きなさい。」と御許に引き上げて永遠の命を賜るという福音をもたらして下さるのです。これが十字架に死んで葬られたキリストが復活の朝を待つ間に成し遂げられた御業です。

   
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【グッド フライデー特別礼拝メッセ−ジ】                         2005年3月25日

 陰府に下る 

マルコによる福音書15章42-47節

 メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 私たちは今夜グッドフライデー特別礼拝を献げるため、ここに集められました。イエス・キリストが私たちの罪の為に死んで葬られたのは、金曜日の夕方です。間もなく安息日が始まる日没までにイエスの遺体を埋めなければなりません。旧約聖書によると、「死体は木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」(申命記21:23)とあるからです。しかもこの安息日は過越の祭りと重なる重要な日です。それでアリマタヤのヨセフは急いでイエス・キリストを葬ろうとしているのです。今日の聖書の箇所から多くのことを学ぶことができるのですが、今夜は特に、葬られた後、復活されるまで主イエスの霊はどこにあるのだろうかという一点についてのみ、主の御言に聴いてまいりましょう。

 多くのキリスト教会では主日礼拝で、「使徒信条」というのを告白しています。ご存じない方の為に一通り読みます。と言っても文語体なので、意味の分からない言葉もあるかもしれませんが、聞き流して下さい。

 「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審き給わん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命(とこしえのいのち)を信ず。アーメン。」

 素晴しいと思いませんか。それなのにバプテスト教会の多くはこれを礼拝の中で告白することを避けています。どうしてでしょうか。「聖なる公同の教会を信ず」という部分のためです。バプテスト教会はカトリック教会や、教団と呼ばれる教派の教会と違って、公同の教会ではなく、地方教会だからです。各個教会主義を貫く群れだからです。でも、このたった一つの違いの為に、使徒信条全体を否定するのは、もったいない気もします。そこで、「我は公同の教会を信ず」というところを、「我はキリストの体なる教会を信ず」と言い替えて、後はそのまま告白するというのはどうでしょうか。しかし、今日はこういうことを論じる為に、使徒信条を持ち出したのではありません。今夜皆さんと共に学びたいのは、「主は十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」という部分であります。

 ここで皆さんとご一緒に考えたいのですが、イエスご自身は死後どうなったのでしょうか。三日目の復活までの間どこで何をしておられたのでしょうか。先ほどの使徒信条では、「イエス・キリストは陰府にくだり」と告白されています。本当でしょうか。信じてよいのでしょうか。そんなことは聖書のどこに書かれているのでしょうか。

 使徒パウロは、「『昇った』というのですから、低いところ、地上に降りておられたのではないでしょうか。」(エフェソ4:9)と言ったということです。しかし、ここは初めに翻訳者の解釈ありきという訳し方のように思えてなりません。ほとんどの新約聖書は口語訳聖書のように、「さて、『昇った』という以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。」と訳されています。ここには新改訳聖書をお持ちの方もおられますので、ちなみに新改訳聖書を見ましても、「この『上られた』という言葉は、彼がまず地の低い所に「下られた」ということでなくて何でしょう。」と訳されていて、更にその脚注にはイザヤ44:23を参照するようにと説明されていますので、そこを開きますと、今度はわたしたちが手にしている新共同訳聖書にもはっきり、「地の底」と訳されています。ユダヤ人が「地の底」、また、「地下の低い底」、或いは「地の低い所」というとき、それは地上を指すのではなく、まさに地の底、死者が神の最後の審判に備えて葬られたところ、ヘブル語でシェオール。ギリシャ語でハデスと言われている「陰府の世界」のことです。使徒パウロは、主イエス・キリストは復活に備えて、地下の低いところ、すなわち陰府の世界にまで身を置いて下さったと言っているのです。また使徒ペトロも、「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」(1ペトロ4:6)と書き送っています。ある教派の教会ではこれをもって煉獄という世界があると考えますが、そういう意味ではありません。ルカによる福音書16:19−31(p.141)を見ると、主イエスによって陰府の世界のことが語られていますが、アブラハムの膝の上で慰められている信仰者ラザロのいる世界と、神を神とも思わず、人を人とも思わない人生を貫いた金持ちが炎に包まれてもがいている世界の二つに、すでに分けられているのです。わたしたちの主イエス・キリストは、永遠の住まいを天に求めながら召されたキリスト者、神の預言者のいる地下の低いところに降りて行って、福音を告げ知らされたのです。では、ここに言われている福音の内容は何でしょうか。使徒パウロはこれを受けて、「明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者、起きよ、死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」(エフエソ5:14)と書き送っています。これは旧約聖書からの引用だとかぎ括弧で断っています。どこかというと、引照付き聖書をお持ちの方は、脚注をご覧になるとわかりますように、イザヤ書26:19と60:1(p.1100及びp.1159)を参照しなさいと言っています。イザヤ書26:19をご一緒に読んでみましょう。

 「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。」

 

 キリストにあって死んだ者も、邪悪で不信仰な者も肉においては共に死に、墓の下に葬られますが、主はキリストにあって死んだ墓の下にまで降って行き、「眠っている者よ、起きなさい。」と御許に引き上げる福音をもたらして下さるのです。それが復活の日に備えて陰府に下られたキリストの大いなる御心であったと言うことができます。 このことで分かるように、死後の世界は悔い改めの機会を自ら放棄した不信仰者のために備えられた世界と、キリストにあって眠った者が復活の朝を待つ世界のことです。陰府とは決して「地獄」を意味しません。また、不信仰者のために敗者復活の望みとして、人間が勝手に考え出した「煉獄」を意味するものでももちろんないのです。悔い改めの機会は、地上に生かされている間に限定されているのです。

 以上のように、わたしたちがすべての道で主を認めることができるように、主イエス・キリストはこの世にあって罪びとを救う道を十字架の上に完成したのみか、救いに与った者の行くべき死後の世界においても先導してくださっているのです。旧約聖書の詩人は高らかに讃美して歌います。「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。」(詩139編8節)

 だからイエスが十字架に死んで葬られたこの日は縁起の悪い、悲しむべき日ではなく、喜び感謝すべきよき日、グッドフライデーなのです。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたのお名前を心から崇め、讃美します。

 今宵、キリストのご受難を覚える特別礼拝に招いて下さいましたことを心から感謝します。あなたはその独り子をこの世にお遣わしになり、わたしたちを救うために、十字架のきわみまでその愛を貫いて下さいました。それだけではなく、信仰を持って召された者が、その先どうなるのかという疑問にも、多くの預言者や使徒たちを通して、既に約束されていたことを明確にお示し下さいましたから、わたしたちはこの上ない平安と喜びと感謝に満たされています。主よ、あなたのみ前にある求道中の魂に、今どうぞ語りかけ、あなたを信じる決意へと導いてあげてください。救い主イエス・キリストのお名前によってお願いします。 アーメン。


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