【イースター礼拝メッセ−ジ要約】                        2005年3月27日

 イエスを捜す 

マルコによる福音書16章1-8節

 メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 天使があの大きな石をわざわざ取り除いて、イエスの復活の喜びを伝えてくれたのに、マグダラのマリアとその仲間は喜ぶどころか、恐ろしさが先に立って、震え上がり、正気を失い、口を閉じてしまいました。これがマルコを通して伝えられたイースター物語です。ここにはイエスが復活されたという喜びの片鱗も見られません。しかも、この福音書は8節で事実上閉じられているのです。如何にもマルコらしい終わり方だなあと思います。マリアたち女性信者が、信じようが信じまいが、11人の弟子たちがどう受け止めようが、事実イエスは復活されたのだと力強く証をして筆を置いているのです。

 そして同時に、読者であるわたしたちに、「これを信じるも信じないも、あなたの決断にかかっている。さあ、どうする。」と問いかけているのです。今日示された聖書の箇所をもう一度よく見てみましょう。天使のメッセージを受けたマリアたちは、イエスの復活を信じられないとは言っていません。その瞬間、ただ、恐ろしかったのです。他の福音書には、マグダラのマリアはその後、ペトロやヨハネといった使徒たちのところに行って、「主は甦られた」と告げ回っているのです。ナザレのイエス、肉の身体を持つイエスを捜し求めていた彼らには、栄光の身体を持って甦られたイエス・キリストを現実のこととして受け入れるには時間が必要だったのかもしれません。

 天使はイエスの甦りについて語るとき、あえて彼女たちに、「ナザレのイエスを捜しに来ても、ここにはおられない」と言いました。地上的なイエスを捜し求めても、もはやここにはおられないのです。今は勝利の主として復活されたからです。マリアたちがこのことを正しく受け止めることができたとき、力強く、「イエスは甦った」と告げ回るメッセンジャーとして用いられて行きました。

   
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【イースター礼拝メッセ−ジ】                         2005年3月27日

 イエスを捜す 

マルコによる福音書16章1-8節

 メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 安息日が終わったのは、太陽暦で言う土曜日の日没です。この時刻から一週の初め、日曜日に入るのです。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメはイエスの遺体に油を塗るために安息日が終わった土曜日の間に香料を買っておいた。というところからイースターの物語は始まります。彼らはその香料でイエスの遺体に塗る油の調合をしながら夜明けを待っていたのでしょう。そして日曜日の朝早く、彼女たちは日の出と共に墓へ行きましたが、一つ問題があります。墓を封印しているあの大きな石を誰が動かしてくれるかということです。男の弟子が来ているだろうから、その人たちに頼んでみよう、そんな望みを抱いて、とにかく墓に向かって歩き始めました。やがて前方にイエスの墓が見えてきます。何と、墓の入り口に石は見えず、ぽっかり穴が開いているではありませんか。やはり誰かが来て、石を取り除けてくれたのだと、足早に近づいて行くと誰もいません。入ってみると、そこには弟子の代わりに見知らぬ若者が座っています。若者は、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。……さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」と言いました。この若者とはいったい誰でしょう。神のみ使い、天使です。あまりの出来事に彼女たちはただ恐ろしくなり、誰にも何も言わず、家に逃げ帰ってしまいました。

 天使があの大きな石をわざわざ取り除いて、イエスの復活の喜びを伝えてくれたのに、マグダラのマリアとその仲間は喜ぶどころか、恐ろしさが先に立って、震え上がり、正気を失い、口を閉じてしまいました。これがマルコを通して伝えられたイースター物語です。ここにはイエスが復活されたという喜びの片鱗も見られません。しかも、この福音書は8節で事実上閉じられているのです。9−20節は、後から誰かがマルコの名を借りて付け加えたのではないかと言われています。このことは次週学ぶことにしますが、もし、本当にこの福音書が8節までで終わっているとしたら、何か消化不良の感を否めません。福音書を読む私たちとしてはやはり、「めでたし、めでたし」で終わってほしいのです。

 しかしまた一面、如何にもマルコらしい終わり方だなあとも思うのです。著者マルコは言います。マリアとその他の女性信者たちが信じようが信じまいが、11人の弟子たちがどう受け止めようが、事実イエスは復活されたのだと証をして筆を置いています。復活の主はガリラヤで待っておられることをペトロたちに告げよ、という天使の力強いメッセージでこの福音書を一応閉じているのです。同時に著者マルコは、読者であるわたしたちに、「これを信じるも信じないも、あなたの決断にかかっている。さあ、どうする。」と問いかけているのです。

 今日示された聖書の箇所をもう一度よく読み直しましょう。天使のメッセージを受けたマリアたちは、イエスの復活を信じられないとは言っていません。ただ、恐ろしかったのです。他の福音書を見ると、マグダラのマリアは後で、使徒ペトロやヨハネの所に行って、「主は甦られた」と告げ回っています。ナザレのイエス、肉の身体を持つイエスを捜し求めていた彼らには、栄光の身体をもって甦られたイエス・キリストを現実のこととして受け入れるに時間が必要だったのです。

 天使はイエスの甦りについて語るとき、あえて彼女たちに、「ナザレのイエスを捜しに来ても、ここにはおられない」と言いました。ナザレのイエス・キリストは十字架に勝利をし、今は勝利の主として復活されたからです。マリアたちがこのことを正しく受け止めることができた時、「イエスは甦った」と告げ回るメッセンジャーとして用いられて行きました。

 イスラエル旅行の経験のある方は、案内人から聖墳墓教会と呼ばれる会堂の前で、「イエスが葬られたとされる場所はここです。」と説明を受けたかもしれません。真実かどうか誰も分かりません。仮にそこがイエスの墓であったとしても、重要な意味を持つのではありません。大切なのは、イエスは復活して、もうそこにおられないということです。

ある教会の礼拝に出席したことがあります。メッセージの前に一人の方が次のように信仰の証をされました。

 「イエス・キリストが十字架に死んで、今も墓がそのまま残り、そこに埋葬されたままであるなら、彼は神ではないから信じられない。しかしわたしたちの罪のために、十字架に死んで葬られたその墓が空っぽであることを聖書がはっきりと示しているから、わたしはこの方によって罪が赦され、復活の命、永遠の命を受けることができたとはっきり信じることができます。」と。

 今日一人の兄弟がイエス・キリストを個人的な救い主と心に信じたことを言葉で告白しました。使徒パウロは、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」と言います(ローマ10:10)。引き続き、教会は今から彼にバプテスマを授けます。それは、主イエスを救い主と信じた者に、「バプテスマを授けよ」と復活の主が命じておられるからです(マタイ28:20)。このバプテスマにはどのような意味があるのでしょうか。それは、古い罪びとの大河内保男さんが、十字架に贖いの業を成し遂げてくださったキリストと共に死んで葬られ、復活のキリストと共に、神の子、キリストのからだである教会(神の家族)の一員である大河内保男兄として新しく生まれたことを記念するためであります。

 ここに水があります。今、イエス・キリストを救い主と信じて告白するなら、あなたもバプテスマを受けて差し支えないのです。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

 ナザレのイエスを捜しているマリアに、「あの方はもうここにおられない」と天使は告げました。主イエスは甦られたからです。そして今も生きてわたしたちの神、救い主として世を統べ治め、親しく内住し、信仰の共同体に臨在しておられます。主が甦って下さったことにより、私たちはもう死の支配から解放されているからです。心から感謝します。

 しかし、今朝イースターの喜びを分かち合い、感謝の礼拝を共に献げることのできない友のことが思い出されます。主よ、どうか彼らの上にも、あなたからでなければ受けることのできない平安と慰めをお与え下さい。そして、次週共にこの場に導いて下さいますよう、わたしたちの救い主イエス・キリストの尊い御名によって願いあげます。アーメン。


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