【主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2005年5月22日

                「砕く石、築く石、基の石

ダニエル書第2章1節〜49節
コリントの信徒への手紙一3章11節
メッセージ:篠原健治協力牧師

                     

1.王の見た夢とその解釈

 ネブカドネツァル王は、夢を見て不安で、眠れなくなりました。王は、自分の夢を説明させようとしますが、だれもできません。神の力を受けたダニエルだけ が、王の見た夢を完全に再現し、解釈を行うことができました。

 王の見た夢と〔ダニエルによる夢の解釈〕は以下の通りです。

31:王様、あなたは一つの像を御覧になりました。それは巨大で、異常に輝き、あなたの前に立ち、見るも恐ろしいものでした。32:それは頭が純金〔バビロン〕、胸と腕が銀〔ペルシャ〕、腹と腿が青銅〔ギリシャ〕、33:すねが鉄〔ローマ〕、足は一部が鉄、一部が陶土でできていました。〔ローマ帝国の分裂〕34:見ておられると、一つの石〔神の国〕が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。35:鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、夏の打穀場のもみ殻のようになり、風に吹き払われ、跡形もなくなりました。その像を打った石〔神の国=教会〕は大きな山となり、全地に広がったのです。

2.実現した預言

 当時の世界を支配した国々は、ダニエルの解釈(預言)の通りに実現しました。また「人手によらずに切り出された石」=「教会」は、大きな山となり、今日、全世界に広がっています。

3.イエス・キリストを土台とする。

 頭が純金のこの像は、なぜ「人手によらず切り出された石」によって足元から呆気なく木っ端微塵に砕け、跡形もなくなったのでしょうか。それは、足下(土台)が鉄と陶土でできていて、とてもバランスが悪かったからです。教会も私達の人生も「朽ちない石」であるイエス・キリストを基礎としないと、どんなに頭や胴体が立派でも、ダニエルの預言の通り、呆気なく崩れるのです。

 「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(コリントの信徒への手紙一3章11節)

 

   
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【主日礼拝メッセ−ジ】                                 2005年5月22日

砕く石、築く石、基の石
ダニエル書第2章1節〜49節
コリントの信徒への手紙一3章11節
メッセージ:篠原健治協力牧師

                   

 南ユダ王国から、捕虜として、バビロン帝国に連れてこられたダニエル達は、ネブカドネツァル王がいる宮殿で生活をするようになりました。

 捕虜生活と言っても、第二次世界大戦中、多くのユダヤ人が犠牲となった強制収容所や、日本人が犠牲となったシベリア抑留とは違って、ダニエル達は、身体的な拘束は少ないようでした。第1章で見てきたように、ダニエル達には、豊かな食事が振る舞われていました。しかし、身体的な束縛がなかったとしても、ダニエル達にとっては、律法で禁じられている肉類を食べなければならないという精神的苦痛がありました。ダニエル達は、妥協しないで、自分を生かしていて下さる神を信じて、野菜だけを食べ、むしろ元気に生活していました。

 そして、第2章に続きます。

1:ネブカドネツァル王が即位して二年目のことであった。王は何度か夢を見て不安になり、眠れなくなった。

2:王は命令を出して、占い師、祈祷師、まじない師、賢者を呼び出し、自分の夢を説明させようとした。

 

 第2章は、ネブカドネツァル王が見た夢を王の前でダニエルが再現します。

 さらに、ダニエルは、王の見た夢を神様からの重要なメッセージ「預言」として解釈をしていきます。

私達は、この第2章から、

1.ダニエルが王の見た夢を解釈するまでに遭遇した危機をどう乗り越えたのか。

2.ダニエルの夢の解釈がその後の世界の歴史をどのように預言していていたのか。

3.「人手によらずに切り出された石」を基礎とする教会とは何なのか。

 について、御言葉に聞いていきたいと思います。

 

1.ダニエルが王の見た夢を再現し解釈するまでのプロセス

 

 ダニエルが、王の見た夢を解釈するまでに大きな危機が人々を襲います。

5:王は賢者たちに答えた。「いいか、わたしの命令は絶対だ。

もしお前たちがわたしの見た夢を言い当て、その解釈をしてくれなければ、お前たちの体を八つ裂きにし、お前たちの家も打ち壊す。

6:しかし、もしわたしの見た夢を言い当て、正しく解釈してくれれば、ほうびとして贈り物と大いなる名誉を授けよう。だから、その夢を言い当て、解釈してみよ。」

 

 王は、自分の見た夢を正確に「再現」するように命じて、かつその見た夢を正しく「解釈」するように要求します。

皆さんも経験があるかと思いますが、夢というものは、見た本人ですら記憶が曖昧なのに、それを、第3者に正確に再現するように命じること自体が無理な命令です。

 そして、再現した夢を正しく解釈をすることも大変です。ネブカドネツァル王は、自分の見た夢を正確に「再現」し、かつ正しく「解釈」できなければ、体を八つ裂きにし、家(家族)も殺すと言います。反対に、正しく再現し、解釈した者には、ほうびと名誉を与えるというのです。

10:賢者たちは王に答えた。「王様のお求めに応じることのできる者は、この地上にはおりません。大王や支配者の中のだれも、そのようなことを占い師、祈祷師、賢者に求めたことはございません。

11:王様のお求めになることは難しく、これに応じることのできるのは、人間と住まいを共になさらぬ神々だけでございましょう。」

−もっともな王への進言といえます。

12:王は激しく怒り、憤慨し、バビロンの知者を皆殺しにするよう命令した。

 ここまで、わがままな王も珍しいなと思いますが、王の命令ですから絶対です。

 

 そして、ダニエル達が登場します。

13:知者を処刑する定めが出されたので、人々はダニエルとその同僚をも殺そうとして探した。

14:バビロンの知者を殺そうと出て来た侍従長アルヨクにダニエルは思慮深く賢明に応対し、

15:この王の高官アルヨクに尋ねた。「どうして王様はこのような厳しい命令を出されたのですか。」

アルヨクはダニエルに事情を説明した。

ダニエル達に絶体絶命の危機が訪れます。そして、ダニエルはその危機をどう乗り越えたでしょうか。

 

16:ダニエルは王のもとに行って、願った。「しばらくの時をいただけますなら、解釈いたします。」
17:ダニエルは家に帰り、仲間のハナンヤ、ミシャエル、アザルヤに事情を説明した。
18:そして、他のバビロンの賢者と共に殺されることのないよう、天の神に憐れみを願い、その夢の秘密を求めて祈った。

 

 この17節、18節から、私達は、ダニエルから学ぶべき点があると考えます。

17:ダニエルは家に帰り、仲間のハナンヤ、ミシャエル、アザルヤに事情を説明した。

 ダニエルは、この危機・問題を「一人で抱え込まなかった」ということです。

ダニエルは、才能や賜物に溢れる優秀な人物です。

 とかく、優秀な人は、問題があると恥ずかしいのか、自分一人で問題を解決しようとします。

 しかし、ダニエルは直面する問題を信仰の仲間に話し、共に祈ってもらうようにします。

 私達は、教会でも、もっとお互い自分の抱える問題を分かち合い、祈っていくことが必要ではないでしょうか。

 先週、私達は聖霊降臨−ペンテコステ−礼拝を捧げましたが、神の力である聖霊は、個人的にも来ますが、まず人々が寄り集まる所に来て下さるのです。

18:そして、他のバビロンの賢者と共に殺されることのないよう、天の神に憐れみを願い、その夢の秘密を求めて祈った。

ダニエル達は、自分たちの危機だけの解決を求めるのではなく、異教徒であるバビロンの賢者たちのためにも祈っているのです。なんと壮大な祈りでしょうか。

そして、神様は、ダニエル達の祈りに応えて下さいました。

19:すると、夜の幻によってその秘密がダニエルに明かされた。ダニエルは天の神をたたえた。

 

2.ダニエルによる夢の再現と解釈

 神様から解答を得たダニエルは、王の前に進み出て、王の見た夢を再現し、解釈を始めます。

 

(1)王の見た夢の再現

31:王様、あなたは一つの像を御覧になりました。それは巨大で、異常に輝き、あなたの前に立ち、見るも恐ろしいものでした。
−どんな像であったか、私達も頭に描いてみましょう。
32:それは頭が純金、胸と腕が銀、腹と腿が青銅、
33:すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土でできていました。

 

(2)王の見た夢の解釈

36:これが王様の御覧になった夢です。さて、その解釈をいたしましょう。
−先ほど、皆さんが頭に描いた像を頭から見ていきましょう。
37:王様、あなたはすべての王の王です。天の神はあなたに、国と権威と威力と威光を授け、
38:人間も野の獣も空の鳥も、どこに住んでいようとみなあなたの手にゆだね、
 このすべてを治めさせられました。すなわち、あなたがその金の頭なのです。
−金できている頭。
39:あなたのあとに他の国が興りますが、これはあなたに劣るもの。
−銀でできた胸と腕は、二番目に興る国。
その次に興る第三の国は青銅で、全地を支配します。
−青銅でできている腹と腿は第三の国。
40:第四の国は鉄のように強い。鉄はすべてを打ち砕きますが、あらゆるものを破壊する鉄のように、 この国は破壊を重ねます。
−鉄でできた足のすねは、第四の国。
41:足と足指は一部が陶工の用いる陶土、一部が鉄であるのを御覧になりましたが、
そのようにこの国は分裂しています。鉄が柔らかい陶土と混じっているのを御覧になったように、
この国には鉄の強さもあります。
42:足指は一部が鉄、一部が陶土です。
−鉄と陶土(粘土)でできた足の指

 

(3)王の見た夢の像の意味

 ここで、王の見た夢の像を整理しながら、体の各部分が、その後世界を支配する国々を表した預言であることを確認していきたいと思います。

@金でできた頭は〔バビロン〕

A銀でできた胸と腕は〔ペルシャ〕

B青銅でできた腹と腿が〔ギリシャ〕

C鉄でできたすねは鉄〔ローマ〕

D鉄と陶土(粘土)でできた足は〔ローマ帝国の分裂〕

 

(4)打ち砕かれる像

 そして、この像は、木っ端微塵に打ち砕かれます。

34:見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。
35:鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、夏の打穀場のもみ殻のようになり、風に吹き払われ、
跡形もなくなりました。その像を打った石は大きな山となり、全地に広がったのです。

 

(5)重要な預言

 夢の再現と解釈を終えるに当たり、ダニエルはとても重要な預言をします。

44:この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。
45:山から人手によらず切り出された石が、鉄、青銅、陶土、銀、金を打つのを御覧になりましたが、 それによって、偉大な神は引き続き起こることを王様にお知らせになったのです。この夢は確かであり、解釈もまちがいございません。」

−このようにして、王の見た夢の再現と解釈は終わります。

 

3.人手によらずに切り出された石

 さて、当時の世界を支配した国々は、その後ダニエルの解釈(預言)の通りに実現しました。

 そして、特に、私達が着目したいのは、絶対に壊れないと思われた武骨な像が「人手によらずに切り出された石」によって木っ端微塵に破壊されたということです。

34:見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。
35:鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、夏の打穀場のもみ殻のようになり、風に吹き払われ、跡形もなくなりました。その像を打った石は大きな山となり、全地に広がったのです。

 「人手によらずに切り出された石」とは「キリストからだなる教会」のことです。

聖書では、教会を「石」にたとえる箇所が多くあります。(ペテロの手紙一など)

ですから、34,35節は次のように言い換えられるでしょう。

34:見ておられると、一つの石〔キリストの体なる教会〕が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。
35:鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、夏の打穀場のもみ殻のようになり、風に吹き払われ、 跡形もなくなりました。その像を打った石〔キリストの体なる教会〕は大きな山となり、全地に広がったのです。

−「教会」が、大きな山となり、全世界に広がっている。

 まさにその通りです。

 世界を旅行すると教会のないところはないぐらい教会が、全世界に広がっている。

この仙川教会も「人手によらずに切り出された石」でできた「キリストからだなる教会」です。

 私達は、「聖書は聖書」「現実の教会は現実の教会」と聖書と現実にある教会とを切り離して考えがちですが、それは間違いです。

ダニエルの預言の通り、神の御手が働き、王の見た像を木っ端微塵に打ち壊した石によって、確かに、この仙川キリスト教会も建てられたのです。アーメン!

 

 ところで、王が見た頭が純金のこの像は、なぜ「人手によらず切り出された石」によって足元から呆気なく木っ端微塵に砕け、跡形もなくなったのでしょうか。

34:見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。
 「打ち砕く」の原典のヘブル語は「マハー」で、ノアの洪水が万物を「消し去った」と同じ動詞が使われています。神様が、国々を興し、支配し、歴史を支配する方であることが分かります。

 

 そして、私達は、もうひとつ重要なことに気づく必要があります。

 王の見た像は、頭が金で、足が鉄と粘土でできていました。

 これでは、あまりにもバランスが悪すぎます。

これは何も王のためだけ、後の歴史を預言するためだけの預言ではないということです。

 神の預言をその内容が実現したか否かだけで見るのは、預言を「予言」「占い」のレベルでしかとらえていません。

 神の預言は、実現することも確かですが、それよりも重要なことは、神の預言−今回は巨大な像−が後々の私達に何を伝えているかを知ることです。

 

つまり、私達人間は、目に見る部分は金や銀で飾っても、一番大事な足元をおろそかにしてしまうことを警告しているのが、この像であると私は考えたのです。

 私達ひとりひとりの「足元」は何によってできているでしょうか。

 私達ひとりひとりの「人生の足元」は何によってできているでしょうか。

 私達の不安や心配事は、足元がしっかりしていないから起こるものです。

そして、仙川教会の「足元」はどうでしょうか。

 

 教会も私達の人生も「朽ちない石」であるイエス・キリストを基礎としないと、どんなに頭や胴体が立派でも、ダニエルの預言の通り、呆気なく崩れるのです。

 使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一3章11節で次のように語っています。

「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはでません。」

 当時、コリント教会では、教会の土台であるイエス・キリストを無視して、ほかの土台を据えようとする力が働いていると、パウロは警告しているのです。

 だからこそ、仙川教会では、新会堂の定礎式の時、「私達はイエス・キリストを土台」とするという具体的な証として、実際にこの講壇の下に、皆で署名した聖書を埋めたのです。

 

<事例>

 まさに、その上で、今、私は御言葉を取り次いでいるわけです。

 イエス・キリストの土台の上で、私達はこのように、礼拝を捧げ、祈りを捧げているのです。

 その教会の祈り会で、牧師のために祈ることは重要です。

 さすがに「○○牧師を土台として」という祈りは聞いたことはありませんが、「○○牧師を中心として」という祈りはよく聞かれます。

 あるいは「○○先生の教会」という言い方は普通に使われています。

 言っている本人は「○○牧師が牧会している教会」という意味で「○○先生の教会」と言っていると思います。しかし、言葉には力があります。気をつけないと「キリストの教会」が「○○先生の教会」「○○先生が土台の教会」に取って代わる可能性があるのです。

キリストが教会の土台であり、頭であることを徹底させているのが、私達のバプテスト教会です。

 私達は、私達の教会の土台が「人手によらず切り出された石」「朽ちない石」すなわち「イエス・キリスト」を「基の石」としているかを常に確認していかなければならないのです。

 

 教会を聖書では「キリストを土台とする教会」「キリストを頭とする教会」と言う言い方表しますが、ふと疑問に思ったことがあるのです。土台と頭では場所が違うのではないかということです。教会に初めてきた方から「キリストはどこにおられますか」と尋ねられたら、ある時は上の頭を指し、ある時は足元の土台を指すからです。 頭であれば、上の高いところか、奥まったところから出てくれば、なるほどと納得し、ありがたくも感じます。

 

 「教会のどこにキリストはおられるのか」という問いに対して、神学的な議論は横に置いて、私は自分の足元を指しながら「教会の頭であるキリストは、私達の足元にいらっしゃる」と答えます。

なぜなら、地上ではいろいろと問題を抱える教会を、罪だらけの私達人間を土台から支えるという覚悟なしに、主イエスは十字架に架かっていないからです。キリストが必死になって、足元もがふらつくような罪の泥沼から、教会を私達の人生下から支えて下さっているのです。

 汚い例ですが、キリストは、私達の罪で汚れた臭い肥溜めのようなところに自ら降りて下さった。

 次から次に頭に降りかかる私達の罪にまみれながら、窒息しながらも「この罪は私がかぶる。だからあなたは生きなさい」と叫んでいるようでならいのです。

 本来一番偉いはずの頭なるキリストが、罪で汚れた肥溜めのようなところから、教会の祈りを、また私達の祈りを聞いてくださっている。

 本来なら一番偉いはずの頭なるキリストが、罪で汚れた肥溜めのようなところから教会を、また私達の人生を下から支えて下さっているのです。

 肥溜めのようなところに自ら降りて支えて下さる、これほど謙遜な方に出会わないと、私達人間は変わろうとしないのです。それぐらい人間は傲慢なのです。

 

 私達は今、ダニエルが預言した、あの巨大な像を打ち砕いた「人手によらずに切り出された石」の上に立っているのです。

 私達は今、ダニエルが見たした、大きな山となり、全地に広がり築かれた「人手によらずに切り出された石」の上に立っているのです。

 私達は今、「人手によらずに切り出されたイエス・キリストの石」の上に立っているのです。

 

 「人手によらずに、神によって切り出された石」の上に立っている私達は、ダニエルと同じように次の光景をはっきりと心の眼で見ることができるのです。

34:見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。

35:鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、夏の打穀場のもみ殻のようになり、風に吹き払われ、

跡形もなくなりました

その像を打った石は大きな山となり、全地に広がったのです。

 「人手によらずに、神によって切り出された石」の上に立っている私達は、パウロと同じように次の言葉を確信を持って語るできるのです。

「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはでません。」   

 祈ります。

 

<祈り>

 ご在天の父なる神様、あなたは、王の夢を通して、またダニエルを通して、「人手によらずに切り出された石」が巨大な像を木っ端微塵に打ち砕く様子を見せて下さいました。

 その「人手によらずに、切り出された石」が全治に広がり、この仙川の地にも広がっていることをまさにこの肉の目で見ています。

 今、私達は「人手によらずに、神によって切り出された石」「人手によらずに、神によって切り出されたイエス・キリストという石」の上に立っています。

 私達のまさに真下で、主イエスが泥まみれ、罪まみれになって、この仙川教会を、そして私達一人一人を支えているお姿をハッキリと見ることができます。ありがとうございます。

天の父よ、私達が正しく神の言葉を聞き、私達が正しく神の言葉を宣べ伝えることができますように、私達を下から支え導いて下さい。

 この祈りを、「人手によらずに、神によって切り出された石」であり、教会の頭でもあるイエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。

 


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