【主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2005年5月29日

                「 朝の九時です

使徒行伝2章14〜21節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

「今は朝の九時です。」とペトロは語り始めました。

このメッセージは使徒言行録2:14〜36節(新約聖書215頁)まで続いています。今日はその序論にあたる14〜21節を読みましょう。(聖書本文参照)

 聖霊に導かれるまま、ほかの国々の言葉で主イエス・キリストの福音を語り出した弟子たちを見て、多くの人々はただあっけにとられていましたが、中には新しい酒に酔っているだけだと嘲る人がいました。そこでペトロは弟子たちを代表して立ち上がり、開口一番、「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。」と語り始めました。ユダヤ人の日常生活は祈りに始まり、祈りに終わるというように、神との交わりを大切にする人たちです。通常考えても朝からお酒を飲む人はほとんどいないと思いますが、特にユダヤ人にとって、朝の九時は神聖な祈りの時間ですから、お酒を飲むことなどありえないのです。

 ユダヤ人は一日三回を祈祷時間と定めていました。朝の9時、そして正午と午後三時が祈りの時間です。

 主イエスが十字架の上でその模範をお示しになっています。朝の9時と正午、そして午後3時に父なる神に向かって叫んでおられます。釘で打ち付けられた状態ですから、静かな声で祈ることなどできません。そばにいる人たちの耳には祈りというよりも怒鳴っているように聞こえたかもしれません。それでも主は祈りを忘れる方ではありません。

 わたしたちもどんなに忙しくても、どんなにつらい中にあっても朝、昼、夕方の祈りを欠かさないようにしたいものです。

   
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【主日礼拝メッセ−ジ】                              2005年5月29日

                「 朝の九時です

使徒行伝2章14〜21節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

「今は朝の九時です。」とペトロは語り始めました。このメッセージは使徒言行録2:14〜36節(新約聖書215頁)まで続いています。今日はその序論にあたる14〜21を読みましょう。(聖書本文参照)

 

 聖霊に導かれるまま、ほかの国々の言葉で主イエス・キリストの物語を語り出した弟子たちを見て、多くの人々はただあっけにとられていましたが、中には新しい酒に酔っているだけだと嘲る人がいました。そこでペトロは弟子たちを代表して立ち上がり、開口一番、「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。」と語り始めました。ユダヤ人の日常生活は祈りに始まり、祈りに終わるというように、神との交わりを大切にする人たちです。通常考えても朝からお酒を飲む人はほとんどいないと思いますが、特にユダヤ人にとって、朝の九時は神聖な祈りの時間ですから、お酒を飲むことなどありえないのです。

 ユダヤ人は一日三回を祈祷時間と定めていました。主イエスが十字架の上で朝の9時と正午、そして午後3時に父なる神に向かって叫んでおられます。釘で打ち付けられた状態ですから、静かな声で祈ることなどできません。そばにいる人たちの耳には祈りというよりも怒鳴っているように聞こえたかもしれません。それでも主は祈りを忘れる方ではありません。わたしたちもどんなに忙しくても、どんなにつらい中にあっても朝、昼、夕方の祈りを欠かさないようにしたいものです。

 

 なんという不思議なことがあるものでしょう。ヨエルはペトロより800年も昔に活躍した預言者です。800年も前に語られた預言が今、彼らの目の前で実現したのですから、驚くばかりです。「ペトロは11人の使徒たちと共に立って、声を張り上げ、話し始め」ました。ペトロ自身が聖霊に導かれて語っているのです。

 このように弟子たちは、酒に酔っていたのではなく、聖霊に満たされて、ほかの国々の言葉で主イエス・キリストの物語を語っていました。こういう状況については、既に旧約聖書に預言されています。17〜21節のカギ括弧は、ヨエル書3:1〜5節(1425頁。口語訳聖書と新改訳聖書はヨエル書2:28〜32)からの引用です。

 但し、使徒言行録と対照してみると、必ずしも一語一句、全く同じに引用されているわけではありません。ペトロ自身が多少説明的な言い回しで聴衆に預言の意味を教えようとしていることが分かります。

 たとえば、「わたしが、・・・」(ヨエル書3:1)と入る前に、その「わたし」とは、神ご自身であることを聴衆に分からせるために、「神は言われる。」と語り始めます。また、ヨエルが、「その後」(3:1)と言っているところを、ペトロは「終わりの時に」と言い換えています。これはただの言いかえではなく、ペトロ自身の聖書解釈、信仰理解です。ヨエルの時にはまだ実現していなかった神の約束が主の弟子たちの時代からは、次々と実現しています。

 救い主イエス・キリストが世に来られて十字架の上に全人類の罪を完全に贖いとり、葬られて後、三日目に甦られたことにより、イエスをキリスト、救い主なる神と信じる全ての人に永遠の命を賜りました。そして40日の後、救いに与った全ての人々を天のみ国に迎え入れるために、また来るという約束を言い遺して、天の父なる神の右の座に引き上げられました。ペトロはこの主の初臨と再臨の間に生きる時代を「終わりの時に」と理解しています。

 旧約時代には特別に選ばれた人だけが聖霊に満たされて預言したのに対して、この終わりのときには、老幼・男女の別なく、文字通り全ての人に注がれ、預言の言葉と力が与えられるのです。全ての人に聖霊が注がれるのです。「注ぐ」とは何という恵みに満ちた言葉でしょうか。一時的な聖霊の満たしではないのです。消費期限なしの聖霊充満なのです。

 午後には、「手話讃美とお話」のときがあります。このプログラムにはどういう意味があり、目的があるのでしょうか。大いに楽しみです。こういうプログラムこそ、若者にビジョンを与え、老人に夢を見させてくれるときではないかとわたしは考えます。

 町田クリスチャンセンターの兄弟姉妹が祈りこみ、練習に練習を重ねて讃美によるメッセージを持ち運んでくれます。吉沢マナ姉妹がどのような人か、わたし個人はまだよく分からないのですが、彼女に注がれた御霊なるキリストの霊が彼女をしてイエスの福音を証しさせ、神の御心を預言させてくださると期待できます。

 

 神から賜る幻とか夢とはそういう具体的なものです。祈りに積み上げられた結果として、わたしたちの肉眼ではなく、知的満足を満たすのでもなく、霊的に神の御心を啓示していただけるのです。そしてこれは預言、神からのメッセージを通して明らかにされるのです。

 

 今日の午後用意されているプログラム、また主の日ごとの礼拝を通して与えられるメッセージの中心は、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」という21節に集約されていることを忘れてはなりません。

 神は、救いを宣べ伝える器として、かつて旧約時代にはその担い手として、祭司、預言者を用いられました。しかし、新約の時代以降、そうしたエリート中心の時代は終わりました。あのペンテコステの日、年老いた者も年若い者も、男性も女性も、全ての人に主の名を呼び、救われる道が開かれています。全ての人に聖霊は注がれ、全ての人を主の教会を建て上げる働き人として選び立て、そして用いてくださるのです。

 「朝の九時です」と語り始められたペトロのメッセージはまだほんの序論です。いわば、この日彼に与えられたメッセージのためのテキストとしてヨエル書を読んだのみです。しかし、この短い預言の言葉と短い説き明かしにもかかわらず、わたしたちの心はひきつけられます。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

約束の聖霊が弟子たちに注がれたとき、弟子たちは大胆にイエス・キリストの福音を語る力が与えられました。しかし、ペンテコステの意味を知らない群衆は、ただ驚き、あきれ返り、「酒に酔っているのだ」と嘲るばかりでした。そのとき、ペトロは「今は朝の9時です」と、人々の心を祈りへと導き、聖書に向かわせ、啓示された奥義のメッセージを語り始めました。

わたしたちはこの短い御言の中に、今も生きておられる主イエス・キリストの父なる神が、主の御名、イエス・キリストを呼び求める者に救いの道を開いてくださっていることを発見しました。感謝します。どうぞ、主よ、今あなたを求めている兄弟姉妹にあなたの御子イエスを呼び求める思いを与え、救いを受け入れる決断の時として下さいますように。

救い主イエス・キリストの尊い御名によってお願いします。アーメン。


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