【主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2005年6月5日

                「イエスは主

使徒行伝2章22-36節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 イエスが十字架につけられたあの時、その場にいなかった人も含めて、メッセージを聞いた人々は大いに心を打たれ、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と、自分の罪を素直に認めています。イエスの十字架に直接かかわった者も、その場にいなかった者も、神のみ前には同罪だと言うのです。この点では、今朝この教会で礼拝をささげておられる皆さんも同じです。今まで聖書を読まなかったから、教会に来ていなかったから、メッセージを聞いたことがなかったから、などと言い訳はできません。人間は神のみ前に、生まれながらの罪びとです。愛するよりも愛されることを求め、与えるよりも受けることに執着してこなかったでしょうか。この世界も、わたしたちも神に造られたものであると考えないで、自己中心の生き方にこだわってこなかったでしょうか。もし、その一つにでも心当りがあるなら、わたしたちも神の子イエスを十字架につけた罪びとの一人だと認めなければなりません。

 しかし、神はなんと言う憐れみ豊かな方でしょうか。神の側からは、イエスの十字架こそ、わたしたちの罪を贖う(代価を払って買い取る)ためでした。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)とあるように、わたしたちは必ず死をもって罪の報いを受けなければなりません。罪を抱えたまま一生を終えた人は、二度死ななければなりません。肉体の死と霊的死です。肉体はこの世で犯したさまざまな罪の代償として死ななければなりません。この裁きを免れる者は誰一人いません。これが第一の死です。しかし、罪を悔い改めた者の為には終わりの日、神の最後の審判である第二の死、永遠の滅び(霊的死)から免れます。イエスがわたしたちに代わって、十字架の上に罪を罰し、罪人であるわたしたちを買い取って下さいました。この十字架の下に身を寄せ、救いを求める者を神は喜んで受け入れて下さいます。これを救いと言います。

   
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【主日礼拝メッセ−ジ】                              2005年6月5日

                「イエスは主

使徒行伝2章22-36節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレのイエスこそ、神から遣わされた方です。」とペトロは言います。当時、「ナザレの人」というと、いかにも田舎者と軽蔑して、そこから有名人が出るとは誰も考えなかったのです。しかしペトロは、この方が地上におられた間、何を語り、何をなさったか、その力ある言葉と御業を否定する者は誰もいないはずだと言います。事実このメッセージを聞き終わった人々の反応は、そのことを裏付けています(37節)。

 ここに集まった人の多くは、確かに50日前、大祭司の中庭で、またローマの総督ピラトの前で拳を振り上げ、「イエスを十字架につけよ」と叫んだのです。あの時、大祭司も律法学者たちも民衆も皆、イエスがご自分を神であると証されたことを怒り、神を冒涜する大罪人として十字架刑にしてしまいました。しかしペトロは言います。「罪なきイエスを十字架につけたあなたたちこそ、神に対する大きな罪を犯したのだ。」と。

 37節を見ると、イエスが十字架につけられたあの時、その場にいなかった人も含めて、メッセージを聞いた人々は大いに心を打たれ、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と、自分の罪を素直に認めています。イエスの十字架に直接かかわった者も、その場にいなかった者も、神のみ前には同罪だと言うのです。この点では、今朝この教会で礼拝をささげておられる皆さんも同じです。今まで聖書を読まなかったから、教会に来ていなかったから、メッセージを聞いたことがなかったから、などと言い訳はできません。人間は神のみ前に、生まれながらの罪びとです。愛するよりも愛されることを求め、与えるよりも受けることに執着してこなかったでしょうか。この世界も、わたしたちも神に造られたものであると考えないで、自己中心の生き方にこだわってこなかったでしょうか。もし、その一つにでも心当りがあるなら、わたしたちも神の子イエスを十字架につけた罪びとの一人だと認めなければなりません。このままではわたしたちはやがて神に罰せられ、永遠の滅びに堕ちて行かなければなりません。大いに心打たれてしかるべきです。

 

 しかし、神はなんと言う憐れみ豊かな方でしょうか。イエスを十字架につけたことは、確かにわたしたちの罪がそうさせたのですが、ペトロは言います。「ここに神の配剤がある」と。23節を見てください。イエスを十字架につけることは、実に神のご計画でした。

 十字架こそ神がわたしたちを罪から救う大いなるご計画でした。イエスはわたしたちの罪の為に十字架に死にましたが、神の側からは、イエスの十字架こそ、わたしたちの罪を贖いとるためでした。

 「贖う」とは、代価を払って買い取るという意味です。聖書に、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)とあるように、わたしたち全ての罪びとは必ず死をもって罪の報いを受けなければなりません。罪を抱えたまま一生を終えた人は、二度死ななければなりません。肉体の死と霊的死です。肉体はこの世で犯したさまざまな罪の代償として死ななければなりません。この裁きを免れる者は誰一人いません。これが第一の死です。しかし、罪を悔い改めた者の為には終わりの日、神の最後の審判である第二の死、永遠の滅び(霊的死)から免れます。イエスがわたしたちに代わって、十字架の上に罪を罰し、罪人であるわたしたちを買い取って下さいました。この十字架の下に身を寄せ、救いを求める者を神は喜んで受け入れて下さいます。私たちの残る生涯はもはや神のものとされるのです。それが十字架の意味です。これを救いと言います。

 「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」(24節)

 25節以下に詩編16:8〜11(旧約聖書 p.846)が引用されているのは、イエスの十字架は神の側から見て番狂わせの出来事ではなく、既に神ご自身が計画しておられたことであり、イエスの死の向こうは絶望と奈落ではなく、輝かしい復活の朝であったことの証明です。この詩はダビデの作ですが、彼はこの時、神の預言者として用いられ、自分の子孫を通してキリストが与えられる。この方が死を克復して復活による永遠の命という、輝かしい勝利をもたらして下さると詠っているのです。そしてペトロは、「わたしたちは皆、そのことの証人です。」と言いました。

 ペトロにとって、聖霊がどのように降られたかを説明するよりも、聖霊が降られたことによって、自分たちに与えられた神の恵みに満ちた使命を語ることこそ重要でした。キリスト者とは何か。そう問いかける人がいたら、多くの言葉を必要としません。「わたしたちキリスト者は、キリストの復活の証人である。」と答えるだけで十分なのです。

 来週の礼拝で更に詳しくお話しますが、神がイエスを死の世界から甦らせたのは、神の側の勝手な一人芝居ではありません。それによってイエスの十字架による死と復活の意味をわたしたち全人類に教えてくださったのです。もし、イエスが復活なさらなかったとしたら、どういうことになるでしょうか。それこそ十字架の贖いの業は中途半端で不完全なもの、仮にキリスト教会の看板を掲げたとしても、この世を清く正しく生活する道徳的な人生訓は示せても、あの世に至る道を伝えることができない、この世に限定された宗教となるのです。罪を未解決のままにした宗教に何の力もありません。それこそ最も空しいことです。しかし、わたしたちには永遠の御国に至る希望が与えられているのです。イエスが確かに復活して下さったからです。使徒パウロの言葉によると、イエスはご自分が甦ったことを12使徒だけでなく、500人もの弟子たちに顕れて下さいました。十字架にわたしたちの罪の贖いを遂げて下さったイエスは甦って、わたしたちを罪と死と滅びから完全に解放して、永遠の命を賜ったのです。

 

 それだけではありません。34節に、「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。」と、今度は詩編110:1(旧約聖書 p.952)を引用して、イエスが復活されただけでなく、昇天されたこと、父なる神の右に引き上げられたことが語られています。

 「ダビデは天に昇りませんでした」とあります。では、ダビデの死後はどうなったのでしょうか。行方不明のままなのでしょうか。そうではありません。天に昇ったのはイエスのほか誰もありませんが、ダビデはこのキリストによって、既に天に召されているのです。確かに耳に聞いただけでは、「しょうてん」と同じように聞こえるので紛らわしいですが、文字にすると分かります。イエスを信じて生涯を終えた人は、天に昇るのでなく、「天に召される」のです。

 十字架の上で流してくださった血潮によって、イエスは地獄行きに定められていたわたしたちから、まず罪を取り去り、清め、更にご自身の甦りをもって、信じるわたしたちにも復活の命を与えた上に、この復活のキリストと共に、天の父なる神の御許にまで責任を持って持ち運んでくださるという約束、それが、イエス・キリストの昇天の意味です。イエスを信じる者は全て救われるという意味は、イエスを救い主と信じる者は全て神の子として受け入れられる、神のものとされるということです。神の手にある者に、もはや誰も手出しできないのです。

 このように、ペトロはダビデの神讃美を引用して救いの喜びを宣べ伝えましたが、わたしは恐れ多いことながら、それに加えてイザヤの神讃美をご紹介して、御国への道をお伝えしたいのです。

 「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。」(イザヤ46:3b〜4 旧約聖書p.1138)。

 イエスを信じる生涯は何と言う恵みに満ちたもの、平安な生涯を約束されていることでしょう。そればかりか、その先の先にまでわたしたち一人一人を連れて行くという神の約束を見落としてはなりません。

「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」と。これは地上の生涯を終えた後にも、永遠の御国にまでわたしたちを担い、背負い、完全な救いを与えるという約束なのです。

 ペトロはこのメッセージを閉じるにあたって、会衆に呼びかけます。「だから、イスラエルの全家は、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主、メシアとなさったのです。」と。

 愛する兄弟姉妹、いかがでしょうか。あなたもイエスを十字架につけて殺した一人と認めることができますか。もし認めることができるなら、それに続く恵みの御言はあなたのものです。あなたにとってもイエスは主であり、キリスト、救い主です。今こそあなたも罪を悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けることができるのです(38節)。   祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

 あなたの救いの御言を感謝します。私たちは今悔い改めて告白します。私たちは、御子イエスを十字架につけて殺した罪びとであることを。そして、あなたに感謝します。この罪深い私たちを顧み、その憐れみをもって、十字架を救いの出来事に替えて下さいました。私たちはあなたを心の底から讃美します。あなたは私たちを罪の支配から救い、復活のキリストによって永遠の命の御国へと引き上げて下さいます。

 今、わたしたちはあなたを個人的な救い主、王なるキリストと信じ、あなたに生涯従って行く決心をします。どうか、わたしたち一人びとりをあなたの僕、キリストの弟子として受け入れてください。

 救い主イエス・キリストの尊い御名によってお願いします。アーメン。

 


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