【主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2005年6月12日

                「 教会が生まれた

使徒行伝2章37-42節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 ペトロの奨めに従ってバプテスマを受けた人々の数は、実に3千人に上りました。この3千人の群れを、聖書では「エクレーシア」、すなわち「キリストの教会」と呼びます。そうです。この出来事こそ、地上にキリスト教会が生まれた瞬間です。

 「教会」という日本語の名称は誤解されやすいのですが、「教える会」という意味では決してありません。確かに、あの3千人の仲間は、それから後も使徒たちの教えに学び続けるのです(42節)が、また21世紀に生きる私たち仙川キリスト教会のメンバーも、牧師を通して語られる主イエス・キリストの教えを学び続けるのですが、「教える」ことが中心の「会」という組織ではありません。教会の正しい意味を知るには、やはりエクレーシアというギリシャ語にさかのぼって考える必要があります。エクレーシアとは、「(キリストに)呼び集められた群れ」という意味です。教会の中心はローマ法王ではありません。各教団・教派の指導者でもありません。もちろん牧師でもありません。教会で一番偉い方はイエス・キリストでなければなりません。「使徒の教え・・・に熱心であった。」とありますが、これは正しくは「使徒を通して語られるイエス・キリストの教えに熱心である」という意味です。語る使徒たちも、また今日諸教会にあって講壇に立つ者も熱心に語りつつ、同時に自らも熱心に聴く者でなければなりません。教会の頭は「イエス・キリスト」だからです。

 42節の「使徒の教え」に聴く、これは礼拝です。「相互の交わり」とは、み言葉を土台にした交わりのことで、雑談に時を過ごすことではありません。雑談は度を越すと、無責任な噂話や、悪口というあだ花を咲かせてしまうことになりかねません。「パンを裂く」とは主の晩餐のことです。当然ぶどう汁を配ることはその中に含まれています。最後に「祈ることに熱心であった」と締めくくっています。祈りはいつでもどこでもできるのですが、ここでは特に祈祷会のことでしょう。これらはどれも個人でできることではありません。ここに「教会」の意義があるのです。

   
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【主日礼拝メッセ−ジ】                             2005年6月12日

                「 教会が生まれた

使徒行伝2章37-42節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 人々はペトロのメッセージを聞いて、強く心を刺され、罪の意識に耐えられず、救われるためにどうしたらよいかと尋ねました。ペトロのメッセージの何が人々の心を捉え、揺り動かしたのでしょうか。この書物(使徒言行録)の後半に登場する使徒パウロのように洗練された話し方ではありません。主イエスのように時折ユーモアを交えて神の御国の真理を伝えるという、ゆったりとしたものでもありません。むしろ、どちらかいうと、枝葉を切り落とし、無駄な言葉を一切排除して、淡々とした語り方で、神の愛について、人間の罪について、救い主イエス・キリストについて述べているだけです。しかし、聖霊はペトロのメッセージを用いてくださいました。いや、聖霊ご自身がペトロをしてこのように語らせたというほうが正しいでしょう。話術に頼らず、ぎこちなくても伝えるべきものを伝えたら、必ず人々の心をとらえる力となるということを、わたしたちはここから学び取らなければなりません。「今日のメッセージは恵まれたねえ」と、感想を漏らしながらそのまま解散させません。むしろ、そこに人々を釘付けにする不思議な力が働きました。あの時ペトロのメッセージを聴いた人々だけでなく、むしろ、そこから何かが始まる期待感を、わたしたち読者に起こさせるのです。

 人々はこのメッセージを、他人事として聞き流すことができなかったのです。自分を見つめなおす機会となりました。自分自身と向き合った時、そこに見える自分は神の前にどれほど罪深い者であるかという現実でした。「今まで自分は何をしていたのか。聖書のどこを読んでいたのか。神はわたしにどうしろと言われるのか。このままではいけない。でも、どうしてよいか分からない」。そこで、ペトロに向かって、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」と尋ねました。それは言い換えると、神に対する白旗を掲げること、無条件降伏をすることでした。すると、ペトロは罪の悔い改めと告白、そしてバプテスマを受けることを奨めます。先週も申し上げたとおり、バプテスマとは水の中に全身を浸められるのですが、それは古い罪のわたしに死んで、復活のキリストにある永遠の命に新生する(新しく生まれる)ことなのです。それによって罪は赦され、賜物として聖霊を受けることができるのです。もう少し分かりやすく言うと、わたしの心の王座に居座っていた悪の霊が滅ぼされ、聖霊が宿ってくださるという意味です。聖霊が賜物を与えてくださると読む人がいますが、それは違います。聖霊ご自身を賜物として与えられると読むのが正しいのです。イエスを神の子キリストと信じるなら、誰にでもどこに住む人にも神は惜しみなく与えてくださるのです。

 このペトロの奨めに従ってバプテスマを受けた人々の数は、実に3千人に上りました。罪を赦され、バプテスマを受け、聖霊の宮とされた3千人の群れを、聖書では「エクレーシア」、すなわち「キリストの教会」と呼びます。そうです。この出来事こそ、地上にキリスト教会が生まれた瞬間です。

 「教会」という日本語の名称は誤解されやすいのですが、決して読んで字のごとき、「教える会」という意味ではありません。42節には確かに、新しくキリストの弟子とされた3千人の仲間は、それから後も使徒たちの教えに学び続けるのです。また3千人という数字には遠く及ばない私たち仙川キリスト教会のメンバーも、牧師を通して語られる主イエス・キリストの教えを学び続けるのですが、「教える」ことが中心の「会」という組織ではありません。教会の正しい意味を知るには、やはりエクレーシアというギリシャ語にさかのぼって考える必要があります。エクレーシアとは、「(キリストに)呼び集められた群れ」という意味です。教会の中心はローマ法王ではありません。各教団・教派の指導者でもありません。もちろん牧師でもありません。教会で一番偉い方、それはイエス・キリストでなければなりません。「使徒の教え・・・に熱心であった。」とありますが、これは正しくは「使徒を通して語られるイエス・キリストの教えに熱心である」という意味です。語る使徒たち、また今日諸教会にあって講壇に立つ者も熱心に語りつつ、同時に自らも熱心に聴く者でなければなりません。教会の頭は「イエス・キリスト」だからです。

 42節をご覧下さい。「使徒の教え」に聴く、これは礼拝です。「相互の交わり」とは、み言葉を土台にした交わりのことで、雑談に時を過ごすことではありません。それもまた時にはお互いを知る上で無駄ではないと思いますが、度を越すと、無責任な噂話や、悪口というあだ花を咲かせてしまうことになりかねません。「パンを裂く」とは主の晩餐のことです。当然ぶどう汁を配ることはその中に含まれています。最後に「祈ることに熱心であった」と締めくくっています。祈りはいつでもどこでもできるのですが、ここでは特に祈祷会のことでしょう。これらはどれも個人でできることではありません。ここに「教会」の意義があるのです。

 ペトロはメッセージの結びとして、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めて終わりました(40節)。わたしたちは礼拝を終えて、教会の交わりから一歩外に出ると、そこは邪悪な時代そのものです。そこから救われるために、再び教会に逃げ帰ることを言うのでしょうか。そうではありません。邪悪な時代のただなかで、不当な苦しみにあえいでいる人々のところに出て行って、そこでも共にみ言葉に聴き、相互の交わりを深め、パンを裂き、熱心に祈る仲間、救われるべき新しい仲間が与えられるよう、伝道に励むことです。   祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

ペトロの力強いメッセージを聞いた3千人の人が救われて初代の教会が誕生しました。その数の多さに驚きますが、彼らは、五旬祭のために、多くの国や地方から集まっていましたので(2:8〜11節)、いつかは生まれ故郷に帰る人、エルサレムに残る人と別れて行ったことでしょう。しかし、共通しているのは、彼らは皆、再び邪悪な時代の中に遣わされて行ったということです。そして遣わされたところでも礼拝と祈りの群れ、教会を建て上げて行きました。わたしたちも初代の教会に倣って、時が良くても悪くてもみ言葉の種を蒔き続け、教会形成に励む者と導いてください。

救い主イエス・キリストの尊い御名によってお願いします。アーメン。


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