【主日礼拝メッセ−ジ要約】                      2005年7月3日

                「キリストの名で立て

使徒行伝3章1〜10節
 
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 生まれながら足の不自由な男性(4:22→40歳過ぎ)のお話です。彼はいつの頃からか、「美しい門」のそばまで運ばれ、置かれては、物乞いすることが日課になっていました。そこへ使徒ペトロとヨハネが宮で祈るために通りかかりました。施しを期待して見上げる彼を、二人は、「じっと見て、『わたしたちを見なさい』」と言い、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」と宣言しました。彼が求めている物(金や銀)を与えることはできません。しかし、二人には、与えても尽きることのない宝物を神から委ねられていました。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」という証しの言葉です。「ナザレの人」とは、十字架につけられたイエス・キリストのことです。ペトロは言います。「イエスは十字架に死んだが、甦り、今も生きていて、あなたを立ち上がらせてくださるのだ」と。

 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネ10:9)とイエスは言い、また「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入るものが多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」(マタイ7:13〜14)とも言っておられます。

 あなたも多くの親切な人に命の門の前まで導かれ、イエス・キリストという門を眺めながら一生を終わるつもりですか。永遠の神の都にあこがれながら、相変わらず魂の救いよりも、わずかな金や銀を追い求める人生を止められないでいませんか。イエス・キリストの御手は十字架上で広げられています。この門は自分の罪深さを認めて悔い改める人のためには無限に広いのです。しかし、この門を狭くしているものがあります。それはあなたの高慢な心にあるのです。今こそ、招きに答えてイエスの名によって自分の足で立ち上がりましょう。真の門(イエス・キリスト)をくぐり、永遠の命の宮に導いていただこうではありませんか。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2005年7月3日

                「キリストの名で立て

使徒行伝3章1〜10節
 
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 今日は、生まれながらに足の不自由な男性の上に起こった神のすばらしい御業について、み言葉に聴きましょう。4:22では、この人は既に40過ぎの人であったことが分かります。40年間一度も歩いたことがないという、何とも胸の痛む境遇の方です。いつの頃からか、この「美しい門」のそばまで運ばれ、まるで荷物のように置かれては、物乞いすることが日課になっていました。この門はその昔、通称ヘロデ大王(紀元前37〜後4年在位。ヘロデ汾「)が作らせたコリント様式で、高さ22m50cm、幅18mあります。表面は貴金属でおおわれていて、神殿に入るために設けられた9つとも、12とも言われている数多い門の中で最も大きく、最も華麗に見えるところから、人々はこの門を「美しい門」と呼んでいました。毎日沢山のユダヤ教指導者や敬虔な一般市民がその門を出入りしていました。しかし、この人はそこから先にある神殿に入ることはできません。置かれた場所から神殿までの距離はどのくらいだったのでしょうか。そこから礼拝の様子を眺めるくらいのことはできたのでしょうか。聖歌隊による讃美歌を聴くことができたのでしょうか。同じユダヤ人として生まれながら中に入って、他の人と一緒に礼拝をささげることができないでいたのです。それにしても、毎日、この男性をここまで連れてくる人たちはいったいどんな人だったのでしょうか。家族でしょうか、友人でしょうか、それとも親切なお隣さんだったのでしょうか。もう一つ、どうして人々はこの門の傍らに連れてきていたのでしょうか。家族が仕事に出かける間、家に一人にしておくよりは、沢山の人が行き交うところにつれて来て上げることで、少しは気晴らしになるからでしょうか。それとも、もう良い年をした人間だから、自分の食い扶持くらい、自分で稼げということで、ここへ連れてきたのでしょうか。聖書は何も明らかにしていません。ただ、分かるのは、この人をここに連れてきたのは人間の意志を越えた、神のご計画にあったことを聖書は伝えているのです。

 午後3時に使徒ペトロとヨハネが宮で祈るために通りかかりました。3〜5節に注意して下さい。ここでは、「見る」という動詞がいろいろに使い分けられています。彼は二人が境内に入ろうとするところを「見て」施しを請います。二人は彼を「じっと見て」、「わたしたちを見なさい」と答えました。すると、彼は何か貰えると期待して、二人を「見つめ」ました。二人は彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言いました。一見、何と言うことはないようですが、とても大切なことです。わたしたちが、もしも同じ場にあったら、このような人を前にして、「じっと見る」目を持っているでしょうか。更に、「わたしたちを見なさい」と言える言葉を持っているでしょうか。その人を見つめ、またその人から見つめられることを歓迎するでしょうか。むしろ、いくばくかのお金を与えて、後は見て見ぬ振りをしながら、足早に通り過ぎて行かないでしょうか。その方が相手に対して失礼にならないし、親切なのだと自分に言い聞かせながら。

 しかし、彼の許に遣わされた神の僕たちは、彼を真正面から見つめるばかりか、「わたしたちを見なさい」と注意をひきつけるのでした。何かもらえると期待交じりの目で見上げる彼に対して、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」と言葉を続けます。確かに二人の神の僕にとって「金や銀」は縁遠いものです。自分の懐のために働くことのできない彼らは、ただイエス・キリストの福音を語り伝え、これを聞いて信じる人々から受ける愛の施し物だけで、その日を生き延びているのです。この点で彼と二人の状況は似ています。「しかし、あなたとわたしたちはたった一つの点で違う。」とペトロは言います。受けることしか考えられないあなたと違って、わたしたちには、あなたに与えることのできるものがあると言います。彼らには、その外見とは異なる豊かさ、誰にも奪われることのないもの、与えても、与えても尽きることのない宝物を神から委ねられています。それは何でしょうか。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と宣言できる証の言葉です。「ナザレの人」についてですが、この呼びかけには、特にその頃エルサレムに住む人々にとって軽蔑の意味合いが込められています。そう呼ぶことによって、十字架につけられた、あのイエス・キリストを具体的に描き出しているのです。ペトロは言います。イエスは十字架に死んだが、甦り、今も生きて働いておられることの証として、あなたを立ち上がらせてくださるのだと力強く宣言しました。

 このメッセージを読むクリスチャンであるあなたにお尋ねします。「金や銀はわたしにない。しかも、イエスの名によって立ち上がらせる証をする確信もない」ということはないでしょうか。教会に金や銀が無いのは確かにそうです。しかし、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と証する言葉は、教会にのみ委ねられている何にも替えがたい宝物です。罪に苦しんで立ち上がれない人、重い病の中にあって、救いの確信を持てないまま、人生の終わりをどのように迎えるべきか分からない人々をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と声をかけることができるのはあなただけです。あなた自身がまず、ナザレの人イエス・キリストの名を信じて立ち上がることです。キリストにはあなたを立ち上がらせ、あなたを救いの確信と喜びを与える力があるのです。

 この物語からもう一つ学ぶべきことがあります。この生まれながら足の不自由な人は毎日、この「美しい門」のそばにあって、境内に入って行く人をうらやましく目で追う毎日でした。しかし、今ペテロのメッセージを聴き、信じて立ち上がった時、不思議にも自分の足で門をくぐって、境内に入り、ほかの人と共に念願の礼拝をささげることができました。しかも、この経験を通して彼はこの美しい門より、もっと美しい門に導かれました。それはイエス・キリストの名という門です。彼はつい先ほどまで、人に担がれて、「美しい門」のそばに置かれていました。しかし、今、イエス・キリストの名によって立ち上がれとの招きに答えて立ち上がったとき、彼は自分の足で、自発的に主のみ前に出て行くことができました。

 人は、聖書を通してこのような奇蹟物語を読むと、何とか合理的な解釈で自分を納得させようとします。そこから神のメッセージを聴き取ることができなら、どのように読もうとあなたの自由です。しかし、わたしは素直にこの出来事を事実として読むことができます。神には何でもできると信じているからです。この物語を通して神さまは私たちにどのようなメッセージを与えようとしておられるのでしょうか。歩けなかった人が歩けるようになったということだけに注目すべきでしょうか。ここにはもっと深いメッセージが啓示されているのです。それは、神はこの人の長年の祈りに答えて下さったということです。その祈りとは、他の人と一緒に自分の足で礼拝をささげ、自分の口で神を讃美したいという祈りです。だから、彼は立ち上がって最初にしたことは、歩き回り、踊りしながら、二人と一緒に境内に入って行き、神に感謝の礼拝を捧げ、讃美を歌うことでした。

 イエスは言われます。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネ10:9)と。しかし、またこうも言っておられます。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入るものが多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」(マタイ7:13〜14)と。

 あなたはどうですか。あなたも多くの親切な人にこの会堂まで導いていただきながら、しかし、命の門の傍らに置かれたままの状態になっていませんか。イエス・キリストという門を眺めながら一生を終わるつもりですか。永遠の神さまの都にあこがれながら、相変わらず魂の救いよりも、わずかな金や銀を追い求める人生を止められないでいる人はいませんか。イエス・キリストの御手は十字架上で広げられています。この門は自分の罪深さを認めて悔い改める人のためには無限に広いのです。しかし、この門を狭くしているものがあります。それは神の側にあるのではなく、あなたの高慢な心にあるのです。

 今こそ、招きに答えてナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がりましょう。自分の足でイエス・キリストの名による真の門をくぐり、教会を通して、永遠の命の宮に導いていただこうではありませんか。

 

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

40年間も自分の足で立つことも、歩くこともできなかった人が、「わたしを見なさい」という呼びかけに応えてあなたを見上げたとき、立ち上がり、あなたを讃美しながら、喜び踊りました。そして、美しい門と言われていた地上の門にまさる、イエス・キリストの名という永遠の命の門を潜り抜けて天の御国への道を歩く者とされました。

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネ10:9)とあなたは今朝、わたしたちを招いておられます。どうか、今、あなたのみ前にある、愛する兄弟姉妹を顧みてください。そして、あなたの招きに応えて立ち上がる者としてください。

救い主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

          


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