【主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2005年7月24日

 「 劇的な悔い改めでなくとも」
ダニエル書4:1〜34
コリントの信徒への手紙一3:6〜7
 
メッセージ:篠原健治牧師 

1.王の見た悪夢、実現した預言

 ネブカドネツァル王は、再び悪夢にうなされます。夢の内容は、次の通りです。1本の木が豊かに成長しますが、天使によって切り倒されます。切り株と根を残して、鉄と青銅の鎖をかけて野の草の中に、獣と共に置かれるいうものでした。ダニエルが王の見た夢を解釈します。夢に出てきた木は、王を象徴していること−。王は、人間の社会から追放され、野の獣と共に住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれながら過ごすことが預言されました。そして、預言は現実のものとなりました。ネブカドネツァル王は、追放され、毛は鷲の羽のように、爪は鳥の爪のように生え伸びました。巨大な金の像を作り拝ませたりするなど、栄華を誇った王は、獣と同じどん底まで突き落とされたのです。

2.劇的に悔い改めるネブカドネツァル王

 7つの時が過ぎ、王が目を上げて天を仰ぐと、王に理性が戻ります。王は悔い改め、永遠に生きる神を褒め称えるまでに劇的に変化します。悔い改めた王は、元の王としての生活に戻ることになったのです。

3.劇的な悔い改めでも

 「反省」とは異なり「悔い改め」とは、生きる方向を自己中心から神中心に180度変えることです。ネブカドネツァル王は、劇的に悔い改めました。しかし、人間には「忘却」という性質があります。どんなに劇的に悔い改めても、日々の生活の中で、救いの感激は自然に薄れ、信仰が弱くなることもあります。

4.信仰がなくならないために

悔い改めて、イエス・キリストを信じた後、左団扇の生活が用意されているわけではありません。現実の人生の荒波の中で、信仰を育て下さるのは神様です。同時に、信仰の種を植え、水を注ぐという人間的努力(理性)があったからこそ、神様は信仰を育んで下さったことも忘れてはならないのです。

  「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(コリントの信徒への手紙一3:6) 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                       2005年7月24日

 「 劇的な悔い改めでなくとも」
ダニエル書4:1〜34
コリントの信徒への手紙一3:6〜7
 
メッセージ:篠原健治牧師 

 

 <第1部>

 皆さんは、「ミッションバラバ」という伝道グループをご存じでしょうか。

 元ヤクザ−しかもトップクラス−の人たちが、「劇的な悔い改め」をして、救いの喜びを証ししている伝道グループです。

 私も一度集会に参加したことがありますが、笑いあり、涙ありのとてもすばらしい集会でした。

 特に、キリストの福音(力)がこれほど人を変えてしまうのかと、改めて驚かされました。

 

 ところが、集会に集まったキリスト者の中には、次のような人たちもいるそうです。

 ミッションバラバのメンバーの劇的な悔い改めを目の当たりにして、

「自分は果たして本当に救われているのだろうか」と逆に疑問を持つ人がいるそうです。

 自分はあれほど激しく悔い改めて、キリスト者になったであろうか。

 自分の信仰には、あのような湧き上がるような喜びがない。

『なんとなくクリスタル』(長野県知事田中康夫氏の処女作)ならぬ「なんとくなくクリスチャン」ではないかと思い悩むというのです。

 

今日の聖書箇所、ダニエル書4章では、ネブカドネツァル王が劇的に悔い改めるという内容が書かれています。

そこで、今日の言葉によるメッセージでは、

1.まず、ダニエル書4章の内容を押さえ、

2.たとえ劇的な悔い改めでも、私達を元の罪の生活に引き戻す力が働くこと。

3.信仰を育んでいくためには、人間的努力(理性)もまた重要であること。

4.劇的な悔い改めでなくても、どうしたら信仰生活の中で喜びを見出していけるのかの

  具体的な方法について聖書の御言葉を通して聞いていきます。

 

<第2部>

 第4章は、ネブカドネツァル王の告白というかたちで書かれています。

1.王の見た夢の内容

 再びネブカドネツァル王は、悪夢にうなされます。

2:一夜、わたしは夢を見た。眠りの中に恐ろしい光景が現れ、わたしは頭に浮かんだ幻に悩まされた。

 

王の見た夢は、次の通りです。

7:眠っていると、このような幻が頭に浮かんだのだ。大地の真ん中に、 一本の木が生えていた。大きな木であった。

8:その木は成長してたくましくなり/天に届くほどの高さになり/地の果てからも見えるまでになった。

9:葉は美しく茂り、実は豊かに実って/すべてを養うに足るほどであった。その木陰に野の獣は宿り/その枝に空の鳥は巣を作り/生き物はみな、

この木によって食べ物を得た。

10:更に、眠っていると、頭に浮かんだ幻の中で、聖なる見張りの天使が天から降って来るのが見えた。

11:天使は大声に呼ばわって、こう言った。『この木を切り倒し、枝を払い/葉を散らし、 実を落とせ。その木陰から獣を、その枝から鳥を追い払え。

12:ただし、切り株と根は地中に残し/鉄と青銅の鎖をかけて、野の草の中に置け。天の露にぬれるにまかせ/獣と共に野の草を食らわせよ。

13:その心は変わって、人の心を失い/獣の心が与えられる。こうして、七つの時が過ぎるであろう。

14:この宣告は見張りの天使らの決定によりこの命令は聖なる者らの決議によるものである。

すなわち、人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれをだれにでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできるということを、人間に知らせるためである。』

 

2.ダニエルによる夢の解釈

ダニエルは、王の見た成長する木、そして切り倒される木の夢に対して、次のような解釈をします。

 

21:さて、王様、それを解釈いたしましょう。これはいと高き神の命令で、わたしの主君、 王様に起こることです。

22:あなたは人間の社会から追放されて野の獣と共に住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれ、こうして七つの時を過ごすでしょう。

そうして、あなたはついに、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままにそれをだれにでも与えられるのだということを悟るでしょう。

23:その木の切り株と根を残すように命じられているので、天こそまことの支配者であると悟れば、王国はあなたに返されます。

24:王様、どうぞわたしの忠告をお受けになり、罪を悔いて施しを行い、悪を改めて貧しい人に恵みをお与えになってください。

そうすれば、引き続き繁栄されるでしょう。」

 

3.実現した預言

 残念ながら、ネブカドネツァル王はダニエルの悔い改めを迫る預言を真摯には受け止めませんでした。

25:このことはすべて、ネブカドネツァル王の上に起こった。

26:十二か月が過ぎたころのことである。王はバビロンの王宮の屋上を散歩しながら、

27:こう言った。「なんとバビロンは偉大ではないか。これこそ、このわたしが都として建て、わたしの権力の偉大さ、

わたしの威光の尊さを示すものだ。」

−全くダニエル預言を受け入れていないネブカドネツァル王の姿です。

 ところが、

30:この言葉は直ちにネブカドネツァルの身に起こった。

彼は人間の社会から追放され、牛のように草を食らい、その体は天の露にぬれ、その毛は鷲の羽のように、つめは鳥のつめのように生え伸びた。

 

あっという間に、預言は実現し、ネブカドネツァル王は、獣同様の生活に突き落とされます。巨大な金の像を作り拝ませた王も、落ちるところまで落ちたものです。

それほど、神の裁きは徹底しているのです。

 

4.悔い改めたネブカドネツァル王

 落ちるところまで落ちた王は、天を見上げます。

 

31:その時が過ぎて、わたしネブカドネツァルは目を上げて天を仰ぐと、理性が戻って来た。わたしはいと高き神をたたえ、永遠に生きるお方をほめたたえた。 その支配は永遠に続き/その国は代々に及ぶ。

32:すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。 その手を押さえて/何をするのかと言いうる者はだれもいない。

33:言い終わると、理性がわたしに戻った。栄光と輝きは再びわたしに与えられて、王国の威光となった。貴族や側近もわたしのもとに戻って来た。

こうしてわたしは王国に復帰し、わたしの威光は増し加わった。

34:それゆえ、わたしネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、驕る者を倒される。

 

このように、獣同然までに落ちた王は、劇的な悔い改めによって、元の王の生活に戻ることができたのです。

 以上が、第4章の内容です。

 

<第3部>

1.「切り株と根」

 

 このように、ネブカドネツァル王は劇的に悔い改めます。

 ですから、私達はどうしても、その「劇的な悔い改め」に関心が集まってまいます。

しかし、ネブカドネツァル王の悔い改めに至る過程でどうしても押さえておかなければならないのが「切り株と根」なのです。

 

12:ただし、「切り株と根」は地中に残し/鉄と青銅の鎖をかけて、野の草の中に置け。

20:ただし、「切り株と根」を地中に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて野の草の中に置け。−天使が夢で語ったものです。

23:その木の「切り株と根」を残すように命じられているので、天こそまことの支配者であると悟れば、王国はあなたに返されます。−ダニエルの言葉です。

 

 話の流れからすると「切り株と根」はネブカドネツァル王が悔い改めた後に戻るバビロン王国であることが読み取れます。

確かに、ネブカドネツァル王は、悔い改めた後、バビロン王国の王として残りの生涯を送ります。

 

 では、なぜ、神様は「切り株と根」だけは残すように命じられたのでしょうか。「切り株と根」は、ネブカドネツァル王が支配したバビロン王国です。

 ネブカドネツァル王=バビロン王国と言ってもいいでしょう。「切り株と根」であるバビロン王国が栄華を極めたため、逆にネブカドネツァル王は

おごり高ぶり、金の像を作らせ、拝ませたりもしたのでまた、ダニエルの友人を燃え盛る炉にも投げ込ませたのです。(第3章)

 神様は、罪の根元であるバビロン王国、すなわち「切り株と根」をなぜ、残しておくように命じたのでしょうか。

「切り株と根」について、また別の見方も可能です。

 罪の根元である「切り株と根」があったからこそ、ネブカドネツァル王は、自分の犯した罪に気づき、天を見上げ、悔い改めることができたとも言えます。

 神様は、悔い改めの余地を残すために、あえて「切り株と根」を残されたとも言えます。

 いずれにしても「切り株と根」がネブカドネツァル王の劇的な悔い改めに深く関わっているのは確かです。

 

2.私達にもある「切り株と根」

 

 罪の根元である「切り株と根」をあえて残すように命じられたのは、何もネブカドネツァル王だけではありません。

 ここにいる私達人間にも、罪の根元である「切り株と根」は存在します。  【資料】参照

なぜ、私達は、罪を犯してしまうのか。

 罪には、一番外に「行いの罪」が具体的に存在します。<例>悪口、不品行など

では、なぜ人間は「行いの罪」を犯してしまうのでしょうか。

 それは、外から2番目に「想いの罪」があるからです。<例>嫉妬心、妬みこの「想いの罪」が「行いの罪」を引き起こすのです。

 もちろん、人間には理性がありますから「想いの罪」だけで留めることも可能です。

では、なぜ、「想いの罪」があるのか。

 それは、人間の一番奥に「原罪」というものが歴然と存在するからなのです。「想いの罪」も「行いの罪」も「原罪」がなせる業です。

原罪のない人間はいない。私は、「原罪」を、ダニエル書4章では「切り株と根」と呼んでいると考えました。

 

 つまり、原罪である「切り株と根」があるからこそネブカドネツァル王は罪の数々を犯してしまったのです。だとすると「切り株と根」はネブカドネツァル王だけに語られてのではなく、私達人間は、だれしもが、原罪としての「切り株と根」を持っているのです。

 

3.古い性質と新しい性質

 

 木曜祈祷会では、『新しい人生の道しるべ』というテキストを使って学んでいます。

 第3課では、バプテスマを受けた人間には、罪を起こさせる古い性質が残っており、

古い性質と神によって与えられた新しい性質とがぶつかり合うということを学んでいる。 

 古い性質が「切り株と根」と考えるとよく分かる。

 どんなに劇的な悔い改めでも、古い(罪の)性質=「切り株と根」が深く私達に根付いているので、キリスト者になっても罪に苦しむのです。

むしろ、キリスト者になる前よりも、罪に対して敏感になる。

 神様が、いっそのこと、古い性質なる「切り株と根」をごっそろりと抜いてくれたら、どんなに助かるであろうか。

 誰しも一度は考えたことがあるのではないでしょうか。 

 では、なぜ神様は、古い性質なる「切り株と根」をあえてごっそろりと抜かれなかったのか。多くの神学者が苦闘したテーマです。

 私達がバプテスマを受け、地上の生活を送る間は、古い性質は完全に取り去られない。

この世の終わりが来て、主イエスが再臨された時に、古い性質は、完全に取り去られる。

 主張は理解はできますが、現実の古い性質との関わりについては言及されていない。

 

4.忘却という肥料 

 さらに、古い性質なる「切り株と根」には、「忘却(忘れる)」という肥料が、あることを忘れてはいけません。

劇的に悔い改めたとしても、古い性質なる「切り株と根」が劇的に小さくなったとしても「忘却(忘れる)」という肥料が、「切り株と根」をいつの間にか成長させている。

 「あんなに信仰生活に熱心だったあの人は、今は何処に…」

だれしも、一人や二人、そんな兄弟姉妹の顔を思い出すのではないでしょうか。

 ですから、私は声を大にして言いたいのです。

「信仰生活とは、日々私達にある古い性質なる『切り株と根』との戦いである」

これは、ミッションバラバのような劇的な悔い改めを経た人であろうとなかろうと全く同じです。

 むしろミッションバラバの人たちは、有名になり、注目されることによって、自分が偉くなったかのような高慢な想い−罪−との新たな戦いがあるのです 

「信仰生活とは、日々私達にある古い性質なる『切り株と根』との戦いである」

これは、とても重要な、信仰生活の要なのです。

 

<第4部>

1.信仰と理性

 では、どのようにすれば、私達の古い性質なる『切り株と根』との戦いに勝利することができるのでしょうか。 

 そこで、31節と33節をご覧下さい。

31:その時が過ぎて、わたしネブカドネツァルは目を上げて天を仰ぐと、「理性」が戻って来た。わたしはいと高き神をたたえ、

 永遠に生きるお方をほめたたえた。その支配は永遠に続き/その国は代々に及ぶ。

33:言い終わると、「理性」がわたしに戻った。栄光と輝きは再びわたしに与えられて、王国の威光となった。貴族や側近もわたしのもとに戻って来た。

こうしてわたしは王国に復帰し、わたしの威光は増し加わった。

 

 「理性」が戻ってきた。ここでは「理性」という言葉が使われています。原典でも「理性」という言葉が使われています。

「信仰と理性どちらが重要か」という課題は、神学的にも重要な課題です。

 例えば、主イエスの復活を理性で考えても、なかなか合理的な理解は得られません。特に、主イエスの復活は、「ただ信じる」という信仰的決断が最後に求められます。

 では、だからと言って、「理性」が全く不必要かというとそんなことはありません。

 私達が、最初に聖書なり、教会に行った時のことを思い出してみてください。

 「ようーし、信じてやるぞ」と腕まくりして、聖書を開いたり、教会に行った人はいないと思います。(こんな人ばかりだったら、伝道はとても楽です)

 奇跡や復活を疑ってみたり、いろいろと考えたのではないでしょうか。これは、まさに「理性」が私達に備わっているからです。

 ですから、信仰と理性どちらも重要なのです。 

 そして、聖霊の働きによって、「理性」では理解できない部分があるにせよ、

「えいやー」と決断して、第一歩を踏み出し、私達はバプテスマを受けたのです。

 そして、今日に至っているのです。 

 ただ「えいやー」と決断する信仰だけでは終わっては、信仰生活は継続できません。

 現実の信仰生活は、山あり谷ありです。

 躓きも多くあります。福音や恵みを忘れないためには、理性−人間的努力−がどうしても必要なのです。

 

 私は、これを「理性による信仰のサンドウッチ」と呼んでいます。信じる前は、いろいろと疑ったり考えたりと「理性」が働きます。

 そして、主イエスを救い主と信じる<信仰>が来ます。

 次に、その<信仰>を支える「理性」が来るという図式です。

          「理性」<信仰>「理性」

 つまり、<信仰>は「理性」に始まり、「理性」によって育まれると考えるのが、「理性による信仰のサンドウッチ」理論(?)です。

 

理性理性というと信仰が形骸化して、つまらないものになるような気がします。

 ただ、私が言いたいことは、次の通りです。

「どんなに劇的な悔い改めがあったとしても、私達人間には、古い性質なる『切り株と根』が存在し、劇的な悔い改めですら、忘却の彼方に追いやってしまう」ということです。

 逆に言えば「劇的な悔い改めでなくとも、信仰は、一定の人間の努力−理性−が契機となり、育まれる」ということです。

 

2.信仰生活と植物

 この「理性による信仰のサンドウッチ」理論の元になっているのが、コリントの信徒への手紙一3:6−7です。

6:わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。

7:ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

 

 パウロは「成長させてくださるのは神」であることを強調しています。もちろん、私達の信仰を育んで下さるのは神様であると、私は信じています。

 

問題は「成長させてくださるのは神」という部分を自分の都合のいいように解釈して、バプテスマを受けた後は、信仰というものは神様が自動的に勝手に成長させて下さる、

人間の側は左団扇で過ごせると考えるのです。

 

 私達の信仰生活と植物を育てることは似ています。ほとんどの植物は、種を植え、水をやり、雑草を取るなど手間暇かけて成長します。

 確かに、植物本体を成長させてくださるのは神様です。同時に、パウロの植えるという行為、アポロの水を注ぐという人間的努力−理性−があったからこそ、神様は植物を育てて下さったのです。

別な言い方をすれば、「成長させてくださるのは神」という強い信仰(確信)があったからこそ、パウロは植え、アポロは水を注いだのです。

コリントの信徒への手紙一3:6−7をよく読むと、「種を植え、水を注ぐ」という人間的努力−理性−を決して否定したものではないのです。

 私は、ダニエル書4章で、ネブカドネツァル王が悔い改める時「理性が戻った」と「理性」という言葉を用いていることに神様の深いご配慮を感じるのです。

 

3.5つの約束

では、「種を植え、水を注ぐ」ということはどんなことでしょうか。

信仰を育んでいくためには、私達は具体的に何をすればいいのでしょうか。

 当たり前のことかも知れませんが、「5つの約束」を地道に守ることです。

「種を植え、水を注ぐ」の具体例が「5つの約束」です。

 5つの約束とは−

(1)聖書を良く読む

(2)聖書に基づいて祈る。

(3)礼拝、諸集会を守る。

(4)献金、奉仕をする。

(5)伝道する。

 子羊会−小学生の集まり−では、毎年「5つの約束」が繰り返されています。

 私達、大人はどうでしょうか。

 

 私達にある古い性質なる「切り株と根」との戦いに勝利するために、「5つの約束」はとても有効です。

 反面、5つの約束はいくら口で説明しても、その喜びを十分に伝えることはできません。

 私達一人一人が、少しでもいいから実行することによって、体験的に得られる喜びです。

 

日々聖書を読み、十字架の主、復活の主に出会う。

日々の祈り中で、十字架の主、復活の主に感謝できる。

礼拝、諸集会を通して、十字架の主、復活の主への強い確信を得ることができる。

献金、奉仕を通して、十字架の主、復活の主への感謝を表すことができる。

伝道を通して、十字架の主、復活の主を信じる人が新に起こさせる。

 

たとえネブカドネツァル王のように劇的な悔い改めでなくても、私達は生まれ変われることがことができるのです。

 なぜなら、信仰を育んでいくために、神様は私達に、聖書の御言葉を目の前に備えて下さっているからです。 

劇的な悔い改めでなくても、私達は生まれ変われることがことができるのです。

 なぜなら、信仰を育んでいくために、神様は私達に、キリストの体なる教会をこの地上に用意して下さったからです。 

劇的な悔い改めでなくても、私達は生まれ変われることがことができるのです。

 なぜなら、罪に勝利されたキリスト・イエスが復活され、今も生きていて下さっているからです。 

 なんたる恵みでしょうか。なんたる神様のご配慮でしょうか。

私達の足元に、すでに、多くの「祝福」が用意されているのです。

31:その時が過ぎて、わたしネブカドネツァルは目を上げて天を仰ぐと、理性が戻って来た。わたしはいと高き神をたたえ、

 永遠に生きるお方をほめたたえた。その支配は永遠に続き/その国は代々に及ぶ。

6:わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。

  祈ります。

 

<祈り>

 ご在天の父なる神様、あなたは、私達一人一人に一貫して熱情を持って働きかけるお方です。

その熱情的な働きかけを受け、あなたの御一人子イエス・キリストを救い主と信じ、バプテスマを受け、信仰生活を始めた者、また始めようとする者が、今ここに集められています。

しかし、現実の信仰生活には、いろいろなことがあります。

 絶望したり、泣いたり、呻いたり、再び罪を犯したり、あなたから離れたり…。あなたは、そんな弱い信仰者である私達のために、罪との闘いに勝利できるように、

イエス・キリストを復活させ、今も私達と共に生きて下さっています。

また、あなたは、私達に、聖書の御言葉を、キリストの体なる教会をこの地上に用意して下さいました。

また、このように同じ信仰を持つ、兄弟姉妹が与えられていることも喜びです。

「私の恵みは十分である。」という御言葉通りであります。

 主よ、感謝します。

 主よ、多くの足元の恵みに感謝します。

 主よ、劇的な悔い改めであろうとなかろうと、時間と共に、私達があなたから離れることのないように導いて下さい。

この祈りを、私達の救い主イエス・キリストの御名で祈ります。     アーメン。


    --- 資  料 ---

         


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