【主日礼拝メッセ−ジ要約】                              2005年7月31日

 「この名による以外救いなし 」
使徒行伝4章1〜12節
 
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 ペトロはここで二つの大切なことを強調しています。その一つは、「ほかのだれによっても、救いは得られません」という勧告です。ここに言う「救う」とは、「健やかにする」という意味があります。それは肉体が重い病から救われることを意味します。同時に霊的な病を健やかにするという意味があります。

 聖書は救われたい人だけ救われれば良いなどと悠長な言い方をしていません。人は皆、「救われなければならない」のです。神がその独り子(イエス・キリスト)を賜ったのは、この世が救われる為だと聖書(ヨハネ3:16)は言っています。創造主は確かに人間に自由意志をお与えになりました。神が差し出しておられる愛の御手にすがる自由があります。振りほどく自由も与えられています。しかし、神が人間に与えた本当の自由意志とは、キリスト信仰を妨げる力がどんなに強くても、「わたしにとってイエスこそ真の救い主である」と告白する意志のことです。

 二つ目に、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」という大切な勧めの言葉があります。

 神なしにこの世を生きることはできます。しかし、神なしに死ぬことはできません。それは滅びの国、地獄への道だからです。しかし、イエス・キリストの名には、いかなる罪びとをも救う力があります。なぜならこの方だけがわたしたちの罪の身代わりとして、天にいます父なる神のみ前に償いの供え物となって下さったからです。この方だけが十字架の上に、ご自分の命を代価としてわたしたちを悪魔の手から買い戻して下さったからです。ペトロは言います。わたしたちは救われなければならない罪びとであると。今こそイエスを救い主キリストと信じましょう。この名による以外に救いはないのですから。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                               2005年7月31日

 「この名による以外救いなし 」
使徒行伝4章1〜12節
 
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 今から2千年昔、使徒言行録が書かれた頃、キリスト教会はこの世に誕生したばかりで、世間の目はキリスト教に対して懐疑的でした。一方教会員の信仰も未熟です。迫害の厳しい世に向かって信じていることを証しするためには訓練が必要でした。いわばキリスト教会を建設する初期の段階、土台造りの時代でした。

 その意味で、3章から続くこの事件はぜひとも書き残しておかなければならなかったのです。ペトロたちは公認宗教であるユダヤ教指導者の前に引き出されて裁かれようとしています。裁く人々は当時の名門校に学び、最高学府で最高の学位をとり、宗教家として、また政治家として全国民の尊敬を集めていました。何事かあれば、王や政府から助言を求められる学識経験者です。ペトロたちは全くその逆で、無学歴、無資格、無認可の伝道者です。しかし、彼らは大胆に、「わたしたちは、ただ、『宣べ伝えよ』と命じる方の声に従って奉仕しているだけだ」と言います。一介の漁師であったペトロが居並ぶお歴々を前にして、自分たちに対する訴訟には何の裏づけも根拠もないと一蹴し、「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるもの」だと言い、詩編118:22(p.958。口語訳 p.853。新改訳 p.942)を引用して、イエス・キリストこそ国を建てあげるためになくてならない土台石であると教えて、12節の有名な言葉を語ります。この聖句は暗誦するに価します。

 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 ペトロはここで二つの大切なことを強調しています。その一つは、「ほかのだれによっても、救いは得られません」という勧告です。ここに言う「救う」とは、「健やかにする」という意味があります。それは肉体が重い病から救われることを意味します。同時に霊的な病を健やかにするという意味があります。

 「人には信仰の自由が与えられている。だからうちの子には決して信仰を強要しません。」という物分りの良い親御さんがいます。しかし、本当にそれでよいのでしょうか。聖書に照らして本当に正しい考えなのでしょうか。聖書は救われたい人だけ救われれば良いなどと悠長な言い方をしていません。人は皆、「救われるべき」です。「救われなければならない」のです。神がその独り子(イエス・キリスト)を賜ったのは、この世が救われる為だったと聖書は言っています(ヨハネ3:16)。創造主は確かに人間に自由意志をお与えになりました。神が差し出しておられる愛の御手にすがる自由があります。反対に振りほどく自由もあります。しかし、神が人間に与えた本当の自由意志とは、キリスト信仰を妨げる力がどんなに強くても、「わたしにとってイエスは主キリスト、唯一の神、救い主である」と告白する自由な意志のことです。

自分の子どもがかわいければこそ、その子を愛すればこそ、何があっても、「わたしのもと(教会)に連れてきなさい。妨げてはならない」(マルコ3:14)と言われるイエスのみ声を聴き流してはならないのです。もし、あなたの家の誰かが肉体的に重い病気や怪我に見舞われたとすれば、病院に行くも、行かないも自由と、あなたはそのままにしておくでしょうか。いいえ、すぐに病院へつれて行くはずです。では、あなたの愛する者の魂がイエス・キリストから離れ、教会から離れて飢え渇き、死ぬほどに病み患っている今、あなたはどうしてそのままにしておけるのでしょうか。

 

二つ目に、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」という大切な勧めの言葉があります。

 このメッセージの意味は、教会の土台はこの世から捨てられたイエス・キリストによって築かれ、この世は教会を通して救われるということです。イエス・キリストの御名には人を救う力があります。しかも、この名による以外に救いはないと公言してはばからないのです。

 わたしを伝道者の道へと突き動かした聖書をご紹介しましょう。旧約聖書アモス書8:11(p.1440、口語訳p.1277、新改訳p.1384)です。

「見よ、その日が来ればと 主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」

 わたしがこのみ言葉によって献身したころ、この国はまさにパンに飢え、さまざまなものに渇いていました。しかし、現在はどうでしょうか。本当に豊かになりました。この国に住む限り、お金さえあればほしいものは大抵手にすることができます。では、魂はどうでしょうか。豊かになったでしょうか。会堂の中は神を求める人、救いのみ言葉をしたい求める人で溢れているでしょうか。事実はその反対です。金が先、物が先という偶像崇拝が横行しています。人々の魂は神に対して飢え、且つ渇ききっていることに鈍感になっています。み言葉を慕い求める思いが無きに等しいです。今こそアモスの預言は現実のものとなっています。このような時代だからこそ、一人ひとり十誡の学び直しが必要なのです。そして、イエス・キリストの御名を宣べ伝える教会の責任はいっそう重くなっています。この名による以外に救いはないからです。人間が人間を救うことはできません。ましてや金や物が人を神の御許へと導いてくれることは考えられません。

 

 1967年4月21日、当時ソビエト連邦社会主義共和国から一人の女性がアメリカ合衆国に亡命しました。その人はかつてソ連の独裁者であったスターリンの娘です。もちろん彼女の亡命は世界中の驚きです。とりわけ合衆国のホワイトハウスとマスコミは、こぞって自由主義、民主主義、資本主義の勝利と宣伝しました。

 その日、ニューヨークの国際空港に降り立った彼女は、沢山の報道陣を前にこう言いました。「わたしは社会主義がいやで資本主義の国に来たのではありません。父が生きていた頃、国民はスターリンを神のように崇めていました。ところが父が死んで別の人が現れると、今度はその独裁者を神のように崇めています。わたしはこういう全体主義の国の中で育ちました。しかし、大きくなって聖書を読むようになって、人は神なしに生きられないこと、社会主義でもなく、資本主義でもなく、イエス・キリスト以外にわたしの魂を救い、心を自由にしてくれる方はほかにないことを知りました。しかし、ソ連ではそんな考えを持つことは許されないのでアメリカに来ました。私は信仰の自由を得るためにアメリカに来ました。だから、政治のためにわたしを利用することはやめていただきたいのです。」と。

 神なしにこの世を生きることはできます。しかし、神なしに死ぬことはできません。それは滅びの国、地獄への道だからです。しかし、イエス・キリストの名には、いかなる罪びとをも救う力があります。なぜならこの方だけがわたしたちの罪の身代わりとして、天にいます父なる神のみ前に償いの供え物となってくださったからです。この方だけが十字架の上に、ご自分の命を代価としてわたしたちを悪魔の手から買い戻してくださったからです。ペトロは言います。わたしたちは救われなければならない罪びとであると。今こそイエスを救い主キリストと信じましょう。

 

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

 み言葉を感謝します。かつてこの国全体が貧しかったころ、人々は宗教に救いを求めて教会堂に群がりました。しかし高度経済成長の兆しと共に、潮が引くように人々の足は教会堂から遠のき、物質的満足を得ることに血道をあげるようになりました。

 しかし今朝、あなたはどのような時代にあっても、またどのような状況にあっても、絶えず聖書を通して、「イエス・キリストの名のほかに、あなたの人生を豊かにし、魂を救うことのできるものはない」と教えて下さいました。感謝します。わたしたちは今、イエス・キリストの御名によってあなたの御許に近づきたいと願っています。どうか、罪びとのわたしをお赦しください。そして、あなたの弟子として下さいますよう、

 救い主イエス・キリストの尊い御名によってお願いします。アーメン。


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