【主日礼拝メッセ−ジ要約】                    2005年9月25日
 
「成長する教会」
 
使徒言行録 5章12-16節
 
   メッセージ:高橋淑郎牧師

 

エルサレムの教会は少し前、ペトロとヨハネが迫害されながらも神がこれに耐えさせ、勝利をもたらして下さった報告を受けた時、一同心を合わせて、「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語るようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」と祈りました(4:29−30)。神は今、その祈りに答えてくださったので、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業」を行わせてくださいました。それによって「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」ということです。今日使徒と呼ばれる人はいません。確かに、彼らのように「多くのしるしと不思議な業を行うことは」できません。しかし、教会の頭であるキリストは今も生きて働いておられることを忘れてはなりません。

今も世の中には沢山の人が、さまざまな問題で苦しんでいます。戦争の犠牲で親を亡くし、子どもを亡くした人、経済的な問題に苦しむ人、仕事に行き詰まりを感じている人、心や肉体が病んでいる人、そのほか種々の問題で苦しんでいます。誰かが、「幸福な人はみな一様に幸福だが、不幸な人はさまざまに不幸である」と言いましたが、真にその通りだと思います。教会はそうした人々の具体的な諸問題に目を閉じてはいけません。金銀はなくても、キリストの名によって立ち上がることができるように支援の手を惜しむべきではないのです。現実の問題を抱えている人の声に耳を傾けながら、全てのことにおいて必要な助けを与えてくださる御霊なるイエス・キリストによって一人ひとりの魂が救われるように導くことが教会に与えられた一番大きな使命なのです。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                     2005年9月25日

 
「成長する教会」
 
使徒言行録 5章12-16節
 
   メッセージ:高橋淑郎牧師

 

エルサレムの教会は少し前、ペトロとヨハネが迫害されながらも神がこれに耐えさせ、勝利をもたらして下さった報告を受けた時、一同心を合わせて、「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語るようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」と祈りました(4:29−30)。神は今、その祈りに答えてくださったので、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業」を行わせてくださいました。それによって「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」ということです。今日使徒と呼ばれる人はいません。確かに、彼らのように「多くのしるしと不思議な業を行うことは」できません。しかし、教会の頭であるキリストは今も生きて働いておられることを忘れてはなりません。

 今も世の中には沢山の人が、さまざまな問題で苦しんでいます。戦争の犠牲で親を亡くし、子どもを亡くした人、経済的な問題に苦しむ人、仕事に行き詰まりを感じている人、心や肉体が病んでいる人、そのほか種々の問題で苦しんでいます。誰かが、「幸福な人はみな一様に幸福だが、不幸な人はさまざまに不幸である」と言いましたが、真にその通りだと思います。教会はそうした人々の具体的な諸問題に目を閉じてはいけません。金銀はなくても、キリストの名によって立ち上がることができるように支援の手を惜しむべきではないのです。現実の問題を抱えている人の声に耳を傾けながら、全てのことにおいて必要な助けを与えてくださる御霊なるイエス・キリストによって一人ひとりの魂が救われるように導くことが教会に与えられた一番大きな使命なのです。

 

 教会が教会としてその使命に忠実である限り、衰退する心配も、滅び去る心配もありません。アナニア・サフィラ事件によって襟を正された教会は、これまで以上に主を畏れ、心を一つにして礼拝を捧げ、御言葉に聴く者とされました。それによって教会は新しい力を頂き、益々成長していったのです。エルサレムの教会は少し前、ペトロとヨハネが迫害されながらも神がこれに耐えさせ、勝利をもたらして下さった報告を受けた時、一同心を合わせて、「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語るようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」と祈りました(4:29−30)。神は今、その祈りに答えてくださったので、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業」を行わせてくださいました。それによって「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」ということです。今日使徒と呼ばれる人はいません。確かに、彼らのように「多くのしるしと不思議な業を行うことは」できません。しかし、教会の頭であるキリストは今も生きて働いておられることを忘れてはなりません。

 今も世の中には沢山の人が、様々な問題で苦しんでいます。戦争の犠牲で親を亡くし、子どもを亡くした人、経済的な問題に苦しむ人、仕事に行き詰まりを感じている人、心や肉体が病んでいる人、そのほか種々の問題で苦しんでいます。誰かが、「幸福な人はみな一様に幸福だが、不幸な人はさまざまに不幸である」と言いましたが、真にその通りだと思います。教会はそうした人々の具体的な諸問題に目を閉じてはいけません。金銀はなくても、キリストの名によって立ち上がることができるように支援の手を惜しむべきではないのです。現実の問題を抱えている人の声に耳を傾けながら、全てのことにおいて必要な助けを与えてくださる御霊なるイエス・キリストによって一人ひとりの魂が救われるように導くことが教会に与えられた一番大きな使命なのです。

 今年も魂の収穫の季節として、教会ではこれを伝統的に、「特別伝道集会」と呼んで、特別の集会を開きます。言ってみれば、教会がいつもの牧師の話ではなく、外部から講師をお呼びする集会ということで、「特別伝道集会」と呼んでいるわけですが、教会の外の人、毎週礼拝に与り、み言葉を求めている未信者の方々にとって、むしろ、「特別」という呼び名に違和感を抱かせてしまうかもしれません。ですから、最近では、この「特別」という呼び方をしないようにしている教会が増えつつあります。聖書には、「時が良くても悪くてもキリストを宣べ伝えなさい」と教えているからです。要は、多くの人々が、「今は恵みのとき、今は救いのときである」ことに目覚める神から与えられたチャンスであることを知ってくださればよいのです。

 呼び名はともかく、教会が毎年このような集会を計画するのは、それによって一人でも多くの人がイエス・キリストに出会い、救われてほしいと祈り、願うからです。せっかくこのように立派な会堂が与えられたのに、礼拝室のベンチに、たとえ一人分でも空席があるのはもったいないという思いもあります。

 牧師会に顔を出しますと、幹事さんの呼びかけで週報の交換をする時を持ちます。それを元にお互いの教会を覚えて祈り合うためです。しかし、中には週報の裏面に印刷されている礼拝や祈祷会など、集会の出席人数を見ては、「お宅は人数が増えましたね。うちの教会はいつまで経っても人が増えません」と感想を述べ合う牧師がいます。もちろん礼拝に来る人が少ないよりは大いに越したことはありません。しかし、何のための人数なのか、誰のための礼拝であり、祈祷会なのかを考えるとき、人数の多い、少ないということばかりに目を奪われて良いのだろうかと思わされます。「なんだ、結局教会もただの人集めの団体か」と思わないで下さい。キリストの教会が伝道に熱心なのは、ただやみくもに人が沢山集められれば良いと考えているわけではありません。何人の人が礼拝や諸集会に来ようが、そこに集められた全ての人が、その日示された御言葉、受けたメッセージによってイエス・キリストに出会い、罪に目覚め、悔い改めに導かれ、神から伸ばされた救いの御手にすがる者となってほしいからです。

 最後にもう一つ今日の御言葉がわたしたちに伝えようとしている神の御心についても耳を傾けてください。それは2:47にも見られたことですが、そこでは、「民衆全体から好意を寄せられた」とあり、ここ13節の「民衆は彼らを称賛していた」という一節です。教会が成長するということは、教会員一人びとりが地域の人たちにとって模範になるということです。わたしたちは会堂を建てた時、玄関の扉にまで気を配りました。通りかかる人が、教会の中でいったい何をしているのかと疑念を抱かせないように、できるだけオープンにしようということで、扉の一部にガラスをはめて中の様子が少しでも分かるようにしようと申し合わせて取り付けました。少し教会の責任を果たせたように思えます。しかしこれで十分というわけではありません。問題は教会のメンバー 一人ひとりの心と生活がキリストの弟子にふさわしくガラス張りになっているかということです。あなたの生き方がイエス・キリストを知らない人にとって好意を寄せられているものとなっているか、周囲の人々から称賛されているような地域社会とのかかわりとなっているかということです。礼拝で受けたメッセージがあなたの礼と心と肉体を健全なものとなっているか、今一度主イエス・キリストの父なる神のみ前に祈りつつ、整えられてここから遣わされて行きましょう。   祈ります。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 わたしたちはこれまで、初代の教会がどうしてあんなに急速な成長を遂げていったのかと不思議に思いながら使徒言行録を読み進んでまいりました。そして早くもそのヒントをここに見つけることができました。彼らは決して特別なことをしていなかったのです。礼拝や祈祷会で受けた恵みを自分だけのものとはしないで、ひとりでも多くの人々に伝えると共に、人々の具体的な問題に心を砕いていました。それは、御言葉が彼らの信仰と生活を一つのものとしていたので、彼らの信仰が二元的なものとはならず、教会での顔と教会の外での顔が一致していたからです。いつでもどこでも、誰に対しても一貫した言葉と振る舞いができたから、周囲の人々は、この人の信じている神様なら間違いないだろうと安心したので、教会には毎週毎週訪れる人が増えていったのだということを知りました。キリスト信仰とはこの単純なことに忠実であるか否かにかかっていることをわたしたちは学びました。

 主よ、どうかわたしたちをもう一度あなたの愛する人々のところにお遣わし下さい。今朝与えられた御言葉に従ってこの人々に仕える者としてください。

 私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをおささげいたします。アーメン。

                      


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