【主日礼拝メッセ−ジ要約】                      2005年 10月23日

 
「必ず来る」
 
ダ ニエル書7章1-28節
マ タイによる福音書24章29−31節
篠原健治協力牧師

1.四頭の獣の幻

第7章からは、6章までの物語 とは変わり、ダニエルの見た幻が主題です。

ダニエルが見た四頭の獣の幻は、 後の4つの国を預言したものでした。

ダニエル書7章

獣の姿

4節

鷲の翼を持つ獅子

バビロン

5節

三本の肋骨を持つ熊

ペルシャ

6節

四つの頭を持つ豹

ギリシャ

7、8節

19、20節

十本の角を持ち、巨大な 鉄

の歯でかみ砕く獣

ローマ帝国

「十本の角」=十の国に分裂

2.四番目の獣の後に来る 「裁き」

四番目の獣である「ローマ帝 国」は「この小さな角には人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた」(8節)とその尊大さが読み取れます。現に、ローマ帝国は、無 実の神の子イエス・キリストですら十字架につけ殺すほど横暴さを発揮します。そして、ダニエルはその後の「裁き」について幻を見ます。「その前から火の川 が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え幾万人が御前に立った。裁き主は席に着き、巻物が繰り広げられた」(10節)

3.キリストの再臨預言

ダニエルは「裁き」の幻の後、 次のような幻を見ます。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り(中略)諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配は とこしえに続きその統治は滅びることがない」(13,14節)キリストが再びこの地に来られる預言です。

4.必ず実現する「預言」

ローマ帝国滅亡、キリストの十 字架、復活は実現しました。人類の歴史は神様が握っています。キリストは「必ず来る」お方です。今、私達は「残りの時」に生きており、神様は、私達がキリ ストを受け入れることを求めているのです。

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【主日礼拝メッセ−ジ】2005年10月23日

 

 
「必ず来る」
 
ダニエル書7章
マ タイによる福音書24章29−31節
篠原健治協力牧師

 

主イエスは、十字架にかかる前に、弟子達に次のような預言をしました。

マタイ24:29−31
29:「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、
/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
30:そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、
地上のすべての民族は悲しみ、
人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
31:人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、
天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

この御言葉の前のマタイ24:15を見て下さい。
15: 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら−」
主イエスもダニエル書をベースに、預言をされたのです。

ダニエル書7章からは、6章までの物語とは異なり、奇怪な獣が登場します。
また、内容も複雑怪奇です。1回読んだだけでは分かりにくいかもしれません。

しかし、ダニエルは、7章以降で、
(1)救い主イエス・キリストがこの地上に来て下さること。
(2)キリストが十字架上で死に復活し、天に挙げられ、
(3)再び地上に来られ、神の国が実現すること
すなわち「この世の歴史すべてを神様が握っておられる」ということを語ります。

そこで、今日は
1.一見複雑なダニエル書7章を解きほぐし
2.第四の獣が示す私達の罪について読んでいき
3.悔い改めの機会が今であるということについて
御言葉に聞いていきます。


ダニエル書7章の概要

1.四頭の獣

1節をご覧下さい。
1:バビロンの王ベルシャツァルの治世元年のことである。ダニエルは、
眠っているとき頭に幻が浮かび、一つの夢を見た。
彼はその夢を記録することにし、次のように書き起こした。
2:ある夜、わたしは幻を見た。見よ、天の四方から風が起こって、
大海を波立たせた。
3:すると、その海から四頭の大きな獣が現れた。

(1)第一の獣
4:第一のものは獅子のようであったが、鷲の翼が生えていた。見ていると、
翼は引き抜かれ、地面から起き上がらされて人間のようにその足で立ち、
人間の心が与えられた。
4節の「鷲の翼を持つ獅子」はダニエルがいる「バビロン」について預言したものです。
「獅子(ライオン)」は、百獣の王でありバビロン王国の勢力の偉大さを示しています。

(2)第二の獣
5:第二の獣は熊のようで、横ざまに寝て、三本の肋骨を口にくわえていた。
これに向かって、「立て、多くの肉を食らえ」という声がした。
5節の「三本の肋骨を持つ熊」は、バビロンの後の「ペルシャ帝国」の出現を預言して
います。
「三本の肋骨」は、ペルシャ軍によって征服されるバビロン、リビヤ、エジプトを象徴しています。

(3)第三の獣
6:次に見えたのはまた別の獣で、豹のようであった。背には鳥の翼が四つあり、
頭も四つあって、権力がこの獣に与えられた。
6節の「四つの頭を持つ豹」は「ギリシャ」の出現を預言しています。
豹という動物は、巧妙で俊敏ですが、これは後のアレキサンダー大王の象徴です。
「四つの翼」「四つの頭」は、大王の死後、ギリシャが4つに分裂することを預言しています。

(4)第四の獣
7:この夜の幻で更に続けて見たものは、第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、 巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった。
他の獣と異なって、これには十本の角があった。
8:その角を眺めていると、もう一本の小さな角が生えてきて、
先の角のうち三本はそのために引き抜かれてしまった。
この小さな角には人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた。
7、8節の「十本の角を持ち、巨大な鉄の歯でかみ砕く獣」は、ローマ帝国の出現を預言したものです。
「十本の角」は後に、十の国に分裂するローマ帝国の象徴でもあります。

「四頭の獣」が示す、ダニエル以後の世界についての預言です。
そして、「四頭の獣」が示す国は、すべてその通り歴史に登場し、滅んでいきました。
聖書は、その内容がよく当たると勘違いしている人がいますが、神様は、この人類の歴史を支配されているから預言の通りに歴史は流れるということを忘れては なりません。

2.第四の獣=ローマ帝国

さて、7章では、第一番目から第三番目の獣に比べて、「第四の獣=ローマ帝国」
に関する預言が多く書かれていることに気づかれていれたかと思います。
先ほど、お読みした7,8節に加えて、19,20節で「第四の獣」について述べています。

17:「これら四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。
18:しかし、いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう。」
第一番目から第三番目の獣については、これだけです。

ところが、次の19,20節で「第四の獣」については、2回述べているのです。
19:更にわたしは、第四の獣について知りたいと思った。これは他の獣と異なって、
非常に恐ろしく、鉄の歯と青銅のつめをもち、食らい、かみ砕き、
残りを足で踏みにじったものである。
20:その頭には十本の角があり、更に一本の角が生え出たので、
十本の角のうち三本が抜け落ちた。その角には目があり、
また、口もあって尊大なことを語った。これは、他の角よりも大きく見えた。

なぜ、「第四の獣=ローマ帝国」については、このように詳しいのでしょうか。
「ローマは一日にして成らず」
「すべての道はローマに通ず」
など、ローマ帝国が世界の中心であったことは有名です。
将来、歴史上大きな存在になりうるから、ダニエル書7章では2回にわたって、
「第四の獣=ローマ帝国」について、詳しく預言したのでしょうか。
もちろん、そういったことも理由の一つでしょう。

しかし、もっと重要なことは、「第四の獣」が、他の3つの獣に比べて、
非常に恐ろしかったということです。
19:更にわたしは、第四の獣について知りたいと思った。これは他の獣と異なって、
非常に恐ろしく、鉄の歯と青銅のつめをもち、食らい、かみ砕き、
残りを足で踏みにじったものである。
20:その頭には十本の角があり、更に一本の角が生え出たので、
十本の角のうち三本が抜け落ちた。その角には目があり、
また、口もあって尊大なことを語った。これは、他の角よりも大きく見えた。

主イエスが、十字架に架けられ亡くなられたエルサレムは、当時ローマ帝国の支配下にありました。
無実の神の子−イエス・キリストを無惨に殺すほど、
19:「これは他の獣と異なって、非常に恐ろしく、鉄の歯と青銅のつめをもち、食らい、
かみ砕き、残りを足で踏みにじったものである」と読むことができます。
また、十本の角についてはどうでしょうか。
20:「その角には目があり、また、口もあって尊大なことを語った」
無実の神の子−イエス・キリストを「十字架につけろ」と叫ぶ尊大な群衆の口、口−。

ダニエルは、「第四の獣」の預言を通して、神の子−イエス・キリストの苦難の幻を
見たのです。
だからこそ、特別に2回「第四の獣=ローマ帝国」について語られているのです。


3.四番目の獣の後に来る「裁き」

ダニエルが、「四番目の獣」の後に見たものは何でしょうか。

9:なお見ていると、/王座が据えられ/「日の老いたる者」がそこに座した。
その衣は雪のように白く/その白髪は清らかな羊の毛のようであった。
その王座は燃える炎/その車輪は燃える火
10:その前から火の川が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え/幾万人が御前に立った。
裁き主は席に着き/巻物が繰り広げられた。

人類の歴史上のすべての悪に対する制裁が下される預言がここにあります。
たとえ、悪が勝ち誇っているのではないかと思われても、必ず悪は裁かれるのです。

4.キリストの再臨預言

ダニエルは「裁き」の幻の後、次のような幻を見ます。
13:夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/
「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
14:権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/
彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。

キリストが再びこの地に来て、神の国が実現するという預言です。

以上が、ダニエル書7章の概要です。


罪としての「角」

1.黙示としてのダニエル書

四つの獣が出てくるなど、ダニエル書7章は、極めて複雑怪奇です。
ダニエル書は、黙示文学というカテゴリーに分類されます。
「黙示」としては、新約聖書の「ヨハネの黙示録」が有名ですが、
ダニエル書7章以降も「ヨハネの黙示録」同様、一読しただけではよく分かりません。
それは、「黙示」というものが、
(1)宗教迫害を契機に生まれたものであり,
(2)迫害の中でも分かるように、四つの獣など−象徴的表現を用いている。
(3)外部の者には謎にしか見えないものが、同じキリスト者にとっては一種の共通の
暗号として書かれている
という性質があるからです。
それでは、黙示の暗号を解く鍵は何か−
それは、黙示であろうと何であろうと、聖書は、イエス・キリストを証しし、神の国の究極的勝利の確信を強調したものであるいうことです。
ですから聖書を読む時、旧約・新約どちらでも、そこの書かれた「イエス・キリスト」について読み込んでいく必要があるのです。

2.罪と福音

次に、聖書に書かれたキリストを読んでいく時、同時に私達人間の側が意識すべきことは、私達の「罪」の問題です。
「自分の罪の問題」抜きで聖書を読むと、イエス・キリストは、単なる歴史上の人物になってしまいます。
「罪について」いつも念頭に置きながら聖書を読むと、キリストの福音−「十字架の福音」「復活の福音」「再臨の福音」−がまさに福音として私達に恵みと して与えられるのです。

3.尊大なことを語る角

それでは、ダニエル書7章にある私達の罪とは何でしょうか。
私達は、7章において「四番目の獣」についての多くのことが書かれていることを見てきました。
そこで、四番目の獣の「角」について、私達は意識を集中させていきたいと思います。
私が、特に、着目したいのは8節、11節です。

8:その角を眺めていると、もう一本の小さな角が生えてきて、
先の角のうち三本はそのために引き抜かれてしまった。
この小さな角には人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた。
11:さて、その間にもこの角は尊大なことを語り続けていたが、ついにその獣は殺され、 死体は破壊されて燃え盛る火に投げ込まれた。
この8節、11節は、「四番目の獣=ローマ帝国」の「角」であって、
私の罪とは関係がないと考える人もいるでしょう。
しかし、私が示されたことは「尊大なことを語る角」が私達の心の奥底にあるのではないかということです。
「尊大なことを語る角」こそ私達の罪の象徴ではないか。

聖書は、「罪のない人はいない」と語ります。
言い換えると「角のない人はいない」「尊大なことを語る角のない人はいない」となるでしょう。

4.罪なる角

私達にある「罪なる角」としてまず思い浮かぶのが、私達の発する「言葉」です。
「棘のある言葉」などとよく言いますが、棘も角の一種です。
私自身、「棘(角)のある言葉」で、今まで多くに人を傷つけてきました。

また、私達の発する「角なる言葉」は神に向かうこともしばしばです。
棘がたくさん付いているのが「茨」ですが、棘(角)だらけの茨を主イエスの頭に載せ、
苦痛を与えてのも人間です。
「神などいない」とか「まーいいじゃないか、神様なんて」と言いながら神から離れていく自分−。
神しか創造できない命を平気で抹殺してしまう人間−。
「尊大なことを語る角」こそ私達の罪の象徴ではないか。
ダニエルは、ハッキリと次のような語ります。
8:この小さな角には人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた。

次に11節に行く前に、10節をご覧下さい。
10:その前から火の川が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え/幾万人が御前に立った。
裁き主は席に着き/巻物が繰り広げられた。
裁き主が裁く場面ですが、
11:さて、その間にもこの角は尊大なことを語り続けていた
とあります。
神の裁きがある間も、尊大なことを語り続ける角−。

神の裁きがある時は、大変かもしれませんが、実はまだましなのです。
なぜなら、悔い改めのチャンスが人間に与えられているからです。
神による最大の裁きは、悔い改めの機会すら人間に与えられないことです。
悔い改めの機会が与えられても、尊大なことを語り続ける角−。
「尊大なことを語る角」こそ私達の姿ではないか。

私達の信仰生活とは、放置しているといつの間にかニョキニョキと生えてくる
「尊大なことを語る角」をへし折っていく戦いでもあるのです。


必ず来る


1.千載一遇の機会

それでは、尊大なことを語り続ける角なる罪から救われるためには、どうすればいいのでしょうか。
それは、今、この時、千載一遇の悔い改めの機会を逃さないということです。

人間によって、棘(角)だらけの茨を頭に載せられ、十字架上で主イエスは亡くなりました。神の子イエスの頭に棘(角)だらけの茨を頭に載せたのは他でも ない、
「第四の獣=ローマ帝国」の兵士です。
私は、神を神として扱わないローマの兵士と私達の姿とが重なるのです。
しかし、主イエスは「彼らは自分が何をしているのか知らないのです」と言って、
私達の罪を赦して下さった。
そして、3ヶ日後、罪に完全に勝利したことを示すために、主は復活された。
その後、天に昇り、神の御座に座り、再びこの地上に来ようとしている。

十字架上で、私達の罪を赦して下さった主イエスを信じるかどうか、
罪に完全に勝利し、復活された主イエスを信じるかどうか、
悔い改め、信じる機会が、今、与えられているのです。

2.なぜ今なのか

それでは、なぜ、今が、千載一遇の悔い改め、信じる時なのか。
それは、マタイ24:44にあるように
44:「人の子は思いがけない時に来るからである」とも言えるでしょう。
しかし、私がもっと申し上げたい切実な理由は、
「この先、私達の命がどうなるかは分からない」からなのです。
何かの事故に巻き込まれるかもしれない。<事例>福知山線の事故
また、最近頻発している地震によって、命を失うかもしれない。
「命がどうなるかは分からない」という現実の中に、私達はまさに「生かされている」のです。
「生かされている」のはだれのお陰か。
今ここに「生かされて」「悔い改めの機会が与えられている」のはだれのお陰なか。
私達の命を支配しているのは、私達ではなく、まさに天の父なる神様なのです。
私達の命を支配している神様から、悔い改めの機会が、今、与えられている−。
だからこそ、今が、千載一遇の悔い改め、信じる時なのです。

3.終わりの時

聖書には、多くの箇所で「終わりの時」について書かれています。
今日読んでいるダニエル書も、「終わりの時」について書かれています。
終わりの時、終末の時とは、この世が終わる時でもあります。
とかく世の終わりについて言及し、恐怖心を煽るのが、異端の教えです。
しかし、聖書をよく読んで欲しいのです。
もっと重要なことは、私達が罪との戦いをしなくてすむ時が、最終的な「終わりの時」
であるということです。
私達が「尊大なことを語り続ける角なる罪」から救われた世界が、ダニエル書7:13−14節にあります。

13:夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/
「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
14:権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/
彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。


4.3つの「必ず来る」時

私達は、聖書から、次の3つの時が「必ず来る」ことを最後に確認したいと思います。
第1番目の時:私達が地上の生活を終える時が必ず来るということです。
第2番目の時:「人の子−キリスト−が思いがけない時に天の雲に乗りやって来る」時が必ず来る。
第3番目の時:キリストが完全に支配する罪のない世界が必ず来る。

「必ず来る」時に備えて、今、私達がなすべき事は、ただ1つ−。
私達が「尊大なことを語り続ける角」で神と隣人を傷つけてきたことを認め、悔い改めるということなのです。

祈ります。

<祈り>
天の父なる神様、今、着実に終わりの時が近づいています。
しかし、あなたは、約4000年前、ダニエルを通して、
人の子−キリスト−が思いがけない時に天の雲に乗りやって来ること、
さらに、キリストが完全に支配する罪のない世界を私達に見せてくださいました。
そして今という時、私達が「尊大なことを語り続ける角」で神と隣人を傷つけてきたことを認め、悔い改める機会があることを知りました。
天の父なる神様、あなたが「今」という時に私達を生かして下さり、
「今」とう時に私達に悔い改めの機会を与えて下っていることを感謝します。
私達が、「今」というこの時を生かしていくことができますように。
この祈りを、歴史を支配し、この瞬間も私達の命を支配されるイエス・キリストの御名でお祈りします。 アーメン。


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