【主日礼拝メッセ−ジ−召天者記念−要約】                   2005年11月6日
 
「夕暮れにも光」
 
ゼカリヤ書 14章7節
「しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。
そのときは昼もなければ、夜もなく/夕べになっても光がある。」 
 
高橋淑郎牧師
 

 エルサレムはアジア、アフリカ、ヨーロッパを結ぶ中心に位置する都です。それだけに古来数多くの大国から派遣された軍隊に踏み荒らされた都でもあるのです。その都度略奪と強姦と捕囚がこの地の人々を苦しめてきました。しかし、12章1節に、「イスラエルに対する主の言葉。天を広げ、地の基を置き、人の霊をその内に造られる主は言われる。」とあります。この地を足蹴にする大国にとって、エルサレムの都はただ軍事的中間地点以上の意味を持たないのでしょうが、神は、「エルサレムを、周囲のすべての民を酔わせる杯とし、重い石とする。それを持ち上げようとする者は皆、深い傷を負う。」と言われます。そしてこの章から何と17回も、「その日にはこうなるであろう」と繰り返されます。「その日」は特別の日、「ただ一つの日」(14:7)です。エルサレムの郊外に十字架が建てられ、そこにわたしたちの主イエス・キリストが釘打たれた日です。確かに、6節に言うとおり、「その日には、光がなく冷えて、凍てつくばかり」と思われる闇が、ひと時支配した日です。しかし、その日は確かに「ただ一つの日」となりました。その日は主なる神だけが知っておられるのです。主は墓に眠ったままではありませんでした。輝かしい復活の朝となられたのです。もはや主イエス・キリストにおいては昼もなければ夜もありません。夕べになっても光があるとは、もはや臨終を前にした者にとっても、復活の主がそこに立っておられるゆえに、絶望の淵、死の淵である夕暮れはないのです。

 今、主なる神の権威の下に置かれている20数名の人々にとってはもちろん、これら故人を偲びつつ礼拝をささげているわたしたちにとっても死の先に何があるかわからない不安な夕暮れではなく、復活の朝を実現してくださった主イエス・キリストがおられるのです。感謝しましょう。讃美しましょう。

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【主日礼拝メッセ−ジ−召天者記念−                    2005年11月6日

 
「夕暮れにも光」
 
ゼカリヤ書 14章7節
「しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。
そのときは昼もなければ、夜もなく/夕べになっても光がある。」 
高橋淑郎牧師

 

 今朝、わたしたちの教会では先に天の父なる神の主権の御手に移された22名の故人を心に留め、神の栄光をほめ讃える記念礼拝をささげています。

 死者の為の祭祀について、神道では霊前祭を、仏教では法事法要を、そしてカトリック教会においても煉獄にある者を覚えて特別のミサを行うことがあります。こられはみな、「追善供養」の意味合いを持っています。この外に日本では神道や仏教を中心に、「怨霊鎮魂」という祭があります。家を建てる際の地鎮祭を始め、京都の豊國神社、奈良の法隆寺、神戸湊川の湊川神社、福岡県太宰府の太宰府天満宮等は、元来怨霊を鎮める為に建てられた神社仏閣と言われています。優れた和歌の集大成として有名な「古今和歌集」も、柿本人麻呂や大伴家持の怨霊を鎮めるために編集されたという説があります。このように時の権力者の手によって流罪にされ、或いは非業の死を遂げた者の霊を、同じ権力者が、そうした故人の怨霊の祟りを恐れ、時に応じて祭りを行うべく神社仏閣を建てたり、書物をもってその功績を称えたのであります。

 では、キリスト教会が故人を記念する礼拝を神にささげるのにはどのような意味があるのでしょうか、その目的は何なのでしょうか。この20数名の故人の怨霊を恐れ、鎮めるためでしょうか。もちろんそうではありません。今一度聖書から学ぶ必要があります。

そもそも旧約聖書では特に故人を記念する礼拝のようなものがささげられたという明確な記録はありません。しかし、全くなかったのかというと、そうとも言い切れません。たとえば、旧約聖書の中には、たびたび、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉が見られます。イスラエルの人々は、時に応じて、こうした信仰の先達を心に思い起こしてはイスラエル民族としてのアイデンティティを確立させようとしたということができます。イエス・キリストも同じように、旧約聖書の一説を通してこれらの人々がその信仰によって今も生きていることを証言し、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」(マタイ22:32)と教えておられます。わたしたちは死んだ者の神ではなく、今も生きておられる主イエス・キリストの父なる神を讃美し、この神によって生を与えられ、この神によってその命を取り去られた一人びとりを覚えて記念することは真に御旨に適ったことと言うことができます。

そこで、キリスト教会の記念礼拝、或いは記念式について理解をひとつにするために整理しておきましょう。

1.故人を偲び、生前の生活を思い起こす。

2.故人に対する主の恵みを感謝する。

3.遺族に対する主の慰めを祈る。

4.自分自身の死を覚える。

5.やがて主のみ前にある再会を待ち望む。

 さて、わたしは今日の記念礼拝のためにゼカリヤ書を選ばせて頂きました。その理由は、これほど終末と救い主の来臨について数多く、新約聖書に引用されている預言書は他にないと言えるからです。大雑把に言って、実に70箇所以上にも上ります。内訳を言うと、ヨハネの黙示録に40回以上、四つの福音書には20回以上、その他は手紙に見られます。新約聖書に引用されるということは、ただ、「この言葉はゼカリヤ書のどこそこに書いております」というだけではありません。そうではなく、「ゼカリヤ書のこの預言は実にイエス・キリストにおいて成就しました。」と言っているのです。特に12章以後において、ゼカリヤ書は、この神からの託宣は、神から遣わされるメシア、キリストにおいて必ず成就すると預言しているのです。それから4世紀のときを経て、確かにこの預言はイエス・キリストにおいて成就しました。

 わたしは今日7節だけをご紹介しましたが、本当はゼカリヤ書全体を一緒に読みたかったのです。しかしそれでは長すぎて、皆さん疲れるといけないと思い、鍵言葉になるこの節だけにしました。

 エルサレムはアジア、アフリカ、ヨーロッパを結ぶ中心に位置する都です。それだけに古来数多くの大国から派遣された軍隊に踏み荒らされた都でもあるのです。その都度略奪と強姦と捕囚がこの地の人々を苦しめてきました。しかし、12章1節に、「イスラエルに対する主の言葉。天を広げ、地の基を置き、人の霊をその内に造られる主は言われる。」とあります。この地を足蹴にする大国にとって、エルサレムの都はただ軍事的中間地点以上の意味を持たないのでしょうが、神は、「エルサレムを、周囲のすべての民を酔わせる杯とし、重い石とする。それを持ち上げようとする者は皆、深い傷を負う。」と言われます。そしてこの章から何と17回も、「その日にはこうなるであろう」と繰り返されます。「その日」は特別の日、「ただ一つの日」(14:7)です。エルサレムの郊外に十字架が立てられ、そこにわたしたちの主イエス・キリストが釘打たれた日です。確かに、6節に言うとおり、「その日には、光がなく冷えて、凍てつくばかり」と思われる闇が、ひと時支配した日です。しかし、その日は確かに「ただ一つの日」となりました。その日は主なる神だけが知っておられるのです。主は墓に眠ったままではありませんでした。輝かしい復活の朝となられたのです。もはや主イエス・キリストにおいては昼もなければ夜もありません。夕べになっても光があるとは、もはや臨終を前にした者にとっても、復活の主がそこに立っておられるゆえに、絶望の淵、死の淵である夕暮れはないのです。

 今、主なる神の権威の下に置かれている20数名の人々にとってはもちろん、これら故人を偲びつつ礼拝をささげているわたしたちにとっても死の先に何があるかわからない不安な夕暮れではなく、復活の朝を実現してくださった主イエス・キリストがおられるのです。感謝しましょう。讃美しましょう。祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 今朝、わたしたちは先にあなたの主権の手に委ねられた20数名の方々を記念して、み前に礼拝をささげています。

わたしたちはこのような記念礼拝、また各家庭で記念式を持つ時、普段の生活の中で、つい忘れがちな故人の行く末について思いを馳せます。いったい故人はどうなったのか。またこのような礼拝や式にどのような意味があるのだろうかと。しかし、今ははっきりと分かります。これは故人のためというよりも、今生かされているわたしたちのために必要な時であったのだと言うことを。故人の居場所ははっきりしています。問題はわたしたちでした。十字架の死に打ち勝ち、復活された主イエスは朝日のごとくわたしたちの前に輝いておられます。この主のみ前にあるわたしたちも主を信じることによって、たとえ人生の夕暮れにあってもあなたから輝き出る光によって復活の命に与ることがゆるされるのです。主よ、感謝します。

私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをおささげいたします。アーメン。


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