【主日礼拝メッセ−ジ要約】                   2005年11月13日
 
「信仰が宿る」

テモテへの手紙二 1章3−5節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 この純真な伝道者であり、牧会者であるテモテの源泉をさかのぼっていくと、その信仰は先ず彼の祖母ロイスに宿り、母エウニケを経てテモテへと受け継がれているという事実を見ることができます。

 ここで、「信仰が宿った」という意義深い言い回しですが、信仰は神からの賜物であって、人間の功徳によるものではないという意味です。パウロはほかの手紙の中で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」と書き送っています(气Rリント12:3)。確かに信仰はわたしたち人間の側の修練や功徳を積み重ねて実現させるものではありません。このロイスからエウニケ、そしてテモテへと受け継がれたキリスト信仰は、ただクリスチャンホームだから、信仰者の家庭だから自動的にイエスを救い主と信じる人になったと言うのではありません。テモテをキリスト者、また伝道者として神に仕える者となし得たのは、ひとり、彼の素質や誠実な品性によるものではありません。彼を取り巻くこうした家族や教会の兄弟姉妹、そしてパウロというよき師に巡り会えたこと、そしてこの人たちの祈りと信仰の交わりの賜物というほかありません。

 今朝は子どもたちを祝福する主の日として礼拝を献げています。この子達がやがて神と人に愛され、また神と人を愛する人、神に喜ばれる人として霊的にも成長してくれるようにと願いを込めて、一人ひとりの子どもたちの頭に手をおいて祝福を祈りました。更に、キリストの教会が幼子たちを祝福するということは、わたしたちがひとりのロイス、ひとりのエウニケ、またひとりのパウロとして、この幼子たちがやがて純真な信仰の人、テモテとされて、その心にイエス・キリストに対する信仰が芽生えるようにと祈り、み言葉を通して救いの道を伝えることです。教えることです。  そのことのためにこれからも共に祈り続けましょう。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                  2005年11月13日

 
「信仰が宿る」

テモテへの手紙二 1章3−5節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 テモテへの手紙はその書名ではっきりしているように、使徒パウロが愛弟子テモテに宛てて書いたもので、内容もきわめて個人的です。しかし、聖書注解を手がけている学者によってはこの極めて個人的な内容をめぐって、パウロはこのような手紙の書き方をする人ではないからという理由で、これはパウロの名を借りて、パウロの最もよき理解者の一人が書いたものではないかと想像する人もいます。しかし、そんな小難しい分析は偉い先生方に任せて、わたしたちはもっぱらこれをパウロのものという理解で読むことにしましょう。

 

 皆さんは大好きな人のことを一日のうちで、また毎日の生活の中でどれくらい考えるでしょうか。いくら大好きな人でも忙しい仕事の間は忘れていることもあるでしょう。しかしパウロはテモテのことを昼も夜も祈りの中で絶えず思い起こしては、神に感謝しているというのです。なかなかできないことです。どれほど愛弟子であり、同労者のテモテを愛していたことか、感銘を深くさせられます。

 しかし続く4節を見ると、感謝していると言いながら、「あなたの涙を忘れることができない」とも言っています。この涙の意味を知ることはむつかしいですが、一つ二つ想像はできます。この手紙は新約聖書に残されている数多いパウロの手紙の中でも最後のものと言ってよいでしょう。いわばこれをもって絶筆しているのです。いや、書くことができなかったのです。なぜなら、この直後パウロはローマの皇帝ネロの命令で斬首刑に処せられているからです。テモテが涙したのは、パウロが官憲の手で身柄を拘束されたときのことでしょうか。だからパウロの方でもあの時、テモテが流した涙を忘れることができなかったのかも知れません。それも考えられないことはないのですが、パウロほどの人がそういう感傷的な涙にいつまでも未練を残していたとは考えられません。むしろパウロが忘れられなかった涙は、牧会者テモテとしての涙ではなかったでしょうか。テモテは純真な信仰の人でした。純真な信仰の人であればあるほど、教会を牧会するには苦労が伴うものです。そのことは第一の手紙を読むと良く分かります。多分何度も胃に穴が開くような出来事に遭遇し、その都度パウロ先生に相談を持ちかけたのでしょう。どうもその様子から神経性胃炎にでもなっていたのでしょう。パウロが「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。」と助言しています(1テモテ5:23)。食欲増進のために食前酒くらいのつもりで、と進めたものと思われます。真面目が洋服を着て歩いている、そんなイメージのするテモテ牧師だったのです。わたしなど何とか38年の間、まあまあ何とか牧師でいられたのはテモテのような純真な信仰の人ではなかったからかも知れません。

 パウロはその涙を忘れられないからこそ、叶うものなら、愛弟子テモテの顔を今生の別れ際に、もう一度見たいと願っているのです。これも感傷に浸ってのことではありません。極めて現実的なことのためにです。4章9節に書かれているように、秋も深まり、牢獄の中の温度が日増しに低くなっているので、「トロアスのカルポのところに置いてきた外套を持ってきてください。」と頼んでいます。きっと前触れなしに逮捕監禁されたので、身の回りのものを準備する余裕もなかったのでしょう。また、カルポの家に寄宿していた時に、読みかけたままになっている羊皮紙の書物も持ってきてほしいと重ねてお願いしています。

 また、4章10節以後を見ると、こんなことを頼めるのも、今となってはあなたしかいない。というのは、これまでどんな時にも一緒にいた人たちの内、厳しい迫害に耐えかねたある人は信仰を捨て、パウロを見捨てて逃げ出してしまったし、他の人は、それぞれの使命を帯びて各地方に散っていて、パウロのそばにはもう一人の愛弟子であるルカの外には誰もいないとも言っています。パウロにしてもテモテはそれほど頼もしい戦力だったということです。殉教間近いことを予感する彼としては、自分の後を託したいテモテの健康だけが気にかかっていたということでしょう。そもそもこれほど純真な伝道者であり、牧会者であるテモテの流した涙の源泉をさかのぼっていくと、先ず彼の祖母ロイスに宿り、母エウニケを経てテモテへと受け継がれた主イエス・キリストに対する愛であることを思い、パウロは神に感謝しているのです。

 ここでもう一つ感銘を深くするのは、「信仰が宿った」という意義深い言い回しです。信仰は神からの賜物であって、人間の功徳によるものではないという意味です。パウロはほかの手紙の中で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」と書き送っています(气Rリント12:3)。確かに信仰はわたしたち人間の側の修練や功徳を積み重ねて実現させるものではありません。このロイスからエウニケ、そしてテモテへと受け継がれたキリスト信仰は、ただクリスチャンホームだから、信仰者の家庭だから、自動的にイエスを救い主と信じる人になったと言うのではありません。テモテを一人のキリスト者、また伝道者として神に仕える者となし得たのは、ひとり、彼の素質や誠実な品性によるものでもありません。むしろ彼を取り巻く家族や教会の兄弟姉妹、またパウロというよき師に巡り会えたこと、そしてこの人たちの祈りと信仰の交わりの賜物というほかありません。

 今朝は子どもたちを祝福する主の日として礼拝を献げています。子どもたちにプレゼントしました。この子達がやがて神と人に愛され、また神と人を愛する人、神に喜ばれる人として霊的にも成長してくれるようにと願いを込めて、一人ひとりの子どもたちの頭に手をおいて祝福を祈りました。キリストの教会が幼子たちを祝福するということは、わたしたちがひとりのロイス、ひとりのエウニケ、ひとりのパウロとして、この幼子たちがやがて純真な信仰の人テモテとされて、その心にイエス・キリストに対する信仰が芽生えるようにと祈り、み言葉を通して救いの道を伝えることです。教えることです。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 イエス・キリストは、幼子らをわたしのそばに来させなさい。妨げてはならない。だれでもこの幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない、と言われました。

 わたしたちの教会に、またそれぞれの家庭にこの子どもたちを与えてくださっていますことをあなたに感謝します。どうか、わたしたちが先ず整えられてこの子どもたちのよき信仰の模範となることができますように。そしてこの子どもたちが遠くない日にイエスを神の子キリストと信じる信仰の告白へと導くことができますように。

同時にわたしたちもこの幼子たちの純真さに学び、神の国への入り口を見出すことができますように。

私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをおささげいたします。アーメン。


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