主日礼拝メッセ−ジ要約】                         2006年1月8日
 
「喜びに溢れた」
マタイによる福音書 2章1−12節
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 東方から来た占星術の学者たちは幼子イエスの下に自分たちを導いてくれた星を見て喜びに溢れました。彼らの大いなる喜びは長い求道の果てに得たものということができます。

 ある夜、はるか西の空に、異様に輝く星を発見しました。当然彼らはその星の正体が何であるかを知ろうと、あらゆる文献を読み漁ったことでしょう。その中に何かの理由でその地方に寄留していたユダヤ人から譲り受けた聖書の中の、「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。 しかし、間近にではない。一つの星がヤコブから進み出る。一つの笏がイスラエルから立ち上がり、モアブのこめかみを打ち砕き シェトのすべての子らの頭の頂を砕く。」という預言の言葉(民数記24:17)を発見したのではないでしょうか。「一つの笏」とは王だけが手にすることのできるものですから、ヤコブ、すなわちイスラエルから一人の王が出る。と読み解いたとき、彼らはいったいその王とはどのような方か、一目会ってみたいと考えたに違いありません。常々星の研究をしている学者でなければ分からないことなのです。

 長い旅の末にエルサレムに到着した彼らはヘロデの王に謁見を許されましたが、目的はただ一つ、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝む」ためでした。祭司長や律法学者たちから、その方はベツレヘムにおられると教えられて、直ちに旅立ち、ついに幼子イエス、救い主にお目にかかることができました。博士たちの喜びはどれほどのものだったでしょうか。

 それは今日長い求道生活の果てに得た救いと言えるものです。むしろ、これまでの歩みを振り返ってみて、これが求道というものであったのかと喜びを噛み締める人に似ています。

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主日礼拝メッセ−ジ】                          2006年1月8日

 
「喜びに溢れた」
マタイによる福音書 2章1−12節
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今日ローマ・カトリック教会をはじめ、ほとんどのプロテスタント諸教派では12月25日にクリスマスを祝い、教会暦に忠実な教会では1月6日を「顕現日」と呼んで、キリスト降誕の喜びを新たにしています。その意味は、イエス・キリストが降誕されて1,2年経ったころ、東の国から占星術の学者たちが、イエス・キリストを訪ねてきたことを記念し、彼らが体験した喜びに与ろうとするためです。

 私たち仙川キリスト教会において2006年3月31日までは2005年度の歩みの中にあります。今年度の教会主題は、「主を喜び、互いを喜ぶ」ですが、今朝与えられた聖書テキストによると、東方から来た占星術の学者たちは幼子イエスの御許に自分たちを導いてくれた星を見て喜びに溢れました。

 彼らの大いなる喜びは、長い求道の果てに得たものということができるでしょう。大昔から支配者の興味と関心は星によって吉凶を占い、また暦を作ることでした。種まきと刈り入れの時期、それに伴う宗教行事の種類と回数を定めて、支配者としての地位を長く保つためです。そうした仕事に携わるのがここにいう「占星術の学者」です。しかしマタイによる福音書に登場するこの学者たちは、ただその国の支配者のためばかりではなく、天におられる真の王にお目にかかるために選ばれた人たちでした。

 ある夜、はるか西の空に、異様に輝く星を発見しました。当然彼らはその星の正体が何であるかを知ろうと、あらゆる文献を読み漁ったことでしょう。その中に、何かの理由でその地方に寄留していたユダヤ人から譲り受けた聖書もあったことは容易に想像できます。たとえば民数記24:17に、「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。 しかし、間近にではない。一つの星がヤコブから進み出る。一つの笏がイスラエルから立ち上がり、モアブのこめかみを打ち砕き シェトのすべての子らの頭の頂を砕く。」という預言の言葉に出会ったのではないでしょうか。「一つの笏」とは王だけが手にすることのできるものですから、ヤコブ、すなわちイスラエルから一人の王が出る。と読み解いたとき、彼らはいったいその王とはどのような方か、一目会ってみたいと考えたに違いありません。常々星の研究をしている学者でなければ分からないことなのです。

 長い旅の末にエルサレムに到着した彼らはヘロデ王に謁見を許されましたが、目的はただ一つ、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝む」ためでした。祭司長や律法学者たちから、その方はベツレヘムにおられると教えられて、直ちに旅立ち、ついに幼子イエス、救い主にお目にかかることができました。博士たちの喜びはどれほどのものだったでしょうか。

 博士たちは最初から星を頼りにメシア、救い主を求めて旅に出ましたが、大抵はその人生の道のりで、星のようにまたたく聖書が、イエス・キリストへの道を照らしているのにそれとは気付かず、長い年月、求道生活を続けている人もいます。

 私事で恐縮ですが、わたしの母は82歳で天に召されました。母とキリスト教会との出会いはわたしが教会に導かれた16歳のときから始まります。母は52歳でした。初めのころは時々だった礼拝出席も日を追うごとに多くなりました。「家庭集会をしたいのだが」というと、喜んでその日は早くから掃除と片付け、お茶の用意などをしてくれていました。25歳の頃、牧師になるために神学校へ行くことにしたと言ったとき、泣いて止めようとした母ですが、牧師になってからは以前にも増して礼拝を大切にするようになり、土曜日になると決まって、説教準備でてんてこ舞いしているわたしに明日の聖書の箇所と讃美歌の番号、交読文の頁にプログラムの順番どおり、しおりに番号をつけて挿んでくれと頼みに来ます。「それは大変良い心がけだが、今はとても忙しいので斐子にしてもらってくれ」と言いますと、お前でないとだめだというのです。これが世に言う嫁姑の関係なのかもしれません。そんなに熱心な求道者ですが、バプテスマだけは頑として受けません。理由を聞くと、「水は苦手で泳げないから」というのです。理由にならないと思いましたが、「大丈夫、僕も泳げないけど、溺れないで受けることができたから」と説得を続けますと、今度は何かほかの理由で、のらりくらりと逃げまわられました。そんな手ごわい求道者でしたが、いよいよ天に召される日が目の前に迫ったことを感じたのか、病床で信仰告白をし、3ヵ月後に息を引き取りました。東方の博士たちは少なくとも2年以内に救い主に出会い、感謝と献身の決意を込めて礼拝を捧げましたが、わたしの母の場合は30年間巧みに逃げ回った末に、ようやく神さまに首根っこを捕まれるようにして救い主の招きに応じました。しかし、救われた後の母の顔は見違えるほど晴れやかで、喜びに満たされていました。

 博士たちが携えてきた黄金にはイエスを真の王と信じる心が込められていました。香りよき乳香には真の神への礼拝をささげますとの意味が込められています。死人を葬る没薬には、イエスこそわたしたちの罪のために贖いの供え物として(十字架に)死んでくださる救い主と信じる信仰の告白がこめられています。

 そこでわたしは思いました。母は言葉でイエスを救い主と信じる信仰を告白したことのほか、何をささげることができたのかと。母は若い頃からお洒落な人で、琴と三味線の師匠をしていた関係もあって、極度の貧しさの中でも十三弦の琴と太棹 細棹の三味線のほか、出稽古やステージに立つための衣装だけは決して手放さず持っていました。その母がどうしたことか晩年息を引き取ったときには文字通り、一文無しの着たきり雀になっていました。そんなことをある会合の席で話しましたら、一人の年配の牧師が近寄ってきて、「でも、お母さんは大切な息子のあなたを神に献げたではないですか。それこそ黄金、乳香、没薬にも等しい真のささげものだと僕は思いますよ。」と言ってくれました。母の救いはわたしの心にも大いなる喜びとなりました。  祈ります。

天の父なる神さま。あなたのお名前を心より讃美します。

 星空を仰ぎながら、そこにあなたの摂理を見出したあの学者たちの信仰に学べましたことを感謝します。それは長い求道の旅、救い主を求める旅、聖書に書かれていることを確認するための旅でしたが、ついに救い主に出会うことができました。救い主に出会わせた星を仰ぎ見た彼らの喜びは黄金、乳香、没薬をささげて王なるキリスト・イエス、神なるキリスト、救い主なるキリストを心から讃美しました。

 今日、世の多くの人々も真の王、神、救い主なるキリストを求めて心の内に長い求道の旅路にあります。どうか、この求道者たちの旅路に祝福を与え、救い主の御許へとお導き下さい。あなたこそ真の王、神、救い主と告白する御子の霊を送ってください。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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