【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2006年1月29日   
「栄え滅びる偶像」
 
ダニエル書11:36−39
コリントの信徒への手紙一10:13−14
 
メッセージ 篠原健治協力牧師
        

1.後の歴史を預言するダニエル

ダニエル書11章は、ダニエル以後のペルシャについて預言したものです。

1−4節:ペルシャとギリシャ、5−9節:プレイマイオスとセレウコス、10−13節:軍備拡大をするプレイマイオスとセレウコス、14−19節:イスラエルの介入、20−35節:アンティオコス・エピファネスの台頭、以上のことはすでに歴史上の事実として起こったことです。

2.現代に生きるダニエルの預言

 それでは、2006年に生きる私たちにとってダニエルの預言は無意味なものなのでしょうか。そうではありません。ダニエルは、歴史の先の先まで見通し、36−39節で「反キリスト」の出現を預言しています。

3.反キリストの姿

 反キリストは、次のような姿で現れます。

「あの王はほしいままにふるまい、いよいよ驕り高ぶって、どのような神よりも自分を高い者と考える。すべての神にまさる神に向かって恐るべきことを口にし、 怒りの時が終わるまで栄え続ける」(36節)「代わりに、先祖の知らなかった神、すなわち砦の神をあがめ、金銀、宝石、宝物でこれを飾り立てる」

(37節)「強固な砦の数々を異国の神に頼って攻め、気に入った者には栄誉を与えて多くの者を支配させ、封土を与える」(38節)

4.偶像礼拝

 反キリストは、自分が神であるかのように振る舞います。人間が神になるということです。しかし、それは錯覚にしか過ぎません。なぜなら、必ず滅びていくからです。滅びていくものを神とすることを「偶像礼拝」と言います。

5.身近な偶像礼拝

「偶像礼拝」とは仏像や仏壇を拝むことだけではありません。お金や地位や名誉など人間が作ったものをあたかも神のように扱い拝むことです。私たちは、「生きている神」と「偶像」とを区別する時、生き方が大きく変わるのです。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                           2006年1月29日   

「栄え滅びる偶像」
 
ダニエル書11:36−39
コリントの信徒への手紙一10:13−14
13:あなたがたを襲った試練で、
 人間として耐えられないようなものはなかったはずです。
 神は真実な方です。
 あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、
 試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
14:わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。
 
メッセージ 篠原健治協力牧師

<序>

今日は「栄え滅びる偶像」と題してダニエル書11章を読んでいきたいと思います。

 「栄え滅びる偶像」という題からライブドア事件を連想する方もいるかもしれませんが、

このタイトルは昨年の12月に聖書から示された題であり、別にライブドア事件を予言したものではありません。(想定の範囲外?)

 むしろ、聖書は人間が遙か昔から「生きている神」ではなく「目に見える偶像」に支配されやすい罪の性質があることを鋭く指摘しています。

 今日のダニエル書11章も同じです。

 しかも、ダニエルは、反キリストは一見華やかな姿−偶像−をして登場すると預言しています。

 そこで、今日は、

(1)ダニエル書11章を簡単に概観し、

(2)偶像礼拝という罪について、私の救いの証を交えながら

(3)生ける神にこそ救いがあることを

 御言葉を通して聞いていきます。

 

1.11章の概略

 ダニエル書11章は、ダニエルがいたペルシャ及び世界の歴史についての預言です。

 一読しただけでは分かりにくいものでが、この11章をあえて大きく2つに分けることにします。

 前半は、11:1−35のダニエル以後の歴史についての言及

後半は、11:36−45の2006年に生きる私たちへの預言です。

(1)前半の概略

1−4節:ペルシャとギリシャ戦いで、ペルシャがアレキサンダー大王に負けること−。

5−9節:アレキサンダー大王の元にいた2人の将軍の預言です。

     エジプトを支配するプレイマイオスとシリアを支配するセレウコスのこと−。

10−13節:軍備拡大をするプレイマイオスとセレウコスの預言

14−19節:イスラエルの介入の預言

20−35節:アンティオコス・エピファネスの台頭の預言

 以上のことはすでに歴史上の事実として起こったことです。

 

(2)後半について

 ある注解書では、後半の36−45節も、ローマ帝国崩壊後の歴史であるというものもありました。

 すると、ダニエル書11章は、すでに起きた歴史の叙述にしか過ぎないものになります。果たしてそうなのか。

 預言が成就したしないのレベルで、聖書の御言葉を捉えていいのかということです。

 聖書は、人類の歴史の始まりから終わりについて書かれたものです。

 ですから、私は、ダニエル書11章を単なる歴史の羅列と捉えてはならないと考えます。

 

(3)後半の概略

 そこで、前半の11:1−35と後半の11:36−45の間にあえて線を引きます。

 そして、私は、特に11:36−39は、2006年に生きる私たちに対する神様からの預言であると捉え、大切なメッセージを神様は私たちに示していると考えました。

 そこで、今日は、このダニエル書11:36−39に集中していきたいと思います。

36:あの王はほしいままにふるまい、いよいよ驕り高ぶって、
どのような神よりも自分を高い者と考える。
すべての神にまさる神に向かって恐るべきことを口にし、
怒りの時が終わるまで栄え続ける。定められたことは実現されねばならないからである。
37:先祖の神々を無視し、女たちの慕う神をも、そして他のどのような
神をも尊ばず、自分を何者にもまさって偉大であると思う。
38:代わりに、先祖の知らなかった神、すなわち砦の神をあがめ、
金銀、宝石、宝物でこれを飾り立てる。
39:強固な砦の数々を異国の神に頼って攻め、
気に入った者には栄誉を与えて多くの者を支配させ、封土を与える。
 36節から39節の「あの王」とは、神を神としない「反キリスト」について書かれたものです。

「驕り高ぶり、どのような神よりも自分を高い者と考える」

 「すべての神にまさる神に向かって恐るべきことを口にする」

 しかも、この反キリストは「怒りの時が終わるまで栄え続ける。定められたことは実現されねばならないからである」と言うのです。

 反キリストがはびこる時代が来ることは、神のご計画だというのです。

さらに、反キリストは、

37:先祖の神々を無視し、女たちの慕う神をも、そして他のどのような神をも尊ばず、
 自分を何者にもまさって偉大であると思う。
38:代わりに、先祖の知らなかった神、すなわち砦の神をあがめ、金銀、宝石、宝物でこれを飾り立てる。

というのです。

 神様は、遙か昔から未来まで、すべての歴史を支配されている方なのです。

 ですから、今日の聖書箇所が単なる歴史の叙述ではなく、現代に生きる私たちへの預言であると改めて思わずにはいられません。2.偶像を拝ませる反キリスト

 

(1)偶像礼拝

38:代わりに、先祖の知らなかった神、すなわち砦の神をあがめ、

金銀、宝石、宝物でこれを飾り立てる。

 反キリストは、一見すると華やかに見え、人々の心を捉えます。

 反キリストは、あたかも自分が神であるかのように振る舞います。

 それは、人間が神になるということです。

 一時的にはうまくいくでしょう。しかし、長続きはしません。錯覚にしか過ぎません。

 なぜなら、必ず滅びていくからです。

 滅びていくものを神とすることを「偶像礼拝」と言います。

 反キリストは、きらびやかな偶像という姿で表れるのです。

 

(2)偶像礼拝

「偶像礼拝」とは仏像や仏壇を拝むことだけではありません。

 お金や地位や名誉など人間が作ったものをあたかも神のように扱い拝むことです。

 偶像が心を占め、生きて働かれる神を否定してしまう−。

 これは何もダニエル書11章に登場する「あの王(反キリスト)」だけではありません。

 私たちの心の中にある罪の性質といってもいいでしょう。

 

(3)証

 このように皆さんの前で語っている私も、偶像が心の中を占めていた人間でした。

私の父は医者で、物心ついた頃から、「自分は医者になる」と決心し、中学・高校と受験勉強に邁進していきました。

いわゆる「偏差値」を上げ、医学部にはいることが、人生の幸せにつながると信じ切っていました。浪人中は1日12時間以上の勉強をしました。

 そして、ある私立の歯学部に入学−。それは、まさに天に昇るような気持ちでした。

「これで医者になれる。6年後オレは医者だ!」

学生時代は勉強に、恋愛に充実した日々を送っていました。将来を約束した女性との出会いもありました。私は全く怖いもの知らずでした。

しかし、大学3年の冬、突然父が脳梗塞で倒れ、一命は取り留めたものの、

仕事をすることが全くできなくなり、高い学費を払い続けることができなくなりました。

むしろ今度は私が家族を支えなければなりませんでした。

私は涙を飲んで、歯学部を退学せざるを得ませんでした。

 

就職しようとしましたが、当時は円高不況で、仕事らしい仕事もなく、面接に行っても、

「お医者さんもお医者さんでなくなると‘ただの人’ですね」と言われ、

改めて世の中の厳しさを身にしみて感じました。

とるものもとりあえず、知り合いの塾の講師の職を得ました。

これだけでは家族を支えることはできず、深夜キャバレーでボーイとして朝方まで働きました。

 ある日、トイレの汚物を片づけるように言われ、行ってみると、いわゆる「ゲロ」が散乱しており、手袋をはめ、顔をそむけるように掃除をしました。

その時は片づけることで精一杯でしたが、家に帰り、自分のシャツにその「シミ」と「臭い」が付いていることに気づいたとき悔し涙が溢れてきました。

「オレは本来は医者になるはずの人間だ!そのオレがなぜこんな目にあうんだ!」

そのような姿を見、将来を約束した女性から「夢を失った」と言われ、別れを告げられました。まさに天国から地獄に突き落とされたのでした。

 

悶々とした日々が約2年間続きました。そして、私は完全に疲れ切っていました。

そのような時、知り合いの導きで教会に通うようになりました。

しかし、教会に通い始め、そんな簡単に問題が解決することはありません。

 教会を最初に訪問するきっかけの多くが何かしらの「試練」「苦しみ」があって教会の門をくぐる方は多いと思います。

 意識するしないは別として自分が「被害者」であるという思いで教会に来るわけです。

 

その後、父の状態も少しずつ回復し、家族も落ち着きを取り戻しました。

一方、私の方はコンピューターのセールスの職を得、生活は安定はしてはきましたが、とても復学できる状況ではありません。その間に友人達はどんどん医者になっていく−。

 新聞に歯科医師国家試験の合格者の名前が載った日のことを未だに覚えています。

 私は、駆け出しのセールスマンで、なかなか売れない、しがないセールスマン。

 友達は、白衣を着て、さっそうと歩く医者になっている光景。

 歯ぐきから血が出るほど唇を噛み、その後どっと悔し涙が溢れました。

いずれにせよもはや、現状では医者になることは諦めざるを得ませんでした。

「医者になった友人達にだけは負けたくない!」

その“気持ち(一念 )”のみで必死に働き続け、その甲斐あってトップセールスになることはできました。

 しかし、トップになってみても、逆に責任と忙しさだけが増し、心が満たされるどころか、かえって飢え乾くばかりです。

「本当は自分は医者になる人間だ。そのオレがなぜこのような“試練”に遭うのか!」

私は必死に神様に叫び続けました。その「叫び」に神様ははじめて答えて下さいました。

 

それが先ほどお読みいただいた「コリントの信徒へ手紙一10:13−14」です。

この御言葉が「心」をとらました。

13:あなたがたを襲った試練で、
 人間として耐えられないようなものはなかったはずです。
 神は真実な方です。
 あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、
 試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
14:わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。

 

・「あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったばずです」  世の中の人々は大なり、小なり試練に遭うものだ。

  自分だけが試練にあったような顔をするなよ。

・「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練には遭わせない。」

 神様は真実で、愛の方である。その方が、耐えれないような試練をお与えにはならない。

・「(そして)試練と同時にそれに耐えれるように「逃れる道」も備えて下さる。」

必ず「試練」から「脱出できる道」が用意されている。という神様の約束がある。

 

 私は大変慰められました。

そして、真実な神様が与えて下さる「逃れる道」とは……

次の御言葉が、完全に「心」をとらえました。

 (同じく)1コリント10:14

 「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、『偶像礼拝』を避けなさい。」

 

求道中、正直言ってこの『偶像礼拝』の意味がよく理解できませんでした。

仏像を拝むことを禁ずるその程度のことしか分かっていませんでした。

聖書の言う『偶像礼拝』とは−

「神を見ないで、人間が作ったもの、

 例えば、「金」「名誉」「地位」といったもののみを追い求めていくことでもあります。

 

 ふと自分が「なぜ医者になろうとしたのか」を振り返ってみました。

「病に苦しんでいる患者さんのために−」とかいった考えは全くなく、

 むしろ、「お金」や「社会的地位」を得るために医者になろうとしていた。

 弱い患者さん、悲しみの中にいる家族のことよりも、自分の地位や名誉のために医者になろうとしている。

 いや、弱い患者さん悲しみの中にいる家族を踏み台にして自分が偉くなろうとしている。

これが『偶像礼拝』であり、そして、これこそが『罪』であるということにその時初めて気づかされたのでした。

 

 私は、祈りの中で次のことを示されました。

「おまえに偶像を追い求めることを止めさせるために、おまえに試練を与えたのだ。それでも、おまえは偶像を求め続けるのか」

 「そして、神の前で、罪人として『裁き』を受け、永遠の『滅び』に至る道を歩むのか」

「オレが何をしたんだ!」という「被害者」叫びは「主よ、この罪深き私をお赦し下さい」 という「加害者」の“悔い改め”の叫びに変わっていたのでした。

 

3.偶像から生ける神を信じる

(1)偶像礼拝という果てしない罪

 偶像が心の中を占めていると、私たちは神様を受け入れることはできません。

心は闇の中にいる。その結果、私達は色々と迷い、苦しみます。

「迷い」や「苦しみ」から逃れようとして、肉体的「眼」だけが求めるもの−偶像−を血眼になって追いかけている。

 これが、まさに神様から離れた状態−「罪」−の現実なのです。

一時的には満足できるでしょう。

しかし、「心」は、「魂」は、すぐに欠乏感や乾きを覚えます。

そして、さらにもっと刺激の強いものを求めていきます。

現実には、そういった「お金」や「地位」や「名誉」といったものは突然に、しかも呆気なく消えてしまいます。

このように「罪の世界」は泥沼のように果てしなく、虚しいものでもあります。

 そして、最終的には「心」も「魂」も永遠の『滅び』に至るのです。

 

(2)被害者から加害者へ、そして赦された者として

 最初に、教会に来る多くの人は、試練や苦しみを持って「被害者」意識を持って来ます。

すると、試練、苦しみから逃れられること、解放されることが「救い」になっていることがあるのです。

 しかし、自分が神様との関係において、偶像が心を占めており、神に背を向けていること、神に反逆の罪を犯している「加害者」であることに気づかないと「救い」が曖昧になってしまい、その後の信仰生活がおかしくなってしまうのです。

 主イエスの十字架の救いは、「加害者」である私の罪の性質を主イエスが代わりに担って下さったと信じることから始まるのです。

主イエスの十字架で、「加害者」であった私が「罪許されし者」へと変えられること−。 それが、本当の「救い」なのです。

 

(3)偶像がはびこる日本

 今、日本は、ダニエルが預言したとおり、神を神としないで、お金などあらゆる偶像が幅を利かせている時代にあるのです。

 確かにお金は必要な物です。しかし、お金は、究極的には罪人を救ってはくれません。

 地位も名誉も一時的に満足を与えてくれても、最終的には罪人を救ってはくれません。

 

(4)命の源である生ける神

 私たちを最後に究極的に救ってくれるのは、生ける神様だけなのです。

 なぜでしょうか。

 それは、私たちの「命」は、偶像からではなく、生ける神から来たものだからです。

 偶像が無の状態から「命」を新に創り出すことは絶対にできません。

このかけがいのないこの「命」は、今も生きて働いている神からものなのです。

 最終的には元々命がない偶像に頼る人生がいいのか。

それとも、永遠に生きる「命」ある生ける神を信じて歩むのか。

 私たち一人一人の「命」は、今、大きな分岐点に立っているのです。

13:あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。

 神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、

 試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

14:わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。

   祈ります。

<祈り>

 ご在天の父なる神様、あなたは、御一人子主イエスをこの世に送って下さり、光を失った者に、希望を失ったものに、光を、そして希望を与えて下さいました。

 私達の眼は、肉体的に開かれている時、偶像に、そして罪に支配されているとき、心の眼は完全に閉ざされたままで、あなたを感じることができず、暗闇の中を右に左にと迷います。

 そのような時、私達はあなたへの「加害者」であるにも関わらず、「被害者」であるかのごとく振る舞います。

 私達は、あなたへの反逆者「加害者」でありました。

 そして、主イエスの十字架によって「加害者」から「罪許された」者へと大ききかえて下さりました。

 私達は、二度と罪によって、偶像にに頼る人生ではなく、生ける神と歩むことができるようにお守り下さい。

 この祈りを主イエスキリストの御名で祈ります。            アーメン


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