【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2006年2月5日   
「信仰の父アブラハム」
 
使徒言行録 7章1−8節
 
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 ステファノはアブラハムの生涯から、彼とその子孫に定住の地を与えて相続させること、また彼の子孫が外国で奴隷とされるが、再びこの地で礼拝できるように救うと言われた神の約束とそれらが成就した歴史を語ります。創世記によると「アブラム〔高貴な父〕は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)、「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。」(同17:5)とあります。信仰の人アブラハムは、今や多くの国民の父として新生したことを意味します。これによってわたしたち異邦人も、信仰の父アブラハムの霊的子孫と呼ばれる道が開かれたのです。

 もう一つこの名前の持つ深い意味について考えさせられることがあります。それはアブラムの「ラ」と「ム」との間に、「ハ」という気息音が加えられたことです。また彼の妻についても以前は「サライ」と言う名前でしたが、この日から、最後の「イ」に代えて、やはり「ハ」という気息音が加えられて「サラ(ハ)」と呼ばれるようになりました。神は彼らの内に神の息、すなわち神の霊を注ぎ入れてくださいました。アブラハムが割礼を受ける10年以上も前のことです。この神の息を注がれたアブラハムの経験こそ、やがて「多くの国民」を主の御許に呼び集めて、イエス・キリストの十字架と復活による罪の贖いと救い、更には聖霊を降して新しいイスラエル、主イエス・キリストの教会とするという約束のしるしです。

 信仰の父アブラハムの生涯を振り返りながら、ステファノは人々に向って、罪の現実に目覚めさせたいと願い、祈り、キリストの愛をもって証をしています。わたしたちも座して、罪に満ちたこの世が滅びるのを眺めていて良いのでしょうか。神の愛、キリストの救いを証しましょう。 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                           2006年2月5日   

「信仰の父アブラハム」
 
使徒言行録 7章1−8節
 
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今、ステファノは最高法院に引き出され、裁判長席に座る大祭司から、「訴えのとおりか」と弁明を求められました。そこで、彼はユダヤ教の指導者たちを前にして聖書の解き明かしから始めました。律法をないがしろにしてはいないことを証明するためです。

 彼が周囲を見回して発した第一声は、何と、「兄弟であり、父である皆さん。聞いてください。」でした。彼は被告席に置かれています。決して暖かい雰囲気ではありません。周りの目には敵意さえ感じられる非常に緊張した中で、しかし彼には自分を取り巻く人々に対する憎しみのかけらも見られないのです。同年輩もしくは彼よりも若い人々に対しては思い上がることはなく兄弟と呼び、また高い地位にある人、人生の先輩と思しき人々に対しては尊敬の念を込めて父と呼ぶのです。天の父なる神をひたすら仰ぎ見ながら、しかも神の愛で人々を見ることを忘れないステファノの姿勢には大いに学ばされます。

 わたしたちの教会でも礼拝の中で証を聴く機会が与えられ、お互いに慰められています。礼拝メッセージと違って、証というものは突然させられることが多いのです。だからわたしたちキリスト者は、いつでもどこでも証できるように、心の備えをしていなければなりません。礼拝での証はある意味でそうしたときのための訓練の場ということができます。主イエスは証について教える中で、「またわたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなた方の中で語ってくださる、父の霊である。」(マタイによる福音書10:18−20)と言われました。

 ところでいつ、どこで、そして誰に証を頼まれても語れるように心の備えをしておきなさいと言われても、その準備をどのようにすればよいのでしょうか。ステファノの弁明にそのヒントが隠されています。常日頃どれだけ聖書に親しんでいるか、祈りを大切にしているかということが、いざというときに証ができるか、できないかの分かれ目になるのです。これを今、篠原健治先生が一生懸命皆さんに教えようとしてくださっている日ごろの「デボーション」というものです。

 さて、ステファノはいよいよ弁明を始めますが、それは主なる神を証するものです。彼は創世記かられ列王記上まで、実に8箇所の旧約聖書を引用して、神が建てさせた神殿とはイエス・キリストの十字架と復活の模型であったのだと語るのでした。

 ステファノは、先ずアブラハムの生涯を手短に語ります。細かい点では多少訂正が必要です。たとえば神がアブラハムを選び出したのはメソポタミアではなく、ハランにおいてですが、それは本筋から大きく逸れているわけではないので、先を読むことにしましょう。 ステファノはこの聖書の箇所から、神はアブラハムに二つの約束をなさったと言っています。一つはこの世の寄留者アブラハムとその子孫に、定住の地を与えて相続させる。もう一つはやがてアブラハムの子孫が400年の間外国に移され、そこで奴隷として苦しみを受けるが、神は必ずその地から連れ戻し、再びこの地で神を礼拝できるように救い出してくださるという約束でした。ここではアブラハムがこの約束を聞いてどのように応答したか触れていませんが、創世記15:6を見ると、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあり、更に17:5では、「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。」と記されています。「高貴な父」という意味のアブラムが、これ以後「多くの国民の父」という意味のアブラハムという名で呼ばれるようになりました。信仰の人アブラハムは、今や多くの国民の父として新生しました。これによってわたしたち異邦人も、信仰の父アブラハムの霊的子孫と呼ばれる道が開かれたのです。

 もう一つこの名前の持つ深い意味について考えさせられることがあります。それはアブラムの「ラ」と「ム」との間に、「ハ」という気息音が加えられたことです。また彼の妻についても以前は「サライ」と言う名前でしたが、この日から、最後の「イ」に代えて、やはり「ハ」という気息音が加えられて「サラ(ハ)」と呼ばれるようになりました。神は彼らの内に神の息、すなわち神の霊を注ぎ入れてくださいました。アブラハムが割礼を受ける10年以上も前のことです。この神の息を注がれたアブラハムの経験こそ、やがて「多くの国民」を主の御許に呼び集めて、イエス・キリストの十字架と復活による罪の贖いと救いを、更には聖霊を降して新しいイスラエル、主イエス・キリストの教会としてくださるという約束のしるしであったのです。

ステファノがこのようにわざわざアブラハムの物語を通して神の御業を証したのは、神の愛と救いの恵みは、ただユダヤ人にとどまらず、多くの国民にも与えられるものであることを知らせるためだったのです。

 

 最後に神に選ばれたとはいえ、信仰の人アブラハムはその生前、各地を転々と流浪する寄留者の生涯でした。同じようにアブラハムを信仰の父と尊敬し、永遠の御国を求めてこの地上に住むキリスト者、またキリストの教会もまたこの世にあってはまさしく流浪の民、霊的寄留者です。一方で今日、この地上に安住の地と自由を求めている多くの人々は真の神を知らず、この世の栄誉、栄華、快楽を求め、また拝金主義という偶像崇拝者という罪の奴隷となっています。その先はどうなるのでしょうか。罪の支払う報酬は唯一つ、永遠の死と滅びです。

信仰の父アブラハムの生涯を振り返りながら、ステファノは人々に向って、罪の現実に目覚めさせたいと願い、祈り、キリストの愛をもって証をしています。わたしたちも座してこの世が滅びるのを眺めていて良いのでしょうか。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたのお名前を心より讃美します。

 わたしたちは今朝、ステファノの証を通してアブラハムの信仰の生涯を学ぶことができました。疑惑と憎悪の渦巻く中で、しかも神の愛で語りかけるステファノの姿の中に、信仰の父アブラハムと同じ道を歩もうとする一途なものを感じます。

 わたしたちを取り巻くこの世の現実は彼らの時代と何も変わってはいません。憎しみと争いが絶えず、お金儲けのためであれば人の命を鴻毛(こうもう)より軽く取り扱う人で満ちています。

 今朝、アブラハムの生涯を通して、またこれを証するステファノを通して、あなたはこの教会に何を求めておられるのでしょうか。先に救われたわたしたちがこの罪の世の中で、毒にも薬にもならないで、ただ社会の隅っこで何となく生きながらえることを求めてはおられないことでしょう。どうか、わたしたちをこの世の証人として、救いを求めて呻いている魂の声に耳を澄まして出て行く者とならせてください。

 わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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