【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2006年2月19日   
「モーセの誕生」
 
使徒言行録 7章17-22節
 
メッセージ 高橋淑郎牧師
 

 人間がどれほど神に逆らい、人知を尽くして傲慢な計画を立て、またそれを実行しようとしても、それは必ず潰(つい)えます。わたしたちもしばしばどうしてこう物事がうまく運ばないのか。どうして辛い日が続くのかと心のうちが暗くなることがあります。そうした時、私たちは少し立ち止まって自分の立てた計画そのものをもう一度見直す必要があります。それは神の御心から出たものではなく、ただ自己満足のためではなかったかと思い巡らせて、聖書と祈りに帰らなければなりません。もしその計画が御心から離れたものではないという確信が与えられたなら、自分の願う時ではなく、神の時を待てという導きと信じて神の時を待ちましょう。

 もう一つ、聖書はあらゆるところでキリストを証するものです。わたしたちはここでもキリストに出会うことができるのです。モーセはユダヤ民族にとって最も危機的な状況の中で生まれ、育てられました。イエス・キリストもまた、いやイエス・キリストこそ最も厳しい状況の中でマリアとヨセフの手に委ねられたのです。聖書を表面だけ読むと、神はモーセ一人のために、イエス・キリスト一人のために、どうして多くの罪のない赤ちゃんの命を殺(あや)めることに目をつぶられたのかと躓く人がいるかも知れません。それは違います。神がそうさせたのではなく、人間の罪がああした悲劇をもたらしたのです。むしろ、神はこれらの罪びとを受け入れ、救うために全世界のために十字架の上にご自身の命を与え、贖いの業を成し遂げてくださいました。「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前に与るようになるためである。」(使徒言行録26:18)と招きの手を伸べておられるのです。

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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2006年2月19日   

「モーセの誕生」
 
使徒言行録 7章17-22節
 
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 モーセのことに触れる前に皆さんと一緒に心に留めておきたいことがあります。それは創世記の最後の頁から出エジプト記まで、400年の歳月が流れていることです。その間の記録は一切ありません。それは穏やかな400年を意味していると言えます。しかし聖書全体から見る時、それは少しずつ神から離れて生きつつある歴史であったとも言えます。初めに神が天と地をお造りになった世界は真に清く、麗(うるわ)しく、人類の始祖アダムとエバはエデンの園、全き自由の楽園に置かれていました。ところが創世記に続いて出エジプト記以後の各書を見ると、人間はエデンの楽園から締め出されて自由を奪われ、今では (心身の束縛だけでなく、罪の) 奴隷にまで身を落としています。光から闇へ、自由から束縛へ、命溢れる祝福の世界から死が支配する世界へというように、聖なる神の御許から遠く離れて、罪の頭(かしら)なるサタンの手に渡されてしまっているのです。しかし、17節にいう、「神がアブラハムになさった約束の実現する時」がきました。これは創世記15:12−15の成就を意味します。せっかくですから私たちもその箇所を読みましょう。

 神に最も近い存在として、神に似せて造られたはずの人間が、今では神からはるかに遠い姿、これが創世記と出エジプト記の間から聞こえてくる神からのメッセージです。耳を澄まして聴き入りましょう。

 出エジプト記をまだ読んだことのない人のために、改めてそのあらすじをお話しますと、ヨセフのことを知らない別の王がエジプトの支配者(ファラオ)となりました。ラメセス世(紀元前1290−24年)のことであろうと言われています。当時のエジプトは広大な領土を周辺の列強から守るためにはまだまだ課題の多い軍事的弱小の国でした。それで外交政策としては王自身小アジアのヘテ王国(ヒッタイトとも呼ばれています)から妻を迎えて善隣友好平和条約を結び、国内においてはヤコブの子孫であるユダヤ人を奴隷として鎖につなぎ、敵国と通じ合わないようにするという政策で国の強化を図りました。その上ユダヤ民族絶滅という恐ろしい計画まで立ててそれを実行しました。ファラオの残忍さは生まれた子をその両親の手で殺させること、つまり両親に殺人幇助(ほうじょ)の罪までも着せようとしたことです(ヨセフス著「ユダヤ古代史氈| 254頁」)。ちょうどその頃アムラムとヨケベデが結婚してミリアム、アロンに続いてもう一人の男の児を与えられました(出エジプト記6:20、民数記26:59)。男の児が生まれたらナイル河に沈めてしまえという命令が出されたのは3人目の男の児が生まれた頃でした。わが子を手にかけるに忍びない親はとうとう3ヶ月の間人目を忍んで育てたものの、これ以上は無理と、泣く泣くパピルスのかごにアスファルトと樹脂を塗り、その中に寝かせてそっとナイル河に浮かべました。恐らくファラオの残忍な政策を快く思っていなかった王女は、たまたまその赤ちゃんを見つけ、わが子として育てることにしました。「モーセ」の名付け親はこの王女でした。「水の中から引き出した」という意味だと言われています。ユダヤ人絶滅を図っていたファラオにとっては真に皮肉なことです。モーセはエジプトの王室の一人、しかも王子として、エジプトで最高の教育を受けることができました。こうしてかつてヨセフと共におられた神はモーセをも守り、来るべきユダヤ人解放のリーダーとしての準備をさせてくださいました。

 今朝、わたしたちはこの物語から多くのことを学ぶことができます。人間がどれほど神に逆らい、人知を尽くして傲慢な計画を立て、またそれを実行しようとしても、それは必ず潰(つい)える時があるのです。わたしたちもしばしばどうしてこう物事がうまく運ばないのか。どうして辛い日が続くのかと心の内が暗くなることがあります。そうした時、私たちは少し立ち止まって自分の立てた計画そのものをもう一度見直す必要があるかもしれません。それは神の御心から出たものではなく、ただ自分を喜ばせるためだけのものではなかったかと思い巡らせて、聖書と祈りに帰らなければなりません。もしその計画が御心から離れたものではないという確信が与えられたなら、自分の願う時に叶わないだけで、神の時を待てという聖霊の導きと信じて神の時を待ちましょう。

 もう一つは、聖書はあらゆるところでキリストを証するものです。わたしたちはここでもキリストに出会うことができるのです。モーセがユダヤ民族にとって最も危機的な状況の中で生まれ、育てられました。イエス・キリストもまた、いやイエス・キリストこそ最も厳しい状況の中でマリアとヨセフの手に委ねられたのです。聖書を表面だけ読むと、神はモーセひとりのために、イエス・キリスト一人のために、どうして多くの罪のない赤ちゃんの命を殺(あや)めることに目をつぶられたのかと躓く人がいるかも知れません。それは違います。神がそうさせたのではなく、人間の罪がああした悲劇をもたらしたのです。むしろ、神はこれら全世界の罪びとを受け入れ、悔い改めに導いて救うために、十字架の上にご自身の命を与え、贖いの業を成し遂げてくださいました。「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前に与るようになるためである。」(使徒言行録26:18)と招きの手を伸べておられるのです。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたのお名前を心より讃美します。

 創世記から出エジプト記へと聖書を読み進めて静かにこの世界、また自分自身の歩みを振り返るとき、確かに人間の歴史は罪の歴史であったことを実感します。神なき世界は光よりも闇のほうを愛する人間を造り出しているからです。このことは毎日配達されてくる新聞や流れてくるテレビやラジオが伝える暗いニュースがそれを証明しています。しかし聖書は、このような人間のどうしようもない闇の心を赤裸々にすると共にこの朝、礼拝最初の招詞で語りかけて下さったイザヤ書41:14のみ言葉の光がわたしたちの心に、この暗闇の世界に静かに差し込んできます。

 「あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神 主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける」

 このようにしてあなたはまず偉大な神の預言者モーセを選んで、私たちに十誡を与え、あなたの御許に立ち帰る手がかりを与えてくださいました。更に、あなたの独り子イエス・キリストを与えて約束どおりに十字架の上で贖い、救い、暗闇の支配者サタンの束縛からわたしたちを助け出し、永遠の御国への道となってくださいました。

 どうか今、わたしたちの心をあなたに立ち帰ることを赦し、あなたの救いを受け入れる者としてください。

 わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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