【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2006年3月5日   

 

モーセの召命
使徒言行録 7章23−36節
高橋淑郎牧師

 

 この箇所で分かち合いたい三つのことがあります。第一に、わたしたち人間の考える人生設計と、神がわたしたちに抱いておられるご計画には大きな開きがあるということです。

 神が今朝わたしたちに問いかけておられることは、わたしはわたし自身の人生において、神のためにどれだけの年数をどんなことのために用いたかということです。

 第二に、私たちは心の底から神を自分の主人として崇め、畏れつつ日々生活しているでしょうか。

 モーセは燃え尽きない芝に心惹かれて近づこうとしたとき、神は「履物(はきもの)を脱げ。あなたの立っているところは聖なる土地である。」と言われます。このみ声を聞いたモーセはふるえ上がり、足から靴を脱ぎ、ひれ伏しました。わたしたちも、屁理屈という靴、自我を貫く頑固一徹という鎧、傲慢という兜をつけたままで聖い神に近づくことは赦されないのです。

 第三に、わたしたちは神の御心を第一としているだろうか、自分の思いを優先させているのではないか、と問われています。

 モーセはかつて若かった頃、自分の力で同胞を救えると自負し、またそれが神のみ心にかなっているものと考えて正義感を振りかざしました。しかし、世間は彼を受け入れるどころか、突き放したのです。あなたも人のためにしたのに、誤解されて不愉快な思いをしたことがあったでしょう。どんなに正しいことをしているつもりでも、主のご命令を待たず、人間の思いだけを優先しても決してよい結果を見ることはできません。イエス・キリストは言われます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっておれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)と。

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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2006年3月5日   

 

モーセの召命
使徒言行録 7章23−36節
高橋淑郎牧師

 

 ステファノは旧約聖書に従ってモーセの生涯を40年ずつ3期に分けて紹介しています。第1期は、2週間前の主日礼拝で読んだように、エジプトの王室にあって何不自由ない生活をしていた時期です(17−22節)。第2期は一つの事件を契機にエジプトからミディアンの地に逃亡したものの、羊飼いとしてそれなりに平穏な生活を送っていた時期です(23−29節)。そして今朝特に神からのメッセージとして心に留めておきたいことは、今読んで頂きました聖書箇所である80歳から120歳までの第3期です。

 わたしは今朝、この箇所で皆さんと共に分かち合いたい3つのことがあります。一つはわたしたち人間の考える人生設計と、神がわたしたちに抱いておられるご計画には、随分大きな開きがあるということです。

 わたしたちはモーセのように120年も生きながらえるかどうか分かりません。100歳まで生きられるかどうかも分かりません。もちろん中にはそんなに長生きしたくないという人もいるでしょう。問題はあと何年生きておれるかということではないのです。いつ死ぬかということでもないのです。神があなたに問いかけておられることは、あなたの人生において自分のためにではなく、神のためにどれだけの年数をどんなことのために用いるかということです。

 モーセは燃えているようで燃え尽きない芝草を前にして神の声を聴きました。彼はその御声をきっかけに、自分に与えられた120年の生涯の3分の一を神のために燃焼し尽くしました。モーセは働き盛りの40年間、ミディアンにおける平凡な日々の中で、エジプトにいる同胞がどれだけ苦しんでいるかということをいつの間にか忘れて、自分の幸福の追求に24時間を送る毎日でした。かつて人間的正義感に燃えて、同胞の苦しみを自分の力で何とかしようと考えた時期もありました(23−29節)。しかし、その目論見は失敗しました。神のために働いたつもりが結局は自己満足のためだったからに他なりません。わたしたちもわたしたちの人生を神のために費やしているつもりであっても、果たして本当にそうなのかという声が聞こえてきます。わたしたちは、わたしたちの人生のどれだけの時間を自分のために使ってきたでしょうか。また、どれだけの時間を神の御用のために用いてきたでしょうか。今朝、あなたはこの神からの問いかけ、チャレンジに答えなければなりません。

 第二に、あなたは聖書の神に対して聖なる畏れをもって崇めているでしょうか。

 燃える芝草を前にして、モーセは興味本位で近づこうとしました。その時神は言われます。「わたしはあなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。・・・履物を脱げ。あなたの立っているところは聖なる土地である。」と。このみ声を聞いたモーセはふるえ上がって、足から靴を脱ぎ、恐れおののきつつひれ伏しました。

 禅宗のお寺に行かれたことがあるでしょうか。その門前には、「葷酒山門(くんしゅさんもん)に入るを許さず」という立て札があるのをご覧になったことがあるでしょうか。酒気を帯びて、あるいは生臭いにおいをさせたまま一歩でもこの門をくぐってはならないという意味です。

 ましてやわたしたちの信じる神、わたしたちがささげる神は天と地とその中に住む一切の創造主です。全知全能の神です。天にも地にもその上の天にも、その下の地にも他に神はないのです。他の神々と呼ばれるものは全て神ではないのです。神と呼んではならない偽り者なのです。十誡の第一に、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と戒められています。この神を前にして、自分の楽しみや自分の思いを優先させるなどもってのほかだとステファノは言うのです。神ご自身が十誡の中で、またこのモーセに語りかけておられるのです。酒臭いにおいだけではない。この世のさまざまな欲望や肉の思いという生臭いにおいを引きずったままで、表面だけ恭しく礼拝を捧げようとしても、神に喜ばれないのです。屁理屈という靴、自我を貫く頑固一徹という鎧、傲慢という兜をつけたままで聖い神に近づくことは赦されないのです。あなたの礼拝生活、教会生活、また日常の信仰生活はどうなっているかと問われているのです。今朝、あなたはこの神からの問いかけ、チャレンジに答えなければなりません。

 第三に、あなたは神の御心を第一としているでしょうか。自分の思いを優先させていないでしょうか。

 モーセはかつて若かった頃、自分の力で同胞を救えると自負し、またそれが神のみ心にかなっているものと考えて正義感を振りかざしました。しかし、世間は彼を受け入れるどころか、「だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。」と突き放したのです。この失敗はモーセを長い間萎縮させ、自分の殻の中に閉じ込めてしまいました。

 今朝のみ言葉はわたしたちに大切なことを教えています。人は誰でも世の中のためになる仕事をしたいとか、人に喜ばれる人間になりたいと考えるものです。モーセは正義のために立ち上がったものの、失敗しました。しかし、天の父はモーセを必要としておられました。若い頃の失敗は晩年のモーセに良い教訓となりました。特に燃える芝の前で足から靴を脱がされたとき、ただ正義感に頼るばかりのモーセは死に、自分のためにではなく、自分のために寛容をもって愛を注いでくださる神のために残る生涯を献げようという、謙遜な神の僕モーセに変えられていました。あの足から靴を脱がされた経験は、欠けだらけの者をも必要としてくださる神からの愛の招きでした。

 同じようにあなたも天の父なる神に期待されているのです。誰かのためにというわたしたちの思いが相手に届かず、かえって誤解されてしまうことがあります。そこですっかり自信を失って、自分の殻の中に閉じこもってしまいます。結局は自分しか見えていなかったのです。折角あの人のためになると思ってしたのに、ちっとも分かってくれなかった。そういう思いだけがいつまでも心の中を駆け巡って、そこから前に出ていくことができなかったのです。モーセがこのことに気付くまで40年のときが流れました。わたしたちも今朝、主に導かれ、ここに来て足から靴を脱いで天の父のみ声を聴くまでずいぶん時間がかかりました。

 しかし、今朝、あなたは気付いたはずです。モーセを必要とされた神はあなたにも期待しておられるということを。あなたも今、み言葉に従って足から靴を脱がされる経験をした今、古い自己中心のあなたに死んで、神が与える仕事に専念することの中でこそ本当の生きがいを見出せるということを。

 イエス・キリストは言われます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっておれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)と。

 引き続きステファノのメッセージを読むと、モーセもまたこのキリストに出会って、真のぶどうの樹であるキリストにつながることの大切さに目覚めていることが分かります。

今朝、あなたはこの神からの問いかけ、チャレンジに答えなければなりません。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたのお名前を心より讃美します。

 わたしたちはあなたから与えられたこの命を自分のためにだけ用いて、あなたを忘れてしまうことの多かったことをお赦しください。

 わたしたちはいつの間にか思い上がってあなたこそまことの神さま、わたしの人生を支配しておられる主であることを忘れて、傲慢に振舞っていましたことをお赦しください。

 また、わたしたちは人間関係においても隣人のためだと言いながら自分の考えを押し付けること、何よりも主なるあなたを第一とすることを忘れて、自分本位に人とかかわっていた自己中心をお赦しください。

 こんなわたしたちですが、今朝あなたは、「足から靴を脱げ。」と命じ、また、「わたしにつながっていなさい。」と招きよせてくださっていることを知りました。十字架のイエス・キリストがこのわたしの全てを受け入れてくださいますから感謝します。

 モーセがあなたの御言に押し出されてあなたの僕として新しい出発をしたように、今、わたしたちもあなたこそ全能の神、唯一の主と信じて、新しく出発できる者としてください。

 わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。 


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