【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2006年3月12日   

 

御顔をそむける神
使徒言行録 7章37-43節
高橋淑郎牧師

 

 「主の祈り」という祈りの中に、「我らの日用の糧を 今日も与え給え」という祈りがあります。しかしあなたは空腹に負けて食前の祈りもしないまま食べ物を口に運んでしまうことはないでしょうか。この食べ物を与えてくださった神への感謝を忘れるようでは、その人の日常生活が神を中心としたものか、この世と妥協したものか、うかがい知ることができます。

 たかが食前の感謝です。されど食前の感謝なのです。神への畏れをなくした人間は知恵や知識を悪用して、神々をも造るのです。もう何も怖いものはありません。自分たちを導いてくれる神を自分たちの思うように造ることができるのです。このように心おごり高ぶった人間の罪のゆえに、神はその御顔を背けておられます。

 神はわたしたちに言われます。「あなたにも、空腹の奴隷、貪欲(どんよく)の奴隷、好色の奴隷、時間の奴隷、見栄っ張りという奴隷、誰かの上に立ちたいという高慢の奴隷、ひとことでいうと、自己中心の奴隷、そういう奴隷根性がありはしないか。」と。

 そうです。私たちの内にはいつもそのような奴隷根性があります。神以外のものを神とする偶像礼拝への誘惑の声が耳元に聞こえてきます。そういう弱さのある事実と正直に向き合いながら、よく考えてください。この弱いわたしだから、救い主が必要なのだということを。イエス・キリストを十字架にかけたのは、他ならないこのわたしの罪のためであったということを。

 

福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝メッセ−ジ】         2006年3月12日   

 

御顔をそむける神
使徒言行録 7章37-43節
高橋淑郎牧師

 

 「神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。」とは申命記18:15からの引用です。人々は「モーセが伝えた慣習を変えるだろうと言った」と、ステファノを訴え出ましたが、ステファノは、「モーセが語ったこの預言者こそ、あなたがたが十字架につけたイエスである。モーセはこの方を見据えてこのように語ったのである。モーセが伝えたことを変えているのはあなたがたの方だ」と言おうとしているのです。

 また、モーセは「荒れ野の集会」で命の言葉を取り次いでくれたとステファノは言います。彼が被告人として立っている審きの庭は神殿の一角にありました。主の弟子たちでさえ、神殿の建築の見事な出来栄えに、感嘆の声を上げたということです(マルコ13:1)。それはおおよそ紀元前1千年ごろ、ソロモンが建て、その後幾多の戦争で焼け落ちましたが、ネヘミヤの時代に再建されたものです。神がエルサレムにこのような神殿を建てさせたのは、イスラエル12部族がそれぞれ割り当てられた土地に住むにあたって、先住民が崇めている神々を彼らも拝むことのないためでした。イスラエルの信じる神は唯一であり、ゆえに信仰も一つでなければならないという理由から、少なくとも年に三回、エルサレムの神殿に詣でるようにヤハウェなる神が定められたのです。ユダヤ三大祭とは、春の過越祭、初夏の五旬節、晩秋の仮庵祭です。

 おかげでユダヤ人は偶像礼拝に陥ることはなくなりましたが、その代わり、今度は神殿のみという新たな偶像崇拝の過ちを犯していることに、彼らは気付いていません。ユダヤ人はいつの間にか神殿中心主義に陥っていました。それはまた誤った権威主義、差別思想の弊害をもたらすことにもなりました。ユダヤ人にあらずば人にあらず、異邦人は決して救われない。彼らは地獄の釜の薪(たきぎ)に過ぎないのだという高慢がすっかり根付いてしまっていました。それは同じユダヤ人の血を引く人々の間にも微妙な関係を作り上げていました。先祖をたどればユダヤ人もサマリア人も同じイスラエル民族の血統ですが、ユダヤ人はサマリア人と交際しません。なぜなら、サマリア人の子孫は異民族との雑婚による汚れた民族だとして蔑んでいるのです。またユダヤ人であっても、エルサレムに住む者は特別神に祝福された人間で、ガリラヤその他の地方に住む人々は、無学な者が多く、一段も二段も劣る人たちだとして、やはり蔑んでいます。

 ステファノが取り次ぐ神のメッセージには、こういう誤った神殿崇拝を正す目的があります。それが38節全体の意味です。ステファノは言います。「あなたがたがそれほどモーセを特別の人と見るのであれば、神殿に固執することをやめなさい。モーセはこんなきらびやかな神殿を建てはしなかった。彼は神の会衆を荒れ野に導き、もっと素朴で純粋な礼拝をささげていたのだ」と。

 「荒れ野」には見るところ何もありません。不慣れな者が一度そこに足を踏み入れたら二度と生きては抜け出せない、それほど恐ろしいところだそうです。モーセでさえ、「あの広くて恐ろしい荒れ野」と言っているほどです(申命記1:19)。しかし、荒れ野には巷にないものがあります。いや、もしかしたらそれは荒れ野にしか見出せないものであったと言うべきでしょう。それは何でしょうか。神と「神のみ言葉」です。神のみ言葉をしっかりと聴く耳は荒れ野でしか得られないです。イスラエル民族の信仰の真髄は、モーセに率いられたあの40年の荒れ野における訓練の賜物といえるのです。

 モーセは言いました。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」と(申命記8:2−3)。

 荒れ野には当然、神殿などありませんでした。その代わり、そこには「荒れ野の集会」という本物の共同体、新約聖書の光に照らしていうなら、本物のキリスト教会の姿があったのです。

 愛する兄弟姉妹、あなたは荒れ野の経験がありますか。いつも何不自由のない生活が当たり前だと思ってはいませんか。見えるものが全てだという、この世に頼る心があなたの信仰を弱いものにしていませんか。全ては上から与えられなければ、人は本当に生きられないのだという神への畏れと感謝こそあなたに必要なのです。

 わたしたちは「主の祈り」を度々口に唱えます。その中に、「我らの日用の糧を 今日も与え給え」という祈りがあります。しかしあなたは、空腹に負けて食前の祈りもしないまま食べ物を口に運ぶということはなかったでしょうか。もちろんそうすることの難しい状況のときもあるでしょう。しかし、ここは神の宮です。誰に遠慮もいらないのです。それなのに「我らの日用の糧を 今日も与え給え」と祈りながら、この食べ物を与えてくださった神への感謝を忘れるようでは、あなたの日常生活が主を中心としたものか、この世に妥協しているものか、問われます。

 たかが食前の感謝です。されど食前の感謝なのです。目に見えるものに頼る心は目に見えないお方に対する思いを良い加減なものにしてしまいます。その最たる悲しいお手本がアロンに偶像を造らせて飲めや歌えのドンちゃん騒ぎをした、あのイスラエルの民の姿なのです。自分たちのリーダーであるモーセがどこに行ったのかわからない。だから目に見える神さまを造ってくれとアロンにせがみました。アロンは「みんなの意見だから」という多数の声に負けて、ただ一人の神のみ声に聴くこと忘れ、それをたしなめることもできず、言われるままに偶像を造ってしまいました。使徒パウロの言葉を借りて言うなら、「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げようとする」人々とはこういうことなのです。

 神への畏れをなくした人間は知恵や知識を悪用して、神々をも造るのです。もう何も怖いものはありません。自分たちを導いてくれる神を自分たちの思うように造ることができるのです。

 このように心おごり高ぶった人間の罪のゆえに、神はその御顔を背けておられます。彼らは「エジプトを懐かしく思い」、モーセを退け、神を否定してこのようなことをしたとステファノは言います。もっと日本人的に言うなら奴隷根性が偶像を造らせたというのです。ステファノを通して神は言われます。「そんなにエジプトが恋しいのなら、真の神がうっとうしいのなら、エジプトよりももっと残酷なバビロンの奴隷にしてやろう。」と。実際、神は後の時代に彼らをバビロンの捕囚として渡されました。

 神はわたしたちに言われます。「あなたにも、こういう奴隷根性のようなものがありはしないか。空腹の奴隷、貪欲(どんよく)の奴隷、好色の奴隷、時間の奴隷、見栄っ張りの奴隷、誰かの上に立ちたいという高慢の奴隷、一言でいうと自己中心の奴隷、そういう奴隷根性がありはしないか。」と。そうです。私たちの内にはいつもそのような奴隷根性があります。神以外のものを神とする偶像礼拝への誘惑の声が耳元に聞こえてきます。そういう弱さのある事実と正直に向き合いながら、よく考えてください。この弱いわたしだから救い主が、わたしには必要なのだということを。イエス・キリストを十字架にかけたのは、他ならないこのわたしの罪のためであったということを。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたのお名前を心より讃美します。

 モーセは言いました。「神は、わたしのような預言者をあなたがたのために立てる」と。その預言者こそあなたがお立てになった独り子イエス・キリストであることを信じます。モーセが荒れ野の旅路であなたのみ言葉を取り次ぐことによって、会衆を神に結びつけることに熱心でしたが、主イエスは人としてこの地上を歩まれたとき、多くの民衆、また弟子たちを荒れ野に伴って貴いみ言葉を下さいました。

 巷には豊かさと生活の便利さに溢れていますが、そこは雑音と人の声が神のみ言葉をかき消す力ともなっています。また人は見える物に心奪われて、自分のために神々を造っては人生を誤っています。

 わたしたちはときに人生の苦境に立たされることがありますが、この試練という荒れ野こそ、わたしたちが高慢にならないためにあなたが導き出されたところ、あなたと向き合うにふさわしいところと信じることができますように。そして「僕は聴きます。主よ、お語りください。」と座して祈り、み言葉に聴く者としてください。主なる神さま、どうか私たちをあなたのみ言葉を聴き漏らすことのない荒れ野へと追いやってください。静まるべき時と所を与えてください。

 わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む