【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2006年4月9日   
 「オリーブ山へ」
マタイによる福音書 26章26節−30節
高橋淑郎牧師

 

 フランスの作曲家で、オリヴィエ・メシャンという人が、22歳のときに作った、「忘れられたささげもの」という曲があります。メシャンはこの曲を世に出すにあたって、次のようなメッセージを添えました。

「イエス・キリストが十字架に上げられたことを覚えているだけなら、それは単なる知識である。問題はイエスがどうして十字架に死ななければならなかったのかという重大なことをわたしたちは忘れてしまっている。だから、キリストの十字架こそ『忘れられたささげもの』だ」と。この曲を聴く全ての人々に、その大事な忘れ物を思い出させてくれるのです。

 教会では礼拝の中で「主の晩餐」という式典を催すことがあります。それは、わたしたちの罪のために十字架に死んでよみがえられた主イエス・キリストを忘れず、感謝を言い表すためです。

 「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」と聖書は言います(29節)。

 わたしたちは礼拝をささげ、主の晩餐に与った後、会堂から散らされて行きます。いったいどこへ行くべきでしょうか。再び生活の場に戻って行くのでしょうか。確かにそうです。そこ以外にわたしたちの居るべき場はないからです。しかし、礼拝に与り、「これはわたしの体、これはわたしの血」と語られた主のメッセージに触れた今は、礼拝に導かれる以前のわたしではありません。たとえ見える世界がどのような有様であっても、また残酷な手段で迫ってこようとも、主が歩まれたオリーブ山への道、十字架の道を心に留めて、それに倣いつつわたしたちの霊の眼(まなこ)は、主イエスの背中をしっかりと見つめているのです。試練に耐えながら、主に従う心でこの世の事柄に仕え、この世の人々に仕える自由が与えられているのです。

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【主日礼拝メッセ−ジ】                        2006年4月9日   

 「オリーブ山へ」
マタイによる福音書 26章26節−30節
高橋淑郎牧師

 

 以前にもご紹介したことがあるかと思いますが、フランスの作曲家で、オリヴィエ・メシャンという人が、22歳の時に作った、「忘れられたささげもの」という曲があります。メシャンはこの曲を世に出すにあたって、次のようなメッセージを添えました。

 「イエス・キリストが十字架に上げられたことを覚えているだけなら、それは単なる知識である。問題はイエスがどうして十字架に死ななければならなかったのかという重大なことをわたしたちは忘れてしまっている。だから、キリストの十字架こそ『忘れられたささげもの』だ」

 この曲を聴く全ての人々に、その大事な忘れ物を思い出させてくれるのです。

 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』」

 イエスが弟子たちと共にされた食事は特別なものでした。それは、除酵祭と過越祭の食事です(17節)。これはイスラエル人にとって「命の解放」を記念する、とても意義深い国家的行事であり、めでたいお祭りなのです。除酵祭ですから、当然パンだねの入らない薄いせんべいのようなものですが、イエスはそれを弟子たちに裂き与えました。

 「また杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」

 これは「除酵祭と過越の祭り」の食事に加えられた新しいメニューです。過越祭で食べるものは小羊の肉と苦菜とパン種の入ってないパンとそれに水だけです。ぶどう汁はぶどう汁でも、イエスが流される血を記念して飲め、と言われます。こんなことはユダヤ人にとって初めての経験です。律法によると、神にささげる犠牲の動物は神聖なものですから、その血はすっかり地面に流しきってからでないと、肉を食べてはならないのです。主イエスによるこの新しいメニューに基づく食事は、モーセの定めた過越の食事ではなく、主イエスが主宰する「主の晩餐」なのです。これを「聖餐式」と呼ぶ教会もありますが、わたしたちバプテストが、「主の晩餐式」という呼び方にこだわるのは、十字架上で御自分のからだを引き裂き、血を流し、わたしたちの罪を贖ってくださったことを記念する食事、そして外ならぬ主イエス・キリストが主宰なさった晩餐ですから、「主の晩餐式」と呼ぶのです。

 

 第二にこの食事について、宗教改革者の一人、J・カルヴァンは、「説教なくして主の晩餐はない」と言いました。順序を逆にして読むと、「主の晩餐なくして説教はない」と言えるのではないでしょうか。カルヴァンの言葉に従うなら、礼拝において教会は、信徒のために宣教と共に、主の晩餐の恵みの席を提供しなければなりません。「ミサ」にはそういう意味があるのです。「食べる礼拝」と「聴く礼拝」がセットであるべきだとカルヴァンは言うのです。あのメシャンの言う、「忘れられたささげ物」と呼ばれないための礼拝をささげ、また受けるのです。わたしたちの教会も毎週主の晩餐に与ることを考えてはどうでしょうか。

 

 第三に、この食事がどれほど尊いものであるかということを学ぶもう一つのことは29節です。主は言われます。「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」と。これも順序を入れ替えて読むなら、「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日は必ず来る。その日を楽しみにしようではないか」と、わたしたちの心をプラス思考へと変えてくださいます。

主が主の弟子たちと共に新たに飲むその日とはいつでしょうか。

 @それは間もなく実現しました。復活の主がエマオでパンを裂かれたとき、弟子たちの目は開かれ、イエスと共にあることを確信しました(ルカ24:30−31)。イエスと共にあることは父のみ国にあるのです。

 Aキリスト教会誕生の日、主の弟子たちは聖霊に導かれて共にパンを裂きました。主イエスの名によって集められた主の教会こそ、父なる神のみ国であることを確信した瞬間です(使徒言行録2:42,46)。その日を初めとして、キリストの教会では主の晩餐に与ることを、この上ない光栄としているのです。

 Bこの喜びは地上で終わりません。主イエスが再びおいでになる世の終わりの日、地上の教会は完全に贖われて父なる神の御許に呼び集められ、盛大な宴会が催されるのです。このことは主ご自身、さまざまな機会に譬をもって約束してくださっています。

 

 「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」と、マタイは伝えます。

 わたしたちは礼拝をささげ、主の晩餐に与った後、この会堂から散らされて行きます。いったいどこへ行くべきでしょうか。再び生活の場に戻って行くのでしょうか。確かにそうです。そこ以外にわたしたちの居るべき場はないからです。しかし、礼拝に与り、「これはわたしの体、これはわたしの血」と語られた主のメッセージに触れた今は、礼拝に導かれる以前のわたしではありません。たとえ見える世界がどのような有様でも、また残酷な手段で迫ってこようとも、主が歩まれたオリーブ山への道、十字架の道を心に留めて、それに倣いつつわたしたちの霊の眼(まなこ)は、主イエスの背中をしっかりと見つめているのです。試練に耐えながら、主に従う心でこの世の事柄に仕え、この世の人々に仕える自由が与えられているのです。  祈りましょう。

 

 天の父なる神さま。あなたのお名前を心より讃美します。

「このパンを食べなさい。これはわたしの体である。・・・この杯から飲みなさい。これは罪の赦しを得させるわたしの血、契約の血である」

 このようにして、あなたは弟子たちを「主の晩餐」に招き、続いてオリーブ山に伴って行かれました。今受けた主の晩餐の意味をさらに体験的に悟らせるためでした。主はオリーブの山中で血の滴りのような汗を流しつつ、父なる神のみ心を確認なさったのです。主イエスが受けた杯は、十字架の苦しみを意味しますが、主イエスはそれを受け、そして飲み干してくださいました。わたしたちの罪を赦し、清めて、神の御国に引き上げるために。

 主よ、あの主の晩餐の席で、主イエスと主の弟子たちが讃美歌を歌って後、十字架への道、オリーブ山への道を歩み出したように、わたしたちも、与えられた試練という十字架を負う道、そしてまた、愛する家族や隣人の救いをとりなす祈りの場、オリーブ山へと伴ってください。

 救い主イエス・キリストの御名にお願いします。アーメン。

 


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