【 主日礼拝メッセ−ジ要約】父母の日礼拝                         2006年5月14日   
 「なすべきこと
 使徒言行録9章1-9節
高橋淑郎牧師

 

 サウロにとってキリストは王、主、全能の神、終わりの日の審判者です。その方が十字架にかかって死ぬなどということは、絶対にあってはならないのです。なぜなら聖書には、「木にかけられた者は呪われた者」とあるからです(申命記21:23)。だから、キリスト教会を迫害することは、生きておられる真の神に対する忠誠の証であると固く信じていました。

 ダマスコ途上、突然天から光が注いだので、サウロは地面に倒れてしまいました。さらに、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声がします。神が厳かに御自分の御心をお示しになるときの呼びかけです。自分の行動が、まさかキリストを敵に回すことになるとは、また教会を迫害することはすなわち教会の頭であるキリストを迫害することになっているとは思ってもいませんでした。

 彼は神への畏れから「主よ」と告白しました。主イエスはこの告白を受けて、彼が心から悔い改め、謙ったと認めて、「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」と言われました。この呼びかけこそサウロはイエス・キリストとの出会いが許された瞬間であったと言えます。この後、彼は三日間、食べることも飲むこともしないで、ひたすら祈りの時間を持ちました。この三日間は彼にとって、内にある古い罪に死んで葬られ、新しいキリストの弟子として立ち上がらせていただく備えのときでした。自信満々に生きてきたサウロは死に、神の召しのままに従うパウロが新生しました。これまでは人を罪に閉じ込める古い律法の「シャリアハ(使徒)」として活動してきましたが、これからはキリストにある救いと永遠の命をもたらす福音の「シャリアハ(使徒=全権大使)」として用いられて行くのです。

 
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【 主日礼拝メッセ−ジ】 父母の日礼拝                         2006年5月14日   

 「なすべきこと
 使徒言行録9章1-9節
高橋淑郎牧師

 

 今朝はイエス・キリストが、サウロという一人のユダヤ教指導者に出会われたことで、彼の人生にどれほどの変化をもたらしたか、その出来事を通して神のメッセージに聴いてまいりましょう。

 

 最初にサウロという名前を初めて聞いたという方々のために、彼について簡単にご紹介させていただきます。

 彼は小アジアのキリキア県の中心都市であるタルソという町で生まれ育ちました。タルソは現在もタルススと呼ばれていますが、ローマ時代には商業の町として重要であっただけでなく、文化の中心地であり、またギリシャのアテネ、エジプトのアレキサンドリアに並ぶ三大学問都市として知られていました。サウロはこの町に生まれ、高度な教養を身につけ、宗教的にも生粋のユダヤ人家庭でユダヤ教徒としての下地を与えられました。成人して後はエルサレムに出て、ガマリエルという偉大な指導者の下で聖書の薫陶を受け、律法学者にその名を連ねるまでになりました。彼はキリスト教を邪教と決め付け、先にはエルサレム教会の役員であったステファノの殉教に加担し、その後も主イエス・キリストの弟子たちを殺そうと意気込んでいました。エルサレム、ユダヤ地方だけでは満足せず、シリアのダマスコにまで手を伸ばし、まさにキリスト教迫害に息弾ませていました。大祭司の任務についていたカイアファの許に行き、ダマスコの諸会堂宛に手紙を求めてキリスト者を見つけ次第縛り上げてエルサレムに連行する許可を受けました。当時、ユダヤ教会では、ユダヤ人議会から各地の「シナゴーグ」と呼ばれる会堂に派遣される人のことを「シャリアハ(使徒。ギリシャ語のアポストロス)」と言いました。シャリアハとは、「全権を委託された者」という意味です。キリスト教会にとって、はなはだ憂慮すべき事態です。非常に恐ろしいことになりました。

 サウロにとってキリストはまさに王であり、主であり、全能の神であり、終わりの日の審判者です。その方が十字架にかかって死ぬなどということは、絶対にあってはならないのです。なぜなら聖書には、「木にかけられた者は呪われた者」と記されているからというのがその理由です。(申命記21:23)。だから、キリスト教会を迫害することは、生きておられる真の神に対する忠誠の証であると固く信じていました。

 しかし、あと少しでダマスコという所にさしかかった時、突然天からまばゆいばかりの光が彼の上に注いだとき、サウロは地面に倒れてしまいました。彼にとって生まれて初めて経験した人生の挫折でしょう。さらに光に続いて、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」という声がします。聖書の中に、神が人に対して二度も繰り返して人の名を呼ばれた個所としては外に「アブラハム」(創世記22:11)、「モーセ」(出エジプト記3:4)、「サムエル」(サムエル記上3:10)があります。いずれも神が厳かに御自分の御心をお示しになるときの呼びかけでした。神は今、サウロに対しても、その名を二度も繰り返して呼びかけ、厳かに語りかけます。「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか。・・・わたしはあなたが迫害しているイエスである」と。真の神に忠実であると自負していた自分の行動が、まさかキリストを敵に回すことになるとは考えてもいませんでした。教会を迫害することはすなわち教会の頭であるキリストを迫害することになっているとは思ってもいませんでした。これはサウロにとって青天の霹靂です。彼は完全に打ちのめされました。

 それでも、彼は自分に呼びかける方に対して、「主よ、あなたはどなたですか。」と尋ねます。中東世界では、初対面の人、或いは年長者や尊敬すべき指導者に対しても「主よ」という呼びかけをもって対話に入る習慣があるので、必ずしも神への呼びかけとして限定する必要はないかもしれませんが、サウロの場合、これほど強烈な現象をもって語りかけてこられた方に対して、通常の敬意を込めた「主よ」という呼びかけをしたとは到底思えません。ここはむしろ、神への畏れから、「主よ」と告白したと読むのが自然です。主イエスはこの告白を受けて、彼が心から悔い改め、謙ったと認めて、「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」と言われました。この呼びかけこそサウロはイエス・キリストとの出会いが許された恵みのときであったと言えます。この後、彼は三日間、食べることも飲むこともしないで、ひたすら祈りの時間を持ちました。この三日間は彼にとって、内にある古い罪に死んで葬られ、新しいキリストの弟子として立ち上がる備えの時でした。ここに自信満々に生きてきたサウロは死に、神の召しのままに従うパウロが新生しました。しかし、これはサウロ一人の身に起こった出来事と読み過ごすことはできません。教会にとって恐るべき敵は死に、頼もしい味方が生まれた瞬間です。

 これはわたしたちは祈りの正される出来事であったということができます。わたしたちの前にも「敵」とも言うべき人が立ちはだかることがあります。そうしたとき、わたしたちはどんな祈りを神にささげているでしょうか。サウロに苦しめられていた教会も同じでなかったかと思うのですが、「あの人をわたしの視界から消し去ってください。できればいなくなってほしいのです。」と祈らなかったでしょうか。正直言って、早く死んでくれたらと願わなかったでしょうか。しかし、神はわたしたちの願いに優って、驚くべき御業を起こしてくださいました。これまでは人を罪に閉じ込める古い律法の「シャリアハ(使徒)」として活動してきましたが、これからはキリストにある救いと永遠の命をもたらす福音の「シャリアハ(使徒)」として用いられて行くのです。

 わたしたち仙川キリスト教会では、今朝、「父母(ちちはは)の日」を記念する礼拝をささげています。わたしたちの真の父は天の神おひとりです。しかし、その神がイエス・キリストを救い主として、また聖霊を送って下さったことによって、この地上にキリストの教会という神の家族が生まれました。教会を神の家族と呼ぶのですから、わたしたちはこの見える世界で信仰をもって人生の先を歩く人たちを父と呼び、また母と呼ぶことはキリストの喜ばれるところです。この人たちは皆、等しくサウロからパウロに変えられた一人ひとりです。福音の証人としてなすべき務めに励んでいる人々です。あなたたちもこの父とも、母とも呼ぶべき人たちを尊敬し、主の足跡に倣っている、この人たちに倣う者となりましょう。

 何よりも天の父なる神があなたの人生に何を期待し、どのように生きるべきか、あなたに与えられたなすべきことが何かを一日の初めに祈り、何をなし得たか、主の御旨にかなったものであったかを悔い改め、また感謝して眠りについてください。  祈ります。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇め、讃美します。

あなたは熱心に教会を迫害していたサウロをさえ生まれ変わらせてくださいます。個の大きな出来事を思うとき、あなたの全能の力と不思議さにただ驚くばかりです。

サウロを造り変えてくださった主よ、どうか今、あなたのみ前にあるこの会衆をもあなたの全能の御力をもって包み込んで上げて下さい。自己中心の生き方から、これまでの罪深い生活を悔い改めて、あなたに対して「主よ」と告白する者、自力に頼る不安定な人生でなく、あなたと共にある平安な人生へと導いてあげてください。

私たちの救い主イエス・キリストの御名にお願いします。アーメン。

 


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