【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                        2006年5月21日   
 「彼は祈っている」
 使徒言行録9章10-19a節
高橋淑郎牧師

 

 主なる神はアナニヤという主イエス・キリストの弟子に、「今、彼は祈っている」から、訪ねて行って、彼が救われたことと、これからは主イエスの教会のために働く者となるよう、彼の頭に手を置いて祈ってあげなさい」とお命じになりました。

 「彼」と呼ばれている人とはサウロのことです。サウロはついこの前まで、教会を荒らしまわっていました。アナニヤはあの悪名高いサウロの名を聞いた瞬間、身の毛がよだち、背筋も凍りついたことでしょう。主が最初に自分を名指しされた時、「主よ、ここにおります」と答えました。言葉どおりに訳しますと、「ご主人さま、僕はお従いします」という意味ですが、今「サウロのもとに行け」と命じられた時、すぐには「はい!」と従えません。人は良くも悪くも変わり得る者だけれども、あのサウロだけは別だ。彼に限ってそうやすやすと回心するとは到底思えない。これがアナニヤの正直な思いでした。

 しかし全能の神は、尻込みするアナニヤの背中を押して、「行け、あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」と行かせます。この御言葉はアナニヤの心から恐れを取り除きました。彼は立ち上がって、サウロを訪ねました。そこに見るサウロは、ひたすら祈っている敬虔な神の人の姿です。その時アナニヤがサウロに向かってかけた第一声は「兄弟サウル!」でした。イエス・キリストにある信仰の世界は何と素晴しい世界でしょうか。昨日まで敵味方であった二人が、今は「兄弟」と呼び合う関係へと導かれているのです

 
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【 主日礼拝メッセ−ジ】                       2006年5月21日   

 「彼は祈っている」
 使徒言行録9章10-19a節
高橋淑郎牧師

 

 先週、わたしたちはサウロというユダヤ教の指導者がキリストにとらえられた出来事を学びました。丁度その頃、主なる神はダマスコの町に住むアナニヤという無名の伝道者に現れて、サウロを訪ねるようにとお命じになりました。アナニヤという人はここ以外に見ることはできません。しかしずっと後のことですが、パウロと名を改めたサウロ自身が尊敬の念を込めて次のように紹介しています。「ダマスコにはアナニヤという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。」(使徒言行録22:12)と。神は実にこのような人を大切な御用のためにお用いになります。

 仙川キリスト教会もまた無名に等しい教会です。ここで礼拝をささげる皆さんも、キリスト者としては全国の人々の目には無名に近いかもしれません。しかし、無名であることは恥ずかしいことではありません。大事なのはわたしたちを通してイエス・キリストに出会い、救われる魂が一人でも多く与えられることです。そうした人々の中からこの国のために、世界伝道のために活躍する人が起こされるかもしれないのです。

 主は、このアナニヤに向かって、「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ」と言われました。主は、サウロの居場所を随分詳しく教えてくださいました。「直線通り」とは、町の中央を、東西に伸びた長さ1.8km、幅30mの目抜き通りです。両側には大理石でできたコリント式円柱の列柱で飾られていました。現在も昔の名を留めてアラビア語で「デルブ・エル・ムスタキーム(真っ直ぐの街)」と呼ばれています。

 主は更に、「アナニヤという人が入ってきて自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。今、彼は祈っている」と具体的な指示を与えます。実際サウロは丸三日というもの、目が見えず、飲食を絶って祈りに集中していました。どんな祈りだったのでしょうか。「元通り目が見えるようにして下さい」と祈ったのでしょうか。もちろん彼にとって、このような祈りは必要だったでしょうが、それ以上に、かつて教会を迫害して主のみ心を傷つけてしまった日々の悔い改めこそ最も重要な告白の祈りでした。だから食べることも飲むことも忘れて一心不乱に祈っていたのです。意識的な断食祈祷はしばしばその人を誇らせてしまいますが、食べることも飲むことも忘れるほど主のみ前に真剣に祈る人は、主のみ前にも人の前にも自分を小さくする人です。主はこのような祈りを捧げる人を喜んで下さいます。決して疎かになさいません。祈りの一つ一つに耳を傾け、御心に留めて下さいます。サウロは真剣な祈りのうちに一つの幻が与えられました。それは、主イエスの弟子が自分の上に手を置いてくれると、元通りに目が見えるようになるというものです。しかも、その人の名がアナニヤであるということまではっきりと示されたのです。

 一方重大な任務を与えられた、当のアナニヤはどうだったでしょうか。あの悪名高いサウロの名を聞いた瞬間、身の毛がよだち、背筋も凍りついたことでしょう。主が最初に自分を名指しされた時、「主よ、ここにおります」と答えました。言葉どおりに訳しますと、「ご主人さま、僕はお従いします」という意味です。しかし、今「サウロのもとに行け」と命じられたとき、すぐには「はい!」と従うことはできません。人は良くも悪くも変わり得る者だけれども、あのサウロだけは別だ。彼に限ってそうやすやすと回心するとは到底思えない。これがアナニヤの正直な思いです。しかし、全能の神であり、和解の主である聖霊は、尻込みするアナニヤの背中を押して、「行け、あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」と命じます。この御言葉はアナニヤの心から恐れを取り除きました。彼は立ち上がって、サウロを訪ねました。そこに見るサウロは、ひたすら祈っている敬虔な神の人の姿です。その時アナニヤがサウロに向かってかけた第一声は、「兄弟サウル」でした。イエス・キリストにある信仰の世界は何と素晴しい世界でしょうか。昨日まで敵味方であった二人が、今は「兄弟」と呼び合う関係へと導かれているのですから。

 アナニヤは彼を訪ね、その頭に手を置き(按手)ました。その瞬間サウロに示された幻の通り、サウロの目から鱗(うろこ)のようなものが落ち、見えるようになりました。この「うろこのようなもの」こそ、真の神を見えなくしていた妨げの岩でした。しかし今、肉の目が開かれました。それだけではありません。イエス・キリストにある信仰の交わり、清められた教会の麗しい現実を発見しました。霊の目が開かれたのです。そして聖霊による信仰告白へと導かれました。十字架に死んで甦ったイエスこそ、聖書が証している王なるメシア、待ち望んでいた救い主キリストであったのだという確信を得ましたので、彼はバプテスマを受けました。彼は救いに与ったと同時に「福音の使徒」として召されたのです。按手の恵みに与ったサウロは、確かに主がアナニヤに言われた通り、その後苦しみの数々を経験することになります。主は彼が歩んださまざまな苦難を通して、わたしたちに二つのことを教えてくださいます。

 一つは祈りの姿勢です。主は、アナニヤに「彼は祈っている」と言われました。しかし主はその後も彼を常に祈りへと導かれました(使徒16:16)。パウロ(サウロ)は主の導きに従い、無実の罪で鞭打たれ、投獄された時も血まみれになりながら、讃美と祈りを忘れませんでした(同16:25)。わたしたちの祈りの姿勢はどうでしょうか。仙川キリスト教会は日曜日においでになれなかった方を覚えて火曜礼拝に、また水曜日と木曜日の祈祷会にあなたが来られるのを待っています。

 今一つは魂への情熱、救霊にかける熱意です。主はパウロに言われました。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(同16:25)と。パウロは主のご命令に従って、「この身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、・・・力強く証してきたのです。」(同20:19−21)と言っています。

 わたしたちの親兄弟、親類縁者、友人、知人、また近隣の方々に対する愛はどの程度でしょうか。社会の出来事や新聞チラシ広告のことは話題にできても主イエスの福音に関する話はどうだったでしょうか。

主は言われます。「彼は祈っている。」と。 わたしたちも祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇め、讃美します。

 あなたはアナニヤを用いて、後に世界中の人々に福音を伝える働き人となったサウロを見出してくださいました。サウロを恐れるアナニヤを動かしたのは、「今、彼は祈っている」というあなたのみ言葉でした。人が憎しみと恐れから解放されるのはあなたのお言葉であり、「兄弟」と呼び合えるのは、教会の迫害者さえ「祈りの人」に変えてくださる御霊の力です。どうか、私たちにいつも祈りの必要を覚えさせてください。どうか、わたしたちに、人を恐れず、福音を語る愛と勇気を与えてください。

 私たちの救い主イエス・キリストの御名にお願いします。アーメン。

 


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