【 主日礼拝メッセ−ジ要約】ペンテコステ聖霊降臨記念礼拝                  2006年6月4日   
 「聖霊の慰め」
 使徒言行録9章26-31節
高橋淑郎牧師

 

 ここで興味深いのは、「教会は・・・平和を保ち」という部分です。ユダヤ人にとって、当面の敵はサウロに違いないのですが、サウロがこの地方にいなくなったからといって、教会に対する迫害が止むわけではありません。教会はその誕生の時から迫害の嵐にさらされましたし、教会内部でも土台を揺るがすような試練に遭(あ)いました(4−5章)。決して平和ではありません。これからも相当の覚悟なしに伝道と教会形成ができるものではありません。それでも著者は教会の平和を強調します。

 わたしたちが想像し、また希望する「平和」は試練も戦いもない穏やかな教会生活ができている状態です。しかし、著者が見た初代教会の平和は課題が一杯、絶え間ない苦難の中にある平和です。一瞬たりとも緊張を解くことが許されない中での平和とはどのような教会なのでしょうか。それは聖霊による平和です。迫害の嵐が吹きすさぶ中でも、また信徒一人ひとりに試練が絶え間なく襲ってくる中でも、皆が心を一つにして祈り、主なる神への讃美を歌い続け、「イエス・キリストは主である」と告白して止まない教会、悪しき霊の力と戦いながら宣教の志に燃えている教会、そして日々救われる人が起こされている教会の有様(ありよう)を見て、これこそ本当に聖霊による平和であると、著者は言います

 問題のない教会が平和と言い切れないのです。悪魔が安穏(あんのん)としておれるような教会こそむしろ危機的状況にあるのです。個人的にも教会全体でもたくさんの課題を抱えてアップ アップしたように見えても、もしそこに一致した祈りと讃美があれば、十字架の福音を取り次ぐメッセージが語られ、証する言葉が聴かれるなら、そういう教会こそ聖霊の慰めを受けることができます。基礎がしっかりとした教会が建て上げられてゆくのです。

 

 
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【 主日礼拝メッセ−ジ】ペンテコステ聖霊降臨記念礼拝                  2006年6月4日   

 「聖霊の慰め」
 使徒言行録9章26-31節
高橋淑郎牧師

 

 今日は聖霊降臨(せいれいこうりん)を記念して礼拝をささげます。2千年前、弟子たちの上に聖霊が臨んでくださったことによってイエス・キリストを主と告白する群れが起こされました。聖霊はこの群れを、「キリストに呼び集められた群れ」(エクレーシア=キリストの教会)と名づけてくださいました。その日から主の弟子たちは精力的に伝道を展開しましたが、聖霊はかつて先頭を切ってキリスト教会を迫害していたサウロをさえ回心させて、今度はキリスト者の先頭を切って「イエスこそキリストである。」と宣教する者へと造り変えてくださいました。

 初めのころエルサレム教会の人々はサウロがキリスト者になったことが信じられず、恐れるばかりで受け入れてくれません。しかし、聖霊はダマスコでアナニヤを仲介者として用いてくださったように、エルサレムではバルナバを遣わして使徒たちに引き合わせてくださいました。

 聖霊は今朝、わたしたちにも同じような経験をさせようとしておられます。仙川キリスト教会に限らず、時々「この教会には愛がない」とか、「この教会は冷たい」という声を聞くことがあります。もちろん教会はそうした声には真摯(しんし)に耳を傾け、何が足りないのか。どの点、どの所が冷たいのかをしっかり見極(みきわ)めて、指摘のとおりなら、主のみ前に悔い改めなければなりません。だが、教会を非難するその人にも静かに神と向き合ってもらう必要があります。「人に求める愛がわたし自身に備わっているのか。心が救霊の情熱で燃えているのか。自分のイメージに合わない教会への不満をぶつけているだけではないか」と。

 サウロはダマスコでも、このエルサレムでもなかなか受け入れてもらえませんでした。しかし、彼はダマスコの教会は冷たい、とか、エルサレムの教会には愛がないなどと不満を漏らして自分のほうから教会を離れようとはしませんでした。それどころか、「自分にはまだ悔い改めの実が不足しているのではないか」と、祈りに導かれました。あのアラビアでの日々(9:22と23の間)こそ、御言葉と祈りに明け暮れる生活であったと言えます。主イエスが赦し、受け入れて下さったとは言え、かつて苦しめていた人々からの和解を得るために、悔い改めの実を結ぶ必要があったのです。だが、それは彼一人でできることではありません。「この人は確かに以前のサウロではなく、今はキリストにあって全く新しくされている。」と証言して、仲介の労をとってくれる人が必要でしたから祈りました。祈りの人には祈りの友が備えられるものです。その人の名はバルナバです。レビ族の人で本名はヨセフと言いますが、いつとはなしに使徒たちからバルナバと呼ばれるようになりました。バルナバとは、「慰めの子」という意味です(5:36)。信仰の人にふさわしいニックネームです。このバルナバがサウロを使徒たちに引き合わせ、親しい関係を築くために尽力しました。

 これで安心して教会生活ができます。大胆にイエス・キリストの福音を人々に伝える奉仕ができます。ところがサウロの過去を知るギリシャ系ユダヤ人はサウロを理解しようとしません。ユダヤ教の裏切者として、彼を殺そうと狙っています。しかし神は今度も教会の仲間を用いて彼を救い出し、カイサリアの港から生まれ故郷であるタルソへ逃れさせて下さいました。ガラテヤの信徒への手紙1:18によると、エルサレム滞在はわずか15日間でした。

 

 著者ルカはここで、「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」と、ひとまず使徒言行録の節目とします。これは主イエスが弟子たちに約束された第一段階の成就だからです(1:8)。

 興味深いのは、「教会は・・・平和を保ち」という部分です。サウロがタルソへ去ったので、教会が平和を取り戻したように読もうと思えば読めますが、もちろんその解釈は正しくありません。ユダヤ人にとって、当面の敵はサウロに違いないのですが、サウロがこの地方にいなくなったからといって、教会に対する迫害が止むわけではありません。教会はその誕生の時から迫害の嵐にさらされましたし、教会内部でも土台を揺るがすような試練に遭遇(そうぐう)しました(4−5章)。決して平和ではありません。これからも相当の覚悟なしに伝道活動と教会形成ができるものではありません。それでも著者は教会の平和を強調します。

 わたしたちが想像し、また希望する「平和」は試練も戦いもない穏やかな教会生活ができている状態です。しかし、著者が見た初代教会の平和は課題が一杯、絶え間ない苦難の中にある平和です。一瞬たりとも緊張を解くことが許されない中での平和とはどのような教会なのでしょうか。それは聖霊による平和です。迫害の嵐が吹きすさぶ中でも、また信徒一人ひとりに試練が絶え間なく襲ってくる中でも、皆が心を一つにして祈り、主なる神への讃美を歌い続け、「イエス・キリストは主である」と告白して止まない教会、悪しき霊の力と戦いながら宣教の志に燃えている教会、そして日々救われる人が起こされている教会の有様(ありよう)を見て、これこそ本当に聖霊による平和と確信し、著者はこれを一つの節目として喜びの内に結んでいるのです。

 問題のない教会が平和と言い切れないのです。悪魔が安穏としておれるような教会こそむしろ危機的状況にあるのです。個人的にも教会全体でもたくさんの課題を抱えてアップ アップしたように見えても、もしそこに一致した祈りと讃美があれば、十字架の福音を取り次ぐメッセージが語られ、証する言葉が聴かれるなら、そういう教会こそ聖霊の慰めを受けることができます。基礎がしっかりとした教会が建て上げられてゆくのです。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇め、讃美します。

 今日もわたしたちに初代教会の生き生きした姿を見せてくださいましたことを感謝します。何の問題もない教会が祝されているように思いがちなわたしたちはあの町の教会、お隣の町内の教会をうらやましく思うことがありました。また、個人的にも潤いのない生活、絶え間なく続く辛い日々に疲れ果て、祈ることさえあきらめかけていました。しかし、そうではないことを今日教えて頂きました。あの初代のキリスト者たちが、大きな障害物に道をふさがれても、祈りをやめず、主を信じることをあきらめなかったので、聖霊はそのような教会と共にあり、一人ひとりの信仰を支え、慰め、教会の基礎と、生活の土台を固めてくださいました。

 わたしたちも今心新たに証します。あなたにより頼む者をあなたは決してお見捨てにならないことを。わたしたちは今心新たに確信をもってあなたを讃美します。あなたに従う者にこそ聖霊の豊かな慰めのあることを。私たちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

 


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