【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                   2006年6月18日   
 「祈りは聞かれる」
 使徒言行録10章1-8節
高橋淑郎牧師

 

 神は天使を通してコルネリウスにシモン・ペトロという伝道者を紹介してくださいました。なぜその必要があったのでしょうか。彼の生活態度から見て今のままで十分ではないかと思うのですが。ここに神の深いみ御心があります。コルネリウスは確かに「神の国から遠くない」(マルコ12:34)人でしたが、まだ「神の国に入って」はいません。「神の国をあこがれる」人ではなく、「神の国の住人」にならせたいのです。では、どうすれば神の国に入ることができるのでしょうか。イエス・キリストに出会うことです。十字架と復活の主キリストによって罪からの救い、復活の命、永遠の命にあずか与り、イエス・キリストを救い主と信じる者になることです。それによって人は初めて、神の国に入ることが許されるのです。そのためには神の国への案内人が必要です。聖書を通してイエス・キリストの福音をの宣べ伝えてくれる人が必要なのです。イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ12:6)と。

 礼拝は何のためにささげるのでしょうか。有り難いお説教をき聴くだけのためでしょうか。もし、そうならあなたも神の国から遠くないところで、神の国をただ眺めているだけの人です。悲しいかな神の国に入ることができないまま一生を終わってしまうことでしょう。コルネリウスは50Km先のヤッファまで人を遣わし、また50Kmの道のりを歩いてやってきてくれる神の国へのメッセンジャー(ペトロ)を待たなければなりませんでした。しかし、あなたには探せばすぐ近くにキリスト教会が与えられているのです。そこに行けば神の国への招待切符が手にはいるのです。あなたがもし、この切符を手に入れたいと願い、祈り求めるなら、あなたの祈りは聴かれるのです。ぜひ、お近くの教会に行ってください。

 
福音メッセージ一覧へ戻る


【 主日礼拝メッセ−ジ】                 2006年6月18日   

 「祈りは聞かれる」
 使徒言行録10章1-8節
高橋淑郎牧師

 

 聖書巻末にある「新約時代のパレスチナ」という地図を見ると、地中海の港町ヤッファから海岸沿いに北へ50kmほどの所にカイサリアというもう一つの港町があります。そこには百人隊長のコルネリウスという人がいました。皇帝カイザルに因んでつけられたこの町は、政治的にも軍事的にもローマにとって重要な町で、「イタリア隊」と呼ばれるローマ軍の駐屯基地が置かれていました。蜜のあるところに蜂が、お砂糖のあるところに蟻がむら群がるように、基地の町を利用してひと一儲けを企む商売人がいろいろな国から集まり、住み着いていましたから、ここはユダヤの領土でありながら、異邦人の数も少なくありません。

 しかし、ローマ軍の中にもユダヤ教の神を信じる人が少なからずいたようです。コルネリウスもそのひとりでした。「ある日の午後3時ごろ」と、天使が彼を訪れた時間をわざわざ書いています。敬虔なユダヤ人は朝の9時、12時、そして夕方3時の一日3回を祈りの時間として実行していました。著者はコルネリウスについて、「一家をあ挙げて神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と言っています。「絶えず」とは、9時、12時、15時の定められた時間に祈り、また神の導きの必要があるときにはまず祈りの場に帰っていたということでしょう。

 わたしたちの教会でも伝道執事の服部昭衛兄弟が提唱してくださっている「祈りのネットワーク」づく造りが軌道に乗りつつあることは嬉しいことです。それぞれに生活のリズムが違うので、置かれた環境にあって一定の時間に、一斉に祈ることが難しくなっている現代社会です。しかし、本当に難しいのだろうかという思いもしないではありません。健康な体であれば、食事はほぼ決まった時間に摂(と)ります。尾篭な(きたない)話で恐縮ですが、トイレにもほぼ決まった時間に通うでしょう。そして眠くなる時間もほぼ一定しています。では、たとえば朝の7時なら7時にそれぞれの場で、短い時間静まって一言の祈りをささげることは本当に難しいことなのでしょうか。祈れないほどいそが忙しいということ自体、わたしたちの信仰生活は危ないのです。不摂生な生活は肉体的にも霊的にも健康を害する早道です。忙しいことを理由に、祈ることを後回しにする信仰生活はやがて霊的病魔に蝕まれて行くのではないでしょうか。ひいては家族や友人の救いを実現できない原因はそういうわたしたち自身にあるのかもしれません。

 コルネリウスの家庭のことを考えてみたいのですが、この家の誰が最初に聖書の神を信じる者となったか興味のあるところですが、分かりません。しかし、だれが最初であったにせよ、まず誰かがユダヤ人の決まりである安息日(土曜日)の朝、ユダヤ人が集まる会堂に顔を出し、ユダヤ人が信じる神に礼拝をささげるようになりました。やがて聖書から語られるメッセージをき聴いているうちに、この世界とその中に住む、生きとし生けるものはすべて、唯一(ただひとり)の神によって造られたことを知ったのです。それだけではありません。やがて全ての人を救うメシア(キリスト=王、救い主)と呼ばれる方がおいでになるという神の約束に目覚め、この約束は必ず実現すると心から信じることができました。「世の中にはこんなに素晴しい教えがあるものか」と感激したその人は、家族にもぜひこの神を信じる者になってほしいと祈りはじめ、また毎週会堂で聴いてきたメッセージを鸚鵡返しに伝えました。やがて祈りは聴かれて、ひとりまたひとりと信じる者が増え、ついに家族全員が信じることができるようになりました。家族だけではありません。コルネリウスの部下の中にもこの神を信じる者が現れました。コルネリウスはただ上品で敬虔な礼拝者でおさまっている人ではありません。聖書に、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」という御言葉があることに出会いました。信仰は行いによるものではないと言いますが、行いの伴わない信仰生活もないのです。彼は家族の協力を得て、できる限り隣人への愛の実践と奉仕に積極的になりました。それが、恐らく貧しさに喘いでいた「民に多くの施しを」する動機(きっかけ)となったのです。

 神は、このような祈りと愛の裏付けのできた信仰の人を見逃しません。そこで神は天使を送り、これまでの信仰生活をほめて下さいました。祝福してくださいました。羨ましい限りです。わたしなど、至らないことがあまりにも多くて、もしわたしに天使を遣わしになるなら、「お前の生活はなっていないではないか。」とお叱りを受けるのが関の山でしょう。

 しかし、天使は彼をほめるだけほめ、祝福するだけ祝福して神のみ御許に帰って行きません。メッセージにはまだその先があります。「今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、皮なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」というのです。当時ローマ人の間では「コルネリウス」という名前、またユダヤ人の間では「シモン」という名前を持っている人は多くありました。日本で言えば、鈴木、山田、高橋というのと同じです。だから神はわざわざ天使に、ペトロがき寄宿している家の主人の名前だけでなく、地理的にもかなり詳しく道に迷わないように、家を間違わないように教えてくださったのでしょう。これで間違うようなら、相当な方向音痴ということでしょうか。そうではありません。ユダヤ人「皮なめし職人のシモン」が、なぜ人里離れた海岸にぽつんと追いやられるような生活をしていたのか。どうしてペトロがこの家を寄宿先に選んだのかということを、わたしたちに考えさせるためでしょう。これについては来週、神学校週間を覚える礼拝の中でお話しさせていただきます。

 それにしても、神はどうしてコルネリウスにシモン・ペトロを紹介する必要があったのでしょうか。彼の生活態度から見てこれで十分ではないかと思うのですが。これには神の深い御心があります。コルネリウスは確かに敬虔な礼拝者であり、愛の実践者です。しかし、マルコ12:34をご覧下さい。コルネリウスは確かに「神の国から遠くない」人でしたが、まだ「神の国に入っている」わけではないのです。神はコルネリウスとその家族、また彼を取り巻く多くの人々にも、何とか「神の国をあこがれる」だけの人でなく、「神の国の住人」にしてやりたいのです。では、どうすれば神の国に入ることができるのでしょうか。イエス・キリストに出会うことです。十字架と復活のキリストによって罪からの救い、復活の恵み、永遠の命にあずか与らせ、ひとりびとりがイエス・キリストを救い主と信じる者になることです。それによって人は初めて、神の国に入ることが許されるからです。そのためには神の国への案内人が必要です。聖書を通してイエス・キリストの福音を宣べ伝えてくれる人が必要なのです。イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ12:6)と。

 わたしたちが毎週この会堂に集められて礼拝をささげているのは何のためでしょうか。有難いお説教を聴くだけのためでしょうか。もし、そうならあなたも神の国から遠くないところで、神の国をただ眺めているだけの人です。悲しいかな神の国に入ることができないまま、一生を終わってしまうことでしょう。

 わたし高橋は、まこと真に小さな者で、何の取り柄もない者ですが、一つだけ確信をもっていることがあります。それは毎週、毎週皆さんに天国の門を示すだけでなく、そこに入る道をお伝えしているという確信です。すなわちイエス・キリストが十字架にかかったこと、三日目に死人の中からよみがえ甦られたこと、この方によってわたしたちの罪は清められ、赦されていること、この方を主キリスト、救い主と信じるだけで救われて永遠の命を与えられ、神の国の一員となれるのだということをお話しています。

 コルネリウスは50Km先のヤッファまで人をつか遣わし、また50Kmの道のりを歩いてやってきてくれる神の国へのメッセンジャー、ペトロを待たなければなりませんが、あなたにはあなたの家からこんなに近いところに仙川キリスト教会の会堂が与えられているのです。そしてもうすで既に何回となく、このところで神の国への招待切符を手になさっているのです。あなたの祈りは聴かれた証ではありませんか。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇め、讃美します。

 今朝、祈りという、あなたとの対話の生活が何よりも大切であることを教えて下さいました。感謝します。

 わたしたちはともすれば上手な祈りをしなければ恥ずかしいと、表面的な言葉にとらわれたり、反対にこんな祈りに何の意味があるのかとかい懐疑的になり、中断してしまうことがあります。しかし、あなたは上手な祈りではなく、真実な祈りを喜んで下さる方です。真実な叫びにこそ耳を傾け、聴いて下さるお方です。

 またわたしたちはこの辛い人生に即効薬がないかと焦って、祈りの答えを直ぐにほしがります。しかし、あなたはわたしたちにとって都合の良い時ではなく、あなたのみ心のままに祈りの答えを与えてくださいます。実は、そのあなたの御心のままにということこそ、わたしたちにとってもっとも必要な時であったこと、もっともふさわしい答えであったことをさと悟らせていただけるのです。

 どうか、わたしたちに祈ることをやめさせようとする悪しき者の誘惑から私たちを守ってください。祈ることこそ人生の大切な出発点であり、祈りこそ私たちがあなたのふところ懐に帰る一番安心な場所であることを忘れないように導いてください。

私たちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

 


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む