【 主日礼拝メッセ−ジ要約】 神学校週間礼拝                  2006年6月25日   
 「除かれた隔ての壁」
 使徒言行録10章9-33節
高橋淑郎牧師

 

 そのとき天が開き、よ四すみ隅で吊るされた大きな風呂敷のようなものが彼の目の前に下ろされてくるのが見えました。中にはあらゆるけもの獣、地をは這うもの、空の鳥が入っています。そして、上から、「ペトロ、これを料理して食べなさい。」という声が聞こえてきました。

 ペトロがこの幻について考えていたところへコルネリウスの使いが訪ねてきました。すると聖霊が「三人の者があなたを探している。ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしが彼らをよこしたのだ。」と言われました。ペトロは今皮なめし職人シモンの家を宿としています。動物の皮をはぐということは、清い動物だけでなく、汚れた動物の死体にも触れるわけですから、律法に違反する人(レビ記5:2)と見なされ、ユダヤ人社会では差別の対象でした。その意味でシモンの家で見た幻は深い意味を感じさせます。

 コルネリウスが待つカイサリアはい異ほうじん邦人が多く住んでいる町です。当時、い異きょう教の習慣に身を染める危険があるため、ユダヤ人が異邦人の中に入っていくことを禁じていました(ヨハネ4:9等、いわゆるく口でん伝りっぽう律法)。だから、異邦人に対するユダヤ人のへんけん偏見と差別は、皮なめし職人シモンに対する比ではありません。こうした人と人との間に立ちはだかる偏見と差別というへだ隔ての壁をなくすことこそペトロの仕事です。聖霊は、「ためらわないで一緒に出発しなさい。」と言われます。ペトロはコルネリウスの使いを見たとき、あの幻の意味を悟ることができたので、翌日出かけました。一方コルネリウスはというと、ペトロは必ず来てくれるに違いないと確信していたのでしょう。家族だけでなく、友人、知人に呼びかけていましたから、大勢の人と共に福音のメッセンジャーであるペトロを待っていました。

 わたしたちもこのような思いで毎週の礼拝につど集いたいものです。

 
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【 主日礼拝メッセ−ジ】  神学校週間礼拝                  2006年6月25日   

 「除かれた隔ての壁」
 使徒言行録10章9-33節
高橋淑郎牧師

 

 ローマの百人隊長コルネリウスの使いがペトロを訪ねて旅を続けていた頃、ペトロは祈るために屋上に上がりました。階下の台所では食事の準備で忙しそうです。時間は正午ごろです。間もなくおいしそうなにおいが立ち上ってきます。祈りと空腹感がない混ぜになり、彼はやがて夢見心地になったと口語訳聖書や新改訳聖書は書いています。「我を忘れたようになり」という訳も悪くはありませんが、この時の状況を思うと、こちらのほうがリアルな表現のように思えます。

 そのとき天が開き、四隅で吊るされた大きな風呂敷のようなものが彼の目の前に下ろされてくるのが見えました。中にはあらゆるけもの獣、地をは這うもの、空の鳥が入っています。そして、上から、「ペトロ、これを料理して食べなさい。」という声が聞こえてきました。しかし、彼は反射的にそれを断ります。どうやらその生き物は全て律法によって食べることが禁じられている生き物ばかりであったようです(レビ記11章)。神は重ねて食べることを勧めますが、ペトロは断り続けます。こんなやり取りが三度続いた後、風呂敷は天に引き上げられました。

 ペトロがこの幻について考えていたところへコルネリウスの使いが訪ねてきました。すると、聖霊が「三人の者があなたをさが探している。ためらわないでいっしょ一緒に出発しなさい。わたしが彼らをよこしたのだ。」と言われました。ペトロは皮なめし職人シモンの家に泊めてもらっています。動物の皮をはぐということは、清い動物だけでなく、汚れた動物の死体にも触れるわけですから、律法に違反する人(レビ記5:2)と見なされていました。だからユダヤ人社会の中で差別の対象とされていました。その意味でペトロがこのシモンの家で見た幻には深い意味を感じます。

 コルネリウス及び彼の家族が待つカイサリアは異邦人が多く住んでいる町です。当時、敬虔な異邦人がユダヤ人社会の中に入ってくることは別に問題はありませんでしたが、異教の習慣に身を染める危険があるため、ユダヤ人が異邦人の中に入っていくことを禁じていました(エズラ記4:3−6、ヨハネ4:9、使徒言行録11:2−3等、いわゆる口伝律法)。だから、異邦人に対するユダヤ人の偏見と差別は、皮なめし職人シモンに対する比ではありません。こうした人と人との間に立ちはだかる偏見と差別という隔ての壁をなくすことこそペトロの仕事なのです。だから、「臆する霊ではなく、力と愛とつつし慎みとの霊」(テモテ1:7)である聖霊は、「ためらわないで一緒に出発しなさい。」と言われたのです。

 ペトロはコルネリウスの使いを見たとき、あの幻の意味を悟ることができたので、翌日ヤッファの教会の兄弟たちと共に出かけました。一方コルネリウスはというと、ペトロは必ず来てくれると確信していたのでしょう。家族だけでなく、友人、知人に呼びかけて、大勢の人と共に福音のメッセンジャーであるペトロを待っていました(果たしてわたしたちはこのような期待を込めて礼拝に集っているでしょうか)。ペトロが到着すると、その喜びは大変なものです。まるで神の使い、いや神でもあるかのようにひれ伏して迎えました。もちろん勿論ペトロはそのような形の歓迎を断り、同じ人間としての主にある交わりを分かち合おうと呼びかけるのでした。

 

 今から6年前(2000年)の神学校週間を覚える礼拝も6月25日から7月2日でした。その日の礼拝でもお話したことですが、現在私たち日本バプテスト連盟には4つの神学校があります。北海道バプテスト神学校、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校、そして西南学院大学神学部です。そこで学ぶ彼らの多くは卒業後伝道者、牧師として諸教会に仕える人たちですが、中にはそれぞれの教会で音楽主事、教育主事などの奉仕をするために学んでいます。あるいは教会生活を更に豊かにするために、信仰の基礎的、神学的な裏づけと霊性を整えていただこうという動機で学んでいます。また彼らを受け入れているこれら4つの神学校にもそれぞれ特徴があります。西南のように寮生活をしながらひたすら学びに専念できる全日制の神学校もあれば、ITなどを駆使して自宅で学べる通信制の学校もあります。

 彼らの学びを支えるもの、それはもちろん彼ら自身のしっかりとした召命感です。召命感とは伝道者として、また一教会員として主イエス・キリストの教会に仕えるようにと、神から選ばれ、押し出されて神学校に学ぶことです。この召命感あればこそ、わたしたちは彼らを「神学生」と呼ぶのです。召命感のないまま、ただあこが憧れだけで学びを始めても続くものではありません。そして、これら神学生たちも、あのペトロが見た同じ幻に接した人たちです。彼らは主なる神からその在学中に最も大切な教えとして、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」という主からのご命令を受けて学びや舎を後にするのです。彼らの遣わされる教会とその地域には、実にた多種た多様な人々が主の御言葉を待ち受けているからです。

 もう一つ彼らの学びを支えるものは諸教会の熱心な祈りと具体的な経済的支援です。彼らは皆、とも綱をと解いて船出をした水夫のようなものです。退路を絶って、ただ主なる神にいっさい一切を委ねて献身した人たちです。しかし、彼らも人間です。雲や霞を食べて学びを続け、生きていけるわけはありません。神学生の多くは一般の大学と違って社会人としての経験を積んだ年齢の人であり、殆どは家族持ちです。育ち盛りの子どももいます。このような人たちが安心して学べるためにはあなたの祈りと献金が必要なのです。今年の献金目標は3千万円ということですが、これは西南学院大学神学部に限ったもので、これでも十分とは言えません。なぜなら、これは生活費のためではなく、授業料に消えてしまうのです。その外にまだ3つの神学校があることをお忘れないでください(教会の目標は8万円)。こうした献身者への支援を怠ることは連盟に連なる332の諸教会・伝道所全信徒の罪です。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名をあが崇め、讃美します。

 きょうから来週にかけて神学校週間です。わたしたちの連盟に4つの神学校が与えられていることを感謝します。そして今朝、この4つの神学校には、「ためらわないで出発しなさい」というあなたの呼びかけ、召命を受けて学んでいる献身者のあることに気づかせてくださったことを感謝します。ペトロが、まずあなたの幻に接し、伝道とは何かを学んだように、今あの4つの神学校の神学生たちは、3年、4年の学びを通して同じ幻を受けてとうと貴い学びにいそ勤しんでいます。彼らはやがて、あなたの福音、あなたの救いの御言葉を待ち受けている教会に遣わされるのですが、その彼らがゆるぎない召命感に立ち、献身のこころざし志に燃えているにもかかわらず、かりそめにも経済的な理由で断念しなければならないとすれば、それは彼らの罪ではなく、わたしたちの祈りの怠慢、愛の欠如がもたらす大いなる罪です。

 主よ、わたしたちに彼らを覚えて熱心に祈ることを教えてください。献金をもって、彼らの献身を共有するものとならせてください。

私たちの救い主イエス・キリストのみ御な名によって。アーメン。

 


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