【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                   2006年7月2日   
 「 この方こそ主です
 使徒言行録10章34-43節
高橋淑郎牧師

 

 まず、今日のメッセージのために与えられた聖書テキスト(使徒言行録10:34−43)を読んでください。皆さんはペトロを通して伝えられた、この神からのメッセージでお気付きになったと思います。神の救いはこの地上で選ばれたユダヤのかたすみ片隅から始められましたが、神がくだ下されたそのひと独りご子イエス・キリストがかけられた十字架は地球上の全ての人にとって無視できないものとなったということにです。イエス・キリストは個人的な理由で十字架につけられたのではありません。あの十字架こそ、本当はイエス・キリストが釘付けられるためのものではなく、罪びとのわたしたちが裁かれ、罰せられるはずのものであったのです。しかし、イエス・キリストがわたしたちの罪のいっさい一切を身に引き受けて、あのい忌まわしい十字架につけられてくださったのです。実にあの十字架こそ、わたしたち全ての人間のみにく醜い心、隠された罪の心が吹き出た瞬間なのです。イエス・キリストはあの十字架の上で、天の父なる神にとりなして祈ってくださいました。「父よ、彼らをおゆる赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないでいるのです。」(ルカ23:34)と。

 そうです。わたしたちは今もあの十字架の下で、神の愛、イエスのと執りな成しの祈りに耳を傾けようともしないで、自分たちの行く末を深く考えもしないで、何も知らずに毎日まいにち、罪の生活に追われるようにして忙しく過ごしているのです。しかし、今、ペトロは声を大にして私たちに伝えています。「イエス・キリストは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者であることを力強く証するようにと命ぜられたので、今ここに立っているのである。」と。

 いかがでしょうか。私たちは私たちの罪のために死んでよみがえってくださった救い主イエス・キリストのみ前に、今こそひざまず跪き、罪の悔い改め、信仰の告白をしようではありませんか。

 
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【 主日礼拝メッセ−ジ】                  2006年7月2日   

 「 この方こそ主です
 使徒言行録10章34-43節
高橋淑郎牧師

 

 私たちは先週から神学校週間として、一日一日を与えられた課題の下に祈ってまいりました。いったい神学校というものがこの世に存在したのはいつ頃からかというと、旧約聖書の時代にさかのぼることができます。たとえばイスラエルがバビロンという大国に呑み込まれて、王侯・貴族をはじめ、ユダヤ教の祭司や律法学者、預言者など主だった人々がバビロンへ連行されてほ捕しゅう囚の民とされましたが、異教の国でもゆいいつ唯一の神を信じる信仰を守り通すことができたのは、会堂礼拝と律法学者を教育訓練したことによると言われています。その後キリスト教会が小アジアからヨーロッパへと成長していくに従い、異教社会の人々に福音を正しく伝える指導者を養成するために、神学教育に熱を入れました。

 今日、社会事情が複雑になるに伴い、時代のようせい要請とあい相ま俟って、神学校ではいろんな学びをしますが、それでも学びの基本は一つです。それは聖書をしっかりと読み、まだイエス・キリストを知らない人々にどのようにお伝えすればよいか、そのことのために祈りを積み上げることに尽きます。私たちも神学校週間最終日のこの朝、ペトロの伝えるメッセージを通してちょっぴり神学生になった気分で、聖書の学びを受けようではありませんか。

 

 ペトロを迎えたローマの下士官コルネリウスのように、ローマ人の中にもユダヤ人の信じている神を受け入れて積極的にユダヤ人から聖書の教えを受けようとする人もあり、一方ユダヤ人の側でもペトロのように異邦人から伸ばされた友情の手を握り返す心の広い人も少なくありませんでした。しかし、現実には当時ローマは超大国です。政治・経済・軍事力いずれにおいてもユダヤ人の支配者でした。表面はローマの圧倒的な力に服従するしかなかった彼らですが、誇り高いユダヤ人は内心、自分たちを神の選民と誇り、律法を無視する異邦人はやがて終わりの日、神に裁かれて滅びる運命にあるのだとさげす蔑んでいました。

 しかし、ペトロは聖霊によってそのようなへんきょう偏狭な選民意識をくだ砕かれたひとりです。ユダヤ人だから救われる。異邦人だから滅びるという図式は神の前に何の意味も成さないことを、彼はあの革なめし職人シモンの家の屋上で学びました。そして今、熱心に神の救いを求め、御言葉の前にへりくだ謙るコルネリウスとそこに集められた異邦人を前にして、ペトロは開口一番、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神をおそ畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」と、力強く語り出します。結局彼があの幻によって導かれて知り得た結論は、この世の支配者は超大国ローマ人でもなければ、選民ユダヤ人でもない。神のおん御ひと独りご子イエス・キリストだけだ。このお方こそ真の主、万民の救い主であるという事実でした。

 ペトロは主なるイエス・キリストを証してなおも語ります。神はその独り子を世に下し、この方をイエスと呼ばせ、この方によって全てのしいた虐げられている人を助け、悪魔に苦しめられている人々をいや癒されましたが、神のみ心をさと悟ろうとしない人々は、彼を十字架につけて殺してしまいました。しかし神はこのイエスを三日目に死人の中からそのはつ初ほ穂としてよみがえ甦らせて、あらかじめ復活の証人として選ばれた弟子たちに現してくださいました。そしてイエス・キリストは御自分が生きている者と死んだ者との審判者であることを、全ての人たちに宣べ伝えるようにとお命じになりました。

 皆さんはペトロを通して伝えられた、この神からのメッセージでお気付きになったと思います。神の救いはこの地上で選ばれたユダヤのかたすみ片隅から始められましたが、神がくだ下されたそのひと独りご子イエス・キリストがかけられた十字架は地球上の全ての人にとって無視できないものとなったということを。イエス・キリストは個人的な理由で十字架につけられたのではありません。あの十字架こそ、本当はイエス・キリストが釘付けられるためのものではなく、罪びとのわたしたちが裁かれ、罰せられるはずのものであったのです。しかし、イエス・キリストがわたしたちの罪のいっさい一切を身に引き受けて、あのい忌まわしい十字架につけられてくださったのです。実にあの十字架の出来事こそ、わたしたち全ての人間のみにく醜い心、隠された罪の心が吹き出た瞬間なのです。イエスはあの十字架の上で、天の父なる神にとりなして祈ってくださいました。「父よ、彼らをおゆる赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないでいるのです。」(ルカ23:34)と。

 そうです。わたしたちは今もあの十字架の下で、神の愛、イエスのと執りな成しの祈りに耳を傾けようともしないで、自分たちの行く末を深く考えもしないで、何も知らずに毎日まいにち、罪の生活に追われるようにして忙しく過ごしているのです。しかし、今、ペトロは声を大にして私たちに伝えています。「イエス・キリストは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者であることを力強く証するようにと命ぜられたので、今ここに立っているのである。」と。

 いかがでしょうか。私たちは私たちの罪のために死んでよみがえってくださった救い主イエス・キリストのみ前に、今こそひざまず跪き、罪の悔い改め、信仰の告白をしようではありませんか。

 

詩編の一節を読んで祈ります。

「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。・・・来て、主のみわざを見よ。主は驚くべきことを地に行われた。主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを絶ち、戦車を火で焼かれる。『静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる』。万軍の主はわれらと共におられる。」(詩46編)

天の父なる神さま。あなたの御名をあが崇め、讃美します。

今、神学校では朝な夕な、あなたの真理の御言を学びながら、伝道者の道を歩む準備に励んでいます。わたしたちは今後とも彼ら一人一人を覚えて祈ります。

同時に、あなたは今朝、私たちも私たちの生活に何が必要なのかを教えようとしておられます。私たちは日々の忙しさにまぎれていつしか自己中心の生き方を選ぶ毎日でした。でも、それはとても危険な人生の選択であることに気がつきました。不確かな自分の経験や知識に頼るのでなく、わたしたちの罪のために死んで甦り、今も生きておられるイエス・キリストを主と仰ぎ、人生の導き手として頼り、従うことこそ安全であることを知りました。あなたの愛と赦しを感謝します。

私たちの救い主イエス・キリストのみ御な名によって。アーメン。

 


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