【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2006年7月16日   
 「神の賜物は誰にでも
 使徒言行録11章1-18節
高橋淑郎牧師
 

 そもそも「清い」とか、「汚れている」という判断は誰がするのかという問題です。旧約聖書の時代、神がユダヤ人と異邦人の接触を禁じたのは、ユダヤ人がそれによって異邦人の宗教に影響されることから守るためでした。しかし、それはイエス・キリストがこの地上に来られるまでのことでした。これまでユダヤ人は割礼を受けた者だけが清められた人、無割礼の人は汚れた者という聖書理解に立っていました。

 しかし、イエスが来られた後は、割礼のあるなしは問題ではなくなりました。割礼はそれを受ける者自身がからだの一部分を切り取り、血を流すことで神の契約の民として受け入れられるのですが、それはイエス・キリストの十字架を象徴するものでした。わたしたちの主イエスが十字架の上に全人類を代表して手と足、そしてわき腹に傷を受けて、いや傷を受けるばかりか、命までも捨てて、全人類の罪を清め、赦し、復活してくださったことによって、神の裁きによる滅びから救い出してくださいました。だから、もはやユダヤ人であるとないとに関わらず、誰でも自分の罪を告白して、イエス・キリストを救い主と信じる者は救われるのです。それがあの大きな布に入っていた生き物の意味です。神が清めてくださったから清いのです。

 現代のわたしたちにとって当たり前のことですが、これは当時のユダヤ人クリスチャンにとっては驚くばかりのニュースです。彼らは今初めて気がつきました。神の救いはイエス・キリストを信じる者なら誰にも及ぶということ、聖霊の賜物はイエス・キリストの弟子となる決心をした者なら誰にでも注がれるということを。聖霊の賜物とは、イエス・キリストを救い主と信じて告白する決断と神を讃美する力です。

 

 
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【 主日礼拝メッセ−ジ】                          2006年7月16日   

 「神の賜物は誰にでも
 使徒言行録11章1-18節
高橋淑郎牧師

 

 今日、皆さんと共に読む聖書箇所は、いっけん一見10章全体をただ繰り返し書いているようですが、注意して読みますと、これはそれまでユダヤ人キリスト者たちが考えていた教会のがいねん概念を大きく変えてしまう大事件を記録したものです。 

 ペトロは、カイサリアにおける異邦人伝道が大いに祝福されて、喜び勇んでエルサレムに帰ってきましたが、その喜びに水を指すように、ペトロの行動を激しく非難する人々がいます。割礼を重んじるユダヤ人キリスト者たちです。彼らは異邦人が救われたことを共に喜ぶよりも、中途半端な聖書知識で全てが分かったような気になって、「ペトロ先生ともあろう人が割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と食ってかかりました。彼らの非難を待つまでもなく、そういう律法があることは、ペトロ自身知っていました。だからこそコルネリウスの家に入ったとき、「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。」(10:27)と言っているのです。そのペトロが、あの革なめしシモンの家の屋上で経験したこと、すなわち地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入った大きな布を天から吊り下げ、「神が清めた物を清くないなどと、あなたは言ってはならない。」と諭された、あの幻を通して学んだことを証し始めました。そもそも「清い」とか、「汚れている」という判断は誰がするのかという問題です。旧約聖書の時代、神がユダヤ人と異邦人の接触を禁じたのは、ユダヤ人がそれによって異邦人の宗教に影響されることから守るためでした。しかし、それはイエス・キリストがこの地上に来られるまでのことでした。これまでユダヤ人は割礼を受けた者だけが清められた人、無割礼の人は汚れた者という聖書理解に立っていました。

 しかし、イエスが来られた後は、割礼のあるなしは問題ではなくなりました。割礼はそれを受ける者自身がからだの一部分を切り取り、血を流すことで神の契約の民として受け入れられるのですが、それはイエス・キリストの十字架を象徴するものでした。わたしたちの主イエスが十字架の上に全人類を代表して手と足、そしてわき腹に傷を受けて、いや傷を受けるばかりか、命までも捨てて、全人類の罪を清め、赦し、復活してくださったことによって、神の裁きによる滅びから救い出してくださいました。だから、もはやユダヤ人であるとないとに関わらず、誰でも自分の罪を告白して、イエス・キリストを救い主と信じる者は救われるのです。それがあの大きな布に入っていた生き物の意味です。神が清めてくださったから清いのです。

 

 更にペトロは言葉を続けます。「わたしが話し出すと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。そのとき、わたしは、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。こうして、主イエスを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」

 ペトロの取り次ぐメッセージに熱心に耳を傾けている人々に、ペトロのメッセージを押しのけるようにして、神は聖霊としてご自身を現してくださいました。現代のわたしたちにとって当たり前のことですが、これは当時のユダヤ人クリスチャンにとっては驚くばかりのニュースです。彼らは今初めて気がつきました。神の救いはイエス・キリストを信じる者なら誰にも及ぶということ、聖霊の賜物はイエス・キリストの弟子となる決心をした者なら誰にでも注がれるということをです。聖霊の賜物とは、イエス・キリストを救い主と信じて告白する決断と神を讃美する力です。

 彼らはペトロを非難したことを恥じ、口を閉ざし、心を開いて、異邦人に起こされた救いの出来事を共に喜ぶ者とされて、共に神を讃美するのでした。

 

 わたしたちは使徒言行録2章をもってキリスト教会の誕生日と信じてきました。それはその通りです。しかし、わたしたち異邦人にとって、聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事はこの10−11章なのです。なぜなら特にこの11章の記録が抜け落ちていたなら、キリスト教会はユダヤ人のためだけのものと限定されたままだからです。ユダヤ人キリスト者たちは、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を讃美しました。キリスト教はこの瞬間、エルサレムの枠を出て世界のキリスト教となったのです。

 

 わたしは最近、いくつかのカトリック教会での礼拝に与る機会に恵まれました。それはどのカトリック教会にも共通していることですが、わたしにとって、実に新鮮な驚きでした。受付というものがないのです。週報というものもありません。出入りは全く自由です。備え付けの聖書もありません。各自持ってくるからです。ベンチの背もたれには祈祷書があるだけです。礼拝者は定刻になると、礼拝堂の入り口には「お静かに」という札が一枚かかっているだけですが、それも必要ないくらい、誰一人ぺちゃくちゃおしゃべりしながら入ってくる人はいません。堂内は水を打ったように静かです。静かだけれどそこには聖霊による自由があります。礼拝の始まりを告げる助祭が、予め定められた順序に従って静かにプログラムを進めます。聖書を朗読し、祈りをささげ、会衆に讃美を促します。おり折を見て司祭がメッセージの取次ぎをするというように、司祭も助祭も、会衆もひたすら身も心も神に集中させています。礼拝堂はそれこそ聖霊に満たされていました。

 もちろんプロテスタント諸教会の礼拝にもそれぞれ良いものはたくさんあります。しかし、「お静かに」などと呼びかける必要のないカトリック教会の礼拝には学ぶところ大でした。加えて出入り自由の礼拝堂なのに、途中で帰る人よりも、後から後から吸い込まれるように礼拝に導かれてくる景色も何かを学べと主から示されているようでした。

 わたしたちの礼拝は聖霊に干渉していただけるものとなっているでしょうか。聖霊に干渉して、聖霊の働きを妨げるものとなっていないでしょうか。語るよりも聴く者になりましょう。聖書を前にして納得することを求めるのでなく、み言葉に服従する者となりましょう。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名をあが崇め、讃美します。

あなたがペトロをカイサリアには派けん遣してくださったので、福音は異邦人に行き渡り、聖霊の賜物がわたしたちの上にも注がれました。

今からはわたしたちが、まだ福音をも耳にしたことのない人々のところにつか遣わされる番です。まずあの人、この人の名前を心にと留めて祈ることからはじめさせてください。まず私たちをあなたとの関係を豊かにしてください。清めてください。み言葉に集中する者としてください。

私たちの救い主イエス・キリストのみ御な名によって。アーメン。

 


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