【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2006年8月6日   
 「途方に暮れても」
 使徒言行録12章1-19節
高橋淑郎牧師
 

 エルサレム教会に対する迫害は公権力をもってなされようとしています。キリスト教会に干渉することは、世論の歓迎する政策であり、王室の安泰につながることを知ったヘロデ王は、使徒ヤコブを捕らえて斬首刑(ざんしゅけい)にし、次に12使徒を束(たば)ねるペトロを逮捕しました。こうして教会の指導者を一網打尽(いちもうだじん)にすることで、キリスト教会を地上から抹殺してしまうことができると考えたのです。教会にとって恐ろしい暗黒時代の幕開けです。

 一方教会ではペトロの為に熱心に祈っていました。愛する指導者ペトロがどうなるかは神がご存じです。万一ペトロまでが殉教してしまったら、これから教会はどうなるのでしょうか。それも神がご存じです。だから教会は全てを御心のままに導かれる神に熱心な祈りをささげました。人は言うでしょう。「今更祈ってどうなるものか。」と。しかし、聖書は大胆に証言します。「祈りに優る武器はない」と。教会のメンバーは確かに大きな力の前になす術なく途方に暮れていました。しかし行き詰まりはしませんでした。熱心な祈りは、神の大いなる御業を見させていただく最も確かな道筋です。ペトロは不思議な神の導きで救われました。

 ある人が言いました。「神に大いなることを求めよ。そして神の為に大いなることをなせ」と。その人は続けて言います。「神の為に私たちがなし得る大いなることとは、心を一つにして熱心に祈ることである。」と。

 確かに今の時代、今日の社会情勢はますます混沌(こんとん)とした闇の中です。どうしようもないほど複雑で困難な問題が横たわっています。全く途方に暮れてしまいます。だから祈るのです。明日のこの国を神はどのように導こうとしておられるのか。そのためにこの町に建てられた仙川キリスト教会を、主はどのように用いようとなさるのか、主からの幻に目を留めるときが必要なのです。

 
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【 主日礼拝メッセ−ジ】                        2006年8月6日   

 「途方に暮れても」
 使徒言行録12章1-19節
高橋淑郎牧師

 

 アンティオキア教会からの援助で一息ついたのも束(つか)の間(ま)、ますます激しくなる迫害に苦しむエルサレム教会の人たちを守ってくださった聖霊の働きを、今朝は学ぶことができます。

 ところで、聖書には同じ名前の人が説明もなく次々登場するので、読者の中には誰が誰やら分からないという人もおられることでしょう。そこで今日の聖書の箇所だけでも説明しておきたいと思います。

 まず、殉教(じゅんきょう)したヤコブですが、この人はイエスに選ばれた12使徒の一人で、イエスに出会う前は漁師でした。弟のヨハネもイエスの弟子となり、使徒として選ばれました。これで「ヨハネの兄弟ヤコブ」という2節の意味が分かっていただけたと思います。ところが15章を読みますと、またヤコブという名前が出てきますが、それは殉教したはずのヤコブが生き返ったのではなく、別人です。この人については15章に入ったときに説明します。次にヤコブを手にかけ、ペトロまで逮捕したヘロデ王とはヘロデ・アグリッパのことで、イエスがお生まれになった頃のヘロデ大王の孫にあたる人です。ヘロデ大王の死後、彼が統治していた広い範囲の領土はローマ皇帝によって、3人の子どもたちに分割され、しかも「国王」から、「領主」に格下げされました。その頃ローマに送られたヘロデ・アグリッパは優れた頭脳と外交手腕で、皇帝の親族と親しくなり、その一人ガイウスが皇帝に即位すると、アグリッパは南シリア、ガリラヤ、ペレア地方を領土として与えられ、領主から、「王」へと昇格が許されました。ガイウスが暗殺されると、新しい皇帝クラウディウスにも接近し、ユダヤ、サマリア地方も与えられました。これはヘロデ大王の時代とほぼ同じくらいの規模だと言われています。彼は全てが思いのまま、絶頂期にありました。エルサレム教会に対する迫害はその頃のことです。今や迫害は国家ぐるみでなされようとしています。キリスト教会に干渉することは、世論の歓迎する政策であり、王室の安泰につながることを知ったヘロデ王は、使徒ヤコブを捕らえて斬首刑(ざんしゅけい)にし、次に12使徒を束(たば)ねるペトロを逮捕しました。このようにして教会の指導者を一網打尽(いちもうだじん)にすることで、キリスト教会を地上から抹殺してしまうことができると考えたのです。教会にとって恐ろしい暗黒時代の幕開けです。

 囚人ペトロに対するヘロデの警戒振りは念が入っています。鉄の門の向こう側にある第一と第二の衛兵所を経て、そのまた一番奥に設けられた牢獄に閉じ込めました。手には2本の鎖を巻きつけ、ペトロの左右に二人の兵士を置き、その上ご丁寧に4人一組の兵士を4交代制で見張らせました。

 こうして周到な準備をしておいて「除酵祭」(じょこうさい)が終わるのを待っていたのです。除酵祭と言うのは「過越(すぎこし)の祭り」と平行して祝われるのですが、これはモーセがイスラエルの民を率いてエジプトから脱出する前の夜、エジプトに下される審判からイスラエルが守られるために、目印として各家の鴨居と柱に小羊の血を塗りました。死の天使はその血を見て、過ぎ越してくれた故事に倣ってのお祭りです。イスラエルの人々は、エジプトを脱出する前、酵母を入れずに焼いたパンを食べましたから、そのことから除酵祭という祭りを過越の祭りと平行して祝いました。さすがにこの期間は囚人であっても処刑することはしません。祭りが終わるのを待ってペトロを引き出し、恐らく見せしめの為に公開処刑するつもりであったのでしょう。国家権力は余りにも強大です。その絶対的な力の前に、教会はいったい何ができるというのでしょうか。ペトロはというと既に覚悟を決めていたのでしょうか、番兵の間に挟まれながら従容(しょうよう)として眠りについています。

 一方教会ではペトロの為に熱心な祈りを神にささげていました。愛する指導者ペトロがどうなるかは神がご存じです。万一ペトロまでが殉教してしまったら、これから教会はどうなるのでしょうか。それも神がご存じです。だから教会は全てを御心のままに導かれる神に熱心な祈りをささげました。人は言うでしょう。「今更祈ってどうなるものか。」と。しかし、聖書は大胆に証言します。「祈りに優る武器はない」と。教会のメンバーは確かに大きな力の前になす術なく途方に暮れていました。しかし行き詰まりませんでした。熱心な祈りは、神の大いなる御業を見させていただく最も確かな道筋です。

 あなたの人生にのしかかる重荷の数々はあなたを押しつぶそうとしていることでしょう。しかし、このような時できることは何もないとあなたは絶望してはなりません。祈ってください。教会に来て祈りの応援を求めてください。全能の神が祈りに耳を傾けてくださるからです。

 ペトロは御使に起こされ、言われるままに帯を締め、履物を履き、上着をつけて衛兵所と鉄の門を通り抜けて外に出て行くことができました。その間誰にも邪魔をされなかったのです。ペトロはまるで夢か幻を見ている思いでした。我に返ったペトロは直ちにマルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家を訪ねました。この緊張した出来事の中で、ここから先少しユーモラスな情景が描かれています。あれほど熱心に祈っていたはずの人々ですが、一人はペトロの声を聞きながら喜びの余り門を開けるのも忘れて家の中に駆け込んでいます。その報告を聞いた人たちは、幽霊でも見たのでは?と信じません。

 わたしたちと何も変わりないように見えます。熱心に祈っていたこの人たちも、現実に祈りが聞かれたとき、それを信じるまで時間が必要でした。しかし、確かに神は彼らの祈りに耳を傾け、御心を留め、顧みてくださいました。山を海に移すほど不可能に見える大きな問題を前にしたとき、彼らはそれでも全能の神にすがって祈りました。しかし、この不可能を可能にしたのは祈りの力ではありません。神の憐れみです。聖霊の働きです。神は不思議な力で死刑囚ペトロを救い出し、ヘロデ王を息絶えさせました。神の栄光の為に生涯を献げた者と、神の栄光よりも自分の力を誇示した者に対する神の取り扱いは余りにも対照的です。

 私たちは今度の教会キャンプのプログラムの一つに、ヴィジョンを語るときを持ちたいと願っています。現在の教会の姿をもう一度見つめなおし、明日の教会、5年後の教会、10年後の教会に、神がどのような計画を持っておられるのか、そのヴィジョンを見せていただこうというのです。ある人が言いました。「神に大いなることを求めよ。そして神の為に大いなることをなせ」と。その人は続けて言います。神の為に私たちがなし得る大いなることとは、心を一つにして熱心に祈ることであると。

 確かに今の時代、今日の社会情勢はますます混沌(こんとん)とした闇の中です。どうしようもないほど複雑で困難な問題が横たわっています。全く途方に暮れてしまいます。だから祈るのです。明日のこの国を神はどのように導こうとしておられるのか。そのためにこの町に建てられた仙川キリスト教会を、主はどのように用いようとなさるのか、主からの幻に目を留めるときが必要なのです。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 ヘロデ王の強大な力の前にエルサレム教会は風前の灯でした。使徒ヤコブは殺され、今またペトロも捕えられ、全く八方塞(はっぽうふさがり)でした。しかし、教会は途方に暮れながらもただ手をこまねいてはいませんでした。人間には不可能でも、神よ、あなたは全能です。彼らはひたすらあなたの力にすがりつきました。熱心に祈りました。あなたはその祈りに御心を留めてくださいました。私たちは祈ることでしかあなたに仕える道が見えないときもあります。しかし、あなたは、「それで良い」といってくださいます。無力に見えても熱心に祈る群れをあなたは顧みてくださいます。

 主よ、どうぞこの仙川キリスト教会も自分のためだけでなく、諸教会の為に、友の為に、この町の為に、愛する祖国の為に、熱心に執り成す群れとしてください。

私たちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

 


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