【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2006年8月27日   
 「主の御手が下る」
使徒言行録13章4-12節
高橋淑郎牧師

 セルギウス・パウルスは、以前から真理を学び、救いの道を知りたいという願っていました。だから魔術師エリマをその正体も知らず、心の師と仰ぎ、出入りさせていたのです。しかし、パウロたちの噂を聞いて、彼らに会いたくなりました。これを知ったエリマは、真理から総督の目をそらせようとします。そこでパウロは、「今こそ主の御手がお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないであろう。」と叱咤しました。その瞬間彼の目がかすんできて、すっかり見えなくなりました。反対に総督はこの時、何が真理で、何が偽りであるかという霊の目が開かれ、主の教えに驚き、信仰に入りました。総督の上にも主の恵みの御手が下った瞬間です。

 このように、主は真理を求める者には栄光の輝きを与え、救いに至らせ、神の邪魔をする者には悔い改めの必要を悟らせるために、肉の目をふさがれるのです。エリマは誰かの手助けを必要とする一人の弱い人間であることに気付かせられました。本当に見るべき霊の目が開かれるためには、罪に走る肉の目がふさがれる必要があったのです。しかし、これは永遠の裁きではありません。「時が来るまで」の懲らしめです。罪に目覚めて悔い改めるまでの一時的な裁きなのです。

 愛する兄弟姉妹、あなたの目は大丈夫でしょうか。あなたは毎日何を見、何に魅力を感じていますか。それは神の喜びとなるものですか。あなたもしばし肉の目を閉じて、「主よ、あなたの喜びとなるものを見極めることのできる霊の目を与えて下さい。」と祈ってください。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリント4:18)

 
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【 主日礼拝メッセ−ジ】                            2006年8月27日   

 「主の御手が下る」
使徒言行録13章4-12節
高橋淑郎牧師

 

 バルナバとサウロは教会の人たちから祈りをもって送り出され、聖霊に導かれて地中海に浮かぶキプロス島へ行きました。そこが彼らに示された最初の伝道地です。キプロス島はバルナバの出身地だったからかもしれません。 「故郷に錦を飾る」という言葉があります。 彼はエルサレムでは相当な資産家でした(使徒言行録4:37)。しかし、今バルナバが何年ぶりかで郷里の土を踏んだのは、故郷の人たちに自分の出世した姿を見せて自慢をするためではありません。彼は今地上のどんな財産にも優る永遠の命という宝を与えられているので、この宝を郷里の人たちにも是非受け取ってもらいたいという、この一つの願いをもってはるばる海を越え、渡ってきたのです。伝道者なら誰でもまず頭に浮かぶ郷里伝道です。

 サラミスの港に着くと、早速この島の各地を転々として、ユダヤ人の諸会堂で共に礼拝をささげながら、自分たちが礼拝をささげているヤハウェなる神について、この神がその独り子イエス・キリストをこの世に送り、十字架に死んで復活したこと、救いの道を開いてくださったことを聖書から解き明かしたのです。ここで、「二人は、ヨハネという若者を助手として連れていた。」とわざわざ書かれていますが、それは、彼が福音の中心であるイエス・キリストの十字架の出来事をよく知っていたから、その証人として選ばれたのではないでしょうか。

 彼らはいよいよこの島の首都であるパフォスにやってきました。彼らのことはローマから派遣された総督セルギウス・パウルスの耳にも入っていました。総督はバルナバとサウロを招いて話を聴いてみたいと思ったのです。しかし、ここで思わぬ邪魔が入りました。総督と懇意にしている偽預言者バルイエス、またの名を魔術師エリマという男です。バルイエスとはイエスの子、つまり「救いの子」という意味です。神の啓示を受けてもいないのに、神はこう言われた、と平気でうその預言をしては救いの道ではなく、地獄への案内人になっていました。たぶん話し振りが上手で、いかにもそれが本当のことのように思わせるトリックを使うことから魔術師と呼ばれていたのでしょう。彼はユダヤ人です。だから聖書について、ある程度の知識を持っていました。問題はその知識を神の為にではなく、自分の欲望の為に用いたことです。総督セルギウス・パウルスのような賢明な人でもそれを見抜けなかったのです。これは今の時代にも言えることです。学者、知識人と呼ばれる高い教養を積んだ人でも、こと宗教のこととなると、偽預言者の魔術や良い加減な占いに引っかかり、簡単に迷信に走る傾向があります。しかし、神の怒りは迷信に走る人以上に、人を惑わす者に対して向けられるのです。今日、TVや雑誌でもてはやされている占い師などもその一人です。皆さんにはその心配はないと思いますが、どうかくれぐれも、偽預言者の言葉に惑わされないで下さい。

 バルナバとサウロが総督の招きに答えて、求められるままに神のみ言葉を伝えようとしました。すると、エリマは総督とサウロたちの間に割って入り、福音宣教の邪魔をしようとします。総督がキリストを信じる人になったら、これまで手にしていた特権や地位が危うくなると考えたからです。「パウロとも呼ばれていたサウロ」と書かれていることに注意しましょう。ユダヤ人でありながら、偽りの預言を語っては人を惑わすエリマの魔術からセルギウス・パウルスを守って救いに導く伝道者、異邦人の使徒として立ち上がったことを読者に伝えるために、「ここからはパウロと呼ぶよ」と、著者は説明します。

 総督は、以前から真理を学び、救いの道を知りたいという願いを持っていました。だからエリマを心の師と仰ぎ、出入りさせていたのです。しかし、パウロたちの噂を聞いて、エリマにはない何かを感じたのでしょうか、彼らに会いたくなりました。しかし、真理から目をそらせようとするエリマはそれをさせまいとします。そこで、二人の伝道者は、総督に福音を伝えるためには総督とエリマを引き離す必要があると考えて、「聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて」言いました。「今こそ主の御手がお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないであろう。」と叱咤しました。その瞬間彼の目がかすんできて、すっかり見えなくなりました。反対に総督はこの時、何が真理で、何が偽りであるかという霊の目が開かれ、主の教えに驚き、そして信仰に入りました。総督の上にも主の恵みの御手が下った瞬間です。

 このように、主の御手は真理を求める者には栄光の輝きを与え、救いに至らせ、神の御業を妨(さまた)げようとする者には、悔い改めの必要を悟らせるために、肉の目をふさいでしまわれるのです。果たして聖霊がパウロを通して語られたとおり、これまで宗教家としていっぱしの指導者を気取っていましたが、今ではエリマはもはやエリマではなく、誰かの手助けを必要とする一人の弱い人間に過ぎない者であることに気付かせられました。本当に見るべき霊の目が開かれるためには、神の悲しみとなるものに奪われていた肉の目がふさがれる必要があったのです。しかし、この神の御業は永遠の裁きではありません。「時が来るまで」の懲らしめです。それは彼が自分の弱さと数々の罪に目覚めて悔い改める時までの一時的な裁きなのです。

 愛する兄弟姉妹、あなたの目は大丈夫でしょうか。あなたは毎日どこを見ていますか。どういうものに魅力を感じていますか。それは神の喜びとなるものでしょうか。もし、あなたの肉の眼が神とあなたの間を妨げているなら、あなたもしばし肉の目を閉じて、「主よ、あなたの喜びとなるものをしっかり見極めることのできる霊の目を与えてください。」と祈ってください。終わりに使徒パウロの言葉を紹介します。

 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

               (コリント4:18)  

 祈りましょう。

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

今日は真理を求めた総督セルギウス・パウルスと、それを妨げようとする魔術師に対するあなたの取り扱いの対象的な出来事を学ぶことができました。

どうか、わたしたちにも、あの総督セルギウス・パウルスのように真理を求める熱心、救いの道を求める熱心を与えてください。わたしたちに過ぎ去ってゆく見えるもではなく、永遠に存続する見えないものをしたい求める者とならせてください。

私たちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

 


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