【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2006年9月3日   
 「お言葉をください」
使徒言行録13章13-25節
高橋淑郎牧師

 

 ピシディアのアンティオキアの会堂長はパウロに言いました。「何か・・・お言葉を」と。これに答えてパウロが語り伝えた神のメッセージから、わたしたちは二つのことを教えられます。

 まず、パウロは、イスラエルの歴史を振り返って、同胞の罪については僅かに18節でほのめかしますが、それ以上責め立てることはしません。これによって神がパウロを用いて語らせたメッセージの方向が見えてきます。それは、「神を畏れる人たち」(異邦人の改宗者)に向けられていました。ユダヤ人の「行いを耐え忍んでくださった」神は、異邦人に対しても憐れみ深い御手をさし伸べておられたのです。

もう一つは、人々に罪の悔い改めを促す使命を与えられたバプテスマのヨハネでさえ、「後から来られる方の履物をお脱がせする値打ちもない(奴隷として仕える値打ちもない)者だ」と言いました。

 その昔、神はエレミヤに、「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。」(エレミヤ書1:5)と言われました。しかしパウロは、更に遠大な神の御心を聴き取り、それをわたしたちに伝えています。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、 御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソの信徒への手紙1:4−5)と。

 イエス・キリストは今から2000年前にぽっと生まれてきたのではありません。世の始まる以前からわたしたちを救い、私たちを神の子にするためにその日、そのときに備えていて下さっていたのです。わたしたちが本当に聴くべきはこのお言葉です。

 
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【 主日礼拝メッセ−ジ】                            2006年9月3日   

 「お言葉をください」
使徒言行録13章13-25節
高橋淑郎牧師

 

 バルナバの故郷キプロス島での伝道に引き続き、次の目標は地中海対岸の小アジアです。ここで著者は「パウロとその一向は」と、バルナバとの順序を入れ替えて、パウロがリーダーとなっている様子を伝えています。パウロとその一行が小アジアのベルゲに到着して間もなく、ちょっとした事件が起こりました。助手として連れてきたバルナバのいとこで、マルコと呼ばれるヨハネが伝道旅行の途中でエルサレムに帰ってしまったのです。彼らの伝道は今始まったばかりです。もっともっと、いろいろな町の人たちにイエス・キリストの福音を伝えて、キリストの教会を建て上げたいと夢は大きく膨(ふく)らむ一方でした。それなのにこれはいったいどうしたことでしょう。何があったのでしょうか。聖書はその理由を何も伝えていませんが、これはバルナバよりも、むしろパウロにとって大変なショックで、15:38までずうっと、魚の小骨が喉に刺さったように、彼の心に引っかかっていたようです。

 しかし、パウロはそのような個人的感情を押し殺して伝道を続けます。皆さんの持っておられる聖書巻末の地図に書かれているかどうか分かりませんが、ベルゲというのは湾岸の町ではなく、地中海に注ぐケストロスという名前の大きな河を13kmほど上流にさかのぼり、しかも河岸から8km離れたところにある町です。彼らはそこから更にガラテヤのピシディア州アンティオキアの町までやってきました。シリアのアンティオキアではありませんので、注意してください。

 不思議なのは、彼らは小アジア最初の伝道地として、どうして地中海から160kmも北の、しかも標高1200mもあるこの町を選んだのでしょうか。パウロはその理由について、ガラテヤの信徒への手紙4:13の中で、「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を伝えました。」と言っています。ラムゼイという聖書注解者によると、パウロはベルゲでマラリヤにかかったので、転地療養をかねて旅行を続けたのではないかと言っています。しかし、聖書のどこにも彼がマラリヤにかかったとは書かれていません。あれやこれやパウロがこの町に入った理由について詮索(せんさく)したところで、見てきたような嘘になりかねませんから、わたしたちは彼らがピシディアに行ったという事実を素直に受け止めて読み進めてゆくことにしましょう。

 アンティオキアの町に入ってすぐの安息日に、彼らはユダヤ教の会堂に入り、礼拝をささげることにしました。すると、会堂長(わたしたちの教会で言えば、礼拝・礼典執事のような立場の人)が、パウロたちの席に人をやって、何かメッセージをと依頼して来ました。2000年前のユダヤ教の会堂礼拝は、「聴け」という意味の「シェマ」という呼びかけで礼拝が始められます。続いて「祈り」が捧げられ、「律法」と「預言書」の一部からの「聖書朗読」と、それについての解説または奨励がなされるのです。聖書は年間を通して読む箇所が決められていて、順次通読するのですが、奨励者を決めることは礼拝・礼典執事のような働きを担う会堂長に任されています。その日の安息日は、アンティオキアの会堂に数名の新来者の顔が見えます。しかもそのうち少なくとも二人はラビ(律法学者)の席に座っています。

 わたしたちの教会で言えば、毎週高橋の取り次ぐメッセージに半ば食傷気味(しょくしょうぎみ)だったある日の礼拝に、どこかの地方にある教会の牧師が礼拝にこられたようなものです。執事会ならぬ会堂長とその仲間たちで相談の上、早速、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください。」と、人をやってお願いしました。パウロは「いやいや、いつもの先生のお話をわたしにも聞かせてください。」と、一度は断るかと思えば、これが断らないのです。むしろ、これこそ千載一遇(せんざい いちぐう)のチャンス。聖霊の導きと、すぐに立ち上がりました。

 見慣れない説教者が講壇に立つのを見てざわめく会衆を手で制しながら、「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。・・・」と、語り始めます。「イスラエルの人たち」とは、ディアスポラと呼ばれる散らされたユダヤ人、「神を畏れる方々」とは、ユダヤ教の教理に賛同し、それを実践することに熱心であっても割礼を受けていない異邦人改宗者のことです。

 パウロはイスラエルの歴史を振り返り、アブラハムの時代からダビデに至るまで神がどのように導いてくださったか、その要点を語り、神の救いの約束はキリストにおいて果たされたと結論しています。使徒言行録には、時折キリストの弟子たちが取り次ぐメッセージが見られます。メッセージの結論は一つですが、話の筋道の立て方にはそれぞれ話し手の個性が見られて、非常に興味深いものがあります。たとえば7章のステファノという教会の役員さんが語ったメッセージを読むと、同じようにイスラエルの歴史を語りますが、それは罪の歴史であり、神への反抗の歴史であったと繰り返して、同胞の罪を責め立てました。

しかし、パウロのメッセージは少し違います。同じようにイスラエルの歴史を振り返って、同胞の罪については僅かに18節でほのめかしますが、それ以上責め立てることはしません。神がパウロを用いて語らせたメッセージの方向が見えてきます。それは、「神を畏れる人たち」、すなわち異邦人の改宗者に向けられていました。罪を鋭く責め立てるメッセージではなく、ユダヤ人の「行いを耐え忍んでくださった」神は、異邦人に対しても憐れみ深い御手をさし伸べておられるということに重点を置くのでした。

 そして、イエス・キリストの先駆者として立てられたバプテスマのヨハネの名を挙げて、人々に罪の悔い改めとバプテスマを促す、貴い使命を与えられた彼でさえ、「自分は、後から来られる方の履物をお脱がせする値打ちもない者(奴隷として仕える値打ちさえもない者)である。」と言ったと会衆に取り次ぎました。

 あのピシディアのアンティオキア会堂で、会堂長はパウロに言いました。「何か・・・お言葉を」と。これに答えてパウロが伝えた神のメッセージから、わたしたちは何を聴き取るべきでしょうか。パウロのメッセージを聴いて気付いたことは何でしょうか。

 それは、パウロがあの会堂でユダヤ人や異邦人に取り次いだメッセージには、それをさかのぼる4000年の時の重みを感じさせるものであったということです。

 エレミヤ書1:5を見てください。神はエレミヤに言われました。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。」と。わたしたちはただ科学的な精子と卵子の結合の結果生まれてきた偶然の産物ではなく、神の創造の作品、神の愛の対象であるということです。

 また、エフェソの信徒への手紙1:4−5を見てください。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」と。エレミヤは、神の選びと救いのご計画は、わたしたちが母の胎内にある時からだと言いました。しかし、パウロは言います。イエス・キリストは今から2000年前にぽっと生まれてきたのではありません。世の始まる以前からわたしたちを救い、神の子にする為にその日、そのときに備えていて下さっていたのです。

 もう一度皆さんにお考え頂きたいのです。パウロのメッセージに、神の計り知れない時の重みを感じませんか。わたしたちは余りにも自分の目の前のことに心を奪われすぎてはいないでしょうか。今朝わたしたちに示された聖書箇所をもう一度じっくり読んで見ましょう。救い主である神は実に6000年も以前からわたしたちのことを御心に留めて下さっていたのです。いや、天の父なる神は天地創造以前からわたしたち一人一人のことを御心にかけて下さっていたのです。わたしたちが本当に聴くべきはこのお言葉です。   祈りましょう。

 

 天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 パウロは、アンティオキアの会堂長の願いを受けてあなたのお言葉を取り次ぎました。これによって、あなたの愛がいかに広く、大きいものであるかということと、救いのご計画がどれほど遠大なものであったかをわたしたちは知ることができました。

そして今ひとつ、この神の愛と救いを感謝の内に受け入れ、心から信じた古(いにしえ)の預言者、バプテスマのヨハネ、そしてパウロたちの働きを思うとき、わたしたちも後世のために、あなたのお言葉を熱心に語り伝えなければななりません。主よ、どうかわたしたちにあなたを愛し、隣人を愛する心をもっともっと燃え立たせてください。

私たちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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