【主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2006年10月1日   
 「讃 美 し よ う 」
使途言行録13章44-52節
高橋淑郎牧師

 

 パウロの話に反対して、口汚くののしる人たちとは対照的に、福音を聴いた時、聖霊に満たされて主のみ言葉を讃美した人たちがいました。「主のみ言葉を讃美した」とは、み言葉の中心である神の愛を讃美したという意味です。そして、永遠の命を得るようにと定められていた異邦人たちは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰に導かれました。「永遠の命を得るように定められていた」とは、初めから救われる者と、救われない者が色分けされていたという意味ではありません。神のみ言葉を素直に受け入れた人は、結果として神の選びに与ることができたという意味です。信じるか信じないかという決断がもたらした選びです。ユダヤ人の聖書理解によると、割礼を受け、律法を守ってこそ神の国に相応しいというものでした。しかし、律法をその一点一画も損(そこ)なわないで、守り行なうことのできる人などどこにもいません。ユダヤ人たちは自分が守れないのに、人にはそれを押し付けるという矛盾に気がついていないのです。

 神は、律法を守った者が救われるのではなく、守れないばかりか、罪に罪を重ねてしまう弱いわたしたちに代わって、十字架の上に律法の要求するところを全て成就してくださいました。この御子イエス・キリストを信じ、この方によりすがりなさいと言われます。異邦人たちはこの神の愛に感動し、イエスを救い主と信じて神を讃美することができました。救われた喜びと感謝が主を讃美せずにおれない者としてくれました。讃美というものはこうして生まれるのです。

 わたしたちも主を讃美しましょう。メロディーが美しいからではありません。神がわたしを愛してくださって、救いと命を賜(たまわ)りましたから、この方に感謝し、この方を主なる神と告白し、讃美するのです。

 

 
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 【主日礼拝メッセ−ジ】                               2006年10月1日   

 「讃 美 し よ う 」
使途言行録13章44-52節
高橋淑郎牧師

 

 ピシディアのアンティオキアの会堂に集まった人々はユダヤ人も異邦人改宗者も、パウロが伝えたイエス・キリストの福音を聴いて深い感銘を受けました。そして礼拝後、次の安息日にも同じ話をしてくれと頼みました。さて、次の安息日にはほとんど町中の人々が、神の言葉を聴こうと集まってきました。ところがユダヤ人はパウロの取り次ぐメッセージを邪魔して、礼拝を妨害しました。いったい一週間の間に何があったのでしょうか。彼らとパウロたちの間で何かもめごとがあったという記事もありません。実際このユダヤ人たちも、前の安息日にメッセージを聴いたときには感動した人たちです。そして、彼らも町の人々に、会堂に行ってパウロの話を聴くようにと触れ回り、多くの人々を誘ったのです。それなのに、この心変わりは何としたことでしょう。

 その日の礼拝でどんなに恵まれたメッセージを聴いて感動しても、一週間そのメッセージを心にあたため続けることは難(むつか)しいものです。だからこそ、パウロとバルナバはわざわざ、「神の恵みの下(もと)に生き続けるように」と奨励したのです。神の恵みの下に生き続けるとはどういうことかというと、聖書を読み返し、神から与えられたメッセージを思い起こして毎日祈り続けることで、これをディボーションと言います。確かに彼らは次の安息日の礼拝が始まる直前までパウロたちの勧めに従って忠実でした。しかしユダヤ人は次の安息日の当日、礼拝が始まるほんの少し前、それも会堂の入り口に立ち、大勢の人々が入って行くのを見たその瞬間に、神の恵みから滑り落ちてしまいました。ここに言うユダヤ人とは、いつもは会衆を指導する立場にあった人たちだったのかも知れません。パウロたちが来るまでは、この会堂にこれだけの人が集まってはこなかったのに面白くないという思い、パウロに対するねたみが生じたのです。

 さて、礼拝が始まりました。パウロが講壇に上がって話し始めると、前の週とは打って変わり、パウロの語る一言ひとことに反対して口汚くののしりました。いったんねたみの感情がわきあがると、これまでの喜びの熱は冷め、あれほどの感動が嘘のように薄れてゆきました。そうなると、パウロの口から何を聴いても前の週のようには、素直に受け取れないのです。礼拝の邪魔をしただけではありません。彼らは町の有力者や、上流階級の人たちを扇動(せんどう)して、パウロとバルナバをこの町から追放してしまいました。

 悲しいことです。いったい彼らは何のために会堂に来たのでしょうか。礼拝をささげるためではなかったのでしょうか。確かにパウロが言うように、神の言葉は、まずユダヤ人のために用意されていたのです。イエス・キリストの福音によって、罪が赦され、義と認められて永遠の命を受けることができるようにと、その日も礼拝に招待されていたはずです。しかし、彼らは自分からその特権を放棄(ほうき)し、永遠の命を受けるに相応(ふさわ)しくない者にしてしまいました。この時、パウロの心に一つのみ言葉が浮かびました。それによって神は自分たちを異邦人伝道に召しておられると確信しました。それは47節で、イザヤ42:6と49:6からの引用です。ご一緒に読んでみましょう。

 一方異邦人の改宗者たちはどうだったでしょうか。彼らは神が遣わされたパウロとバルナバに対してねたみ心を抱きませんでした。それどころか、パウロが自分たちはこれから異邦人のために働くことにすると言ったとき、心から喜びました。ユダヤ人たちはパウロに対するねたみのために、同胞がキリストの救いに与る機会さえ奪い取ってしまいましたが、異邦人の改宗者たちは、ユダヤ人がもたらしてくれた旧約聖書とパウロを通して、神の救いのメッセージを聴いたとき、彼らは自分だけが救われてそれでよしとは思いません。自分たちと同じ立場の人々にも福音を伝えてくれるパウロたちの決心を喜んだのです。

 ユダヤ人たちはパウロのメッセージをろくに聴きもしないで、「口汚くののしり」ましたが、異邦人の改宗者たちは2週続けて福音を聴いた時、聖霊に満たされて主のみ言葉を讃美しました。「主のみ言葉を讃美する」とは、み言葉の中心である、イエス・キリストの父なる神の愛を讃美したという意味です。

ユダヤ人たちはパウロに反感を持ったことで、自ら永遠の命を得るに値しない者にしてしまいましたが、永遠の命を得るようにと定められていた異邦人たちは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰に導かれました。「永遠の命を得るように定められていた」とは、初めから救われる者と、救いから漏(も)れる者が、神によって色分けされていたという意味ではありません。メッセージを通して神のみ言葉を素直に受け入れた人は、結果として神の選びに与ることができたという意味です。信じるか信じないかという、その人の決断がもたらした選びなのです。

 ユダヤ人の聖書理解によると、割礼を受け、律法を遵守(じゅんしゅ)してこそ神の国に相応しいというものでした。割礼はともかく、律法をその一点一画も損(そこ)なわないで、守り行なうことのできる人などどこにもいません。しかし、ユダヤ人たちは自分が守れないのに、人にはそれを押し付けるということを平気でしていました。矛盾に気がついていないのです。

 しかし、神は、律法を守った者が救われるのではなく、守れないばかりか、罪に罪を重ねてしまう弱いわたしたちに代わって、十字架の上に律法の要求するところを全て成就してくださいました。だから御子イエス・キリストを信じ、この方によりすがりなさいと言われます。

 異邦人たちはこの神の愛に感動し、イエスを救い主と信じて神を讃美することができました。救われた喜びと感謝が主を讃美せずにおれない者としてくれました。讃美というものはこうして生まれるのです。

 わたしたちも主を讃美しましょう。メロディーが美しいからではありません。神がわたしを愛してくださって、救いと命を賜ったから、この方に感謝し、この方だけを主なる神と告白し、讃美するのです。祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 今日の聖書において、ユダヤ人は初めてイエス・キリストの福音を聴いたとき、異邦人たちと共に喜びました。しかし、次の週、大勢の人々が会堂に入って行く様子を見たとき、その心に暗い影が指し、パウロたちへのねたみとなり、二人の神の僕を町から追放してしまいました。

 しかし、一方では異邦人たちは素直に福音に耳を傾けて、イエス・キリストを救い主と信じて救いをもたらしてくださったあなたに讃美をささげました。

 主よ、どうかわたしたちの心にも、暗い影が差し込む余地のないように、御言葉を御言葉として素直に聴き分ける従順さを与えてください。そして、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝する心を、あなただけがわたしたちの救い主ですから、あなただけを讃美する者となるように、わたしたちをお導きください。

 わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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