【主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2006年10月29日   
 「 真の神はただ一人
使徒言行録14章8-20節
高橋淑郎牧師

 

足の不自由な人は、「パウロの話を聞いて」いました。正確にはもう何度も聴いていたという意味です。この人が何度もパウロの話を聴いていたということは、パウロの方が毎回この人のいる場所を選び、彼が聴きやすい位置に立って話をしたと思われます。そして、パウロはこの人の中に既にイエス・キリストを信じる信仰がはっきりしていることを認めることができましたから、「自分の足でまっすぐに立ちなさい。」と神のご命令を伝えることができました。すると、その人は躍り上がって歩き出したのです。神は、神の御業を信じる人に全能の力を注いでくださいます。

 町の人々は、神の大いなる奇蹟を目撃したものですから、たちまち蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、バルナバをゼウス、パウロをヘルメスと名づけて二人をギリシャ古来の神々に見立てて、今しも荘厳な儀式を執り行おうとしたので、彼らは驚き、中に飛び込んで行って、やっとのことで思い留まらせました。

 みなさんの心の中にも何か不思議な出来事を見たり聞いたりしたとき、特にそれに関わった人を神と崇める思いが起こることはないでしょうか。日も月も星も、海も川も山々もそこに棲家(すみか)を得る生き物もすべて神に造られたものであることを知ってください。それがどれほど神秘的に見えても被造物に過ぎないことを忘れてはなりません。そして人間もまた神の創造の作品なのです。どんなに偉大な人物であっても、その人に向かって膝を屈(かが)めてはなりません。どんなに偉大な業績を遺して墓に眠ったとしても、人間であることに何の違いもありません。尊敬することは大切ですが、礼拝してはなりません。むしろ人間でありながら神になりたがる傲慢で罪深い世界に、罪びとと同じ姿になって、天から降ってこられた神の独り子イエスこそ唯一真の神です。

 

 
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 【主日礼拝メッセ−ジ】                        2006年10月29日   

 「 真の神はただ一人
使徒言行録14章8-20節
高橋淑郎牧師

 

 先ず、聖書巻末に印刷されているこの時代の地図をご覧下さい。数字の7、「パウロの宣教旅行」1の頁です。矢印を見て頂いたら分かりますように、小アジア最初の伝道地として選んだのはピシディアのアンティオキアでした。その町ではかなり激しい抵抗に遭いました。しかし、彼らは引き返すどころか、更に先のイコニオンからリストラ、そしてデルベの町々へと福音を前進させていったのです。今朝はこのことを心に留めながら、主なる神が語られるメッセージに耳を傾けましょう。

 17:6に、パウロたちを訴えた人々が、「世界中を騒がせてきた連中」(口語訳聖書では、「天下をかき回してきた人々」)と言いました。確かにパウロたちの行くところ、それまで平穏であった町々が争いの渦に巻き込まれています。真に、「天下をかき回してきた人々」と言われても仕方ありません。しかし、なんと言われようと、彼らは伝道をやめません。

 こうして彼らはリストラの町に入ってきました。そこで最初に目に留まったのは、生まれついて足の不自由な男の人でした。ペトロもエルサレムにある美しの門で、やはり生まれついて足の不自由な男性に出会い、その人に主イエスの力による癒しの経験をさせました(3:1−10)。そして今、パウロの前にもいる人も同じ恵みに与りました。この二つの出来事でただ一点違うのは、ペトロの前で神による癒しの御業を経験させていただいた人は、それによってイエス・キリストを信じる信仰に目覚めましたが、パウロの前にいる人は、癒される前から、神にはそれができるというしっかりとした信仰がありました。どちらの信仰が優れているという問題ではありません。どちらも素晴しい出来事であり、どちらも神の恵みの御業の偉大さを証している出来事です。

 今、パウロの前にいる人は、「パウロの話を聞いて」いました。この、「聞いていた」という言葉ですが、文法的に言いますと、これは、未完了時制で、パウロたちがこの町に入ってきて以来、ずうっと聴き続けていたということになります。9節をちょっと読むと、この時初めてパウロの取り次ぐメッセージを聴いたように思いますが、実際にはもう何度も聴いていたのです。それで、数ある写本の中には、「パウロの話を、畏れをもって聴いていた」と書かれているものもあるそうです。それはともかく、今のように車椅子があるわけではないので、この人が何度もパウロの話を聴いていたということは、パウロの方が毎回この人のいる場所を選び、彼が聴きやすい位置に立って話をしたと思われます。

 メッセージを取り次ぐ者は、人が聴く耳をもって聞いているか、適当に聞き流しているかは目を見れば分かります。パウロはこの人の中に既にイエス・キリストを信じる信仰がはっきりしていることを認めることができました。それで、「自分の足でまっすぐに立ちなさい。」と神のご命令を伝えることができました。するとどうでしょう。その人は躍り上がって歩き出したのです。神は神の御業を信じる人に全能の力を注いでくださいます。とても生き生きした情景が目に浮かびます。それだけではありません。これを見た周囲の反応も大変なものでした。

 誰でも冷静な時は共通語でしゃべろうと、少なくともその努力をしますが、何かに驚いたりすると、つい生まれ故郷の発音をしてしまうものです。町の人々はこの瞬間われを忘れたように、共通語のギリシャ語でなく、地元の方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言ったというのです。

 Hさんは初めて会った時から少なくとも私の耳にはきれいな東京言葉で話してくださっているように聞こえていました。ところがある日、何かの弾みで「イッペコト」という懐かしい新潟弁を聴きました。皆さん、「イッペコト」の意味、分かりますか。「たくさん」という意味です。他人(ひと)のことは言えません。わたしなども、東京にいるのですから、普段の会話は仕方ないにしても、せめて講壇に立った時くらいはできるだけ皆さんが聞きやすいようにと、無理して、「共通語」で話すように努力しているつもりです。ですからメッセージ原稿と首っ引きなのです。でも、何かの弾みでぽろっと大阪の言葉、浪速の発音になってしまうことがあります。

 リカオニアの人々は、神の大いなる奇蹟を目撃したものですから、たちまち蜂の巣をつついたような大騒ぎになりました。恐らく初めのうちパウロとバルナバは何を言っているか分からなかったでしょう。騒がしい状況が呑み込めず、ただ呆然と眺めているだけでした。しかし、言葉は分からなくても、町の人々が何をしようとしているかが次第にわかってきました。バルナバをゼウス、パウロをよくしゃべるからと言うことでヘルメスと名づけて二人をギリシャ古来の神々と見立てて、今しも荘厳な儀式を執り行おうとしているのです。彼らは驚き、中に飛び込んで行って、やっとのことで思い留まらせました。

 15節以下を見てください。パウロは本当に良くしゃべる人です。声を張り上げて、自分たちは同じ人間で、今皆さんがしようとしているような偶像を拝むことをやめて、天と地と海と、その中にあるすべてのものを造られた、生ける唯一真の神に立ち帰るようにと、福音を告げ知らせている者であると一気に語るのでした。

 2週間前、安部光彦兄が皆さんの前で、イエス・キリストを信じるに至った恵みの体験を語られました。とても謙虚な中に、イエス・キリストに対する感謝と喜びが満ち満ちていました。はじめ、キリスト教嫌いであった彼を、あれほど強くキリストの福音に結び付けたものはなんだったでしょうか。それはマレーシアの路上に溢れている孤児たちに仕えている一人のクリスチャン女性との出会いでした。聖女のような彼女の奉仕の姿勢に感銘を受けた彼が、そのような感想を述べたとき、彼女はパウロと同じ言葉で、安部兄弟の心に浮かび上がった偶像を取り除きました。「わたしもあなたと同じ人間です」という一言です。それだけではありません。彼女は彼の心の扉の前に立っておられるキリスト、そしてその心の戸をノックしておられる音に気付かせたのです。「わたしはいつでもあなたの声に耳を傾けることはできない。しかし、キリストはいつでも、どこでもあなたの声を聞いて、的確に答えてくださる」といったというのです。こんなにも短い言葉で、こんなにも適切に祈りの大切さと、祈りの楽しさを教える言葉を語ることのできた彼女の信仰はすごいと思いました。自分を無にしてキリストにのみ栄光をと語る人の言葉には重みがあります。

 みなさんの心の中にも何か不思議な出来事を耳にしたり、目に見たとき、そしてそれに関わった人を神と崇めるお思いが起こることはないでしょうか。日も月も星も、海も川も山々もそこに棲家を得る生き物もすべて神に造られたものであることを知ってください。それらがどれほど神秘的に見えても被造物に過ぎないことを忘れてはなりません。そして人間もまた神の創造の作品なのです。どんなに偉大な人物であってもその人に向かって膝を屈めたり、どんなに偉大な業績を遺して墓に眠ったとしても、人間であることに何の違いもありません。尊敬することは大切ですが、礼拝してはなりません。唯一真の神、しかも本当に天から降り、人の姿でこの世界に来てくださった神の独り子イエス・キリストをこそ救い主と崇め、礼拝しましょう。  祈ります。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 使徒パウロとバルナバはこのリストラの町で、危うく神と崇められ、祭り上げられるところでした。人間というものはいつの世にも自分を神と崇めさせたがるかと思えば、偉大な人物や超自然現象に遭遇(そうぐう)すると、これを神と崇める傾向があります。しかし、あなたは目には見えなくても、世の初めから神でいらっしゃいます。天と地とその中に住む一切のものはあなたによって造られました。このように創造主であり、世界の支配者であるあなたが、実に不思議なことをされました。神になりたがる人々、神秘なものを見て神と崇めたがる人間とは逆に、あなたは神でありながら、この罪深い世に降り、人の姿をとってこの地上を歩まれました。そして贖いのしるしである十字架に上げられて、罪の贖いを完成させ、復活の命をもって死の支配を終わらせて下さいました。

 目に見える森羅万象は神々と崇められることを願っていません。むしろ彼らはそのあるがままの姿を通して造り主であるあなたを讃美しています。パウロとバルナバがリストラの住民にこのことを教えたように、わたしたちもまたわたしたちのあるがままの生き様を通してあなたこそ生きておられる真の神、永遠の主であることを人々に証するものとならせてください。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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