【主日礼拝メッセ−ジ要約】  子ども祝福礼拝                          2006年11月12日   
「愛は神から出るもの
  ヨハネの手紙一4章7−9節
高橋淑郎牧師

 

 わたしたちは今、子ども達に神の祝福があるようにと祈りました。教会がこの時期に子どもたちを祝福するのは聖書の教えに従った結果です。江戸時代初期から始まり、今や日本の文化となっている、いわゆる「七五三」の教会版ではありません。

 なぜ教会がこの時期に「子どもを祝福」する礼拝をささげるのか、11月は、ユダヤ暦でいう新年ですが、15日目から「仮庵祭(かりいおさい)」というお祝いをします(ネヘミヤ記8:13−18)。昔、モーセに率いられたイスラエルの民が、奴隷の地エジプトから解放されて、先祖の故郷であるカナンの地を目指して40年の間荒野を旅していた間、夜はテントを張って眠りにつき、昼はテントをたたんで持ち運びながら、荒野の道を歩んだ苦難を偲び、また祝うのです。

 それ以来、イスラエルの人々はこの日それぞれ仮の住いを作り、祭りの間そこで寝起きしながら、大人も子ども会堂に集まって礼拝をささげます。この日から1年かけて、「律法の書」と呼ばれるモーセ五書(創世記から申命記)を読み始めるのです。実はこれが子どもを祝福する礼拝であり、祝日でもあります。今日初めて礼拝に与る幼子であっても、この日から礼拝で旧約聖書を通して語られる神からのメッセージに触れる機会が与えられるからです。彼らはこの祭りを子どもたちと共に祝うことによって、聖書に記録された先人の信仰の歩みと、彼らを導いて下さった神の愛の事実を一つ一つ子どもや孫に伝えるのです。このように信仰の継承を大切にするユダヤ教の良い習慣を、キリスト教会は引き継いでいるのです。主イエスが幼子を抱き上げて頭に手を置いて祝福の祈りをささげたのは、この幼子たちにも御言葉を聴く権利が与えられていることを教えるためでした。御言葉の中心は神の愛です。

  
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  【主日礼拝メッセ−ジ要約】  子ども祝福礼拝                       2006年11月12日   

「愛は神から出るもの
  ヨハネの手紙一4章7−9節
高橋淑郎牧師

 

 わたしたちは今、子ども達に神の祝福があるようにと祈りました。教会がこの時期に子どもたちを祝福するのは聖書の教えに従った結果です。江戸時代初期から始まり、今や日本の文化となっている、いわゆる「七五三」の教会版ではありません。

 では、なぜ教会がこの時期に「子どもを祝福」する礼拝をささげるのか、それは聖書の教えに従うと、11月にこのような時を持つのが相応しいからです。イスラエルではこの11月、ローシュ・ハシャナ(新年)というユダヤ暦の祭日です。この日、ユダヤの人々は、新年元日に会堂に集められて律法の朗読と解説を聴きます。その日の夕方、川や湖や海辺に行き、「主は再び我らを憐れみ われらの咎(とが)を抑(おさ)え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」(ミカ書7:19)という御言葉に従って、罪の告白を意味するタシュリーフという祈りをささげます。そして、お互いに「シャナ・トバ(良いお年を)」と挨拶を交わし、数日前の年末には知人や親戚に、「新しい年も神の祝福があるように。」と祈りを込めてカードを書き送ります。日本で言う年賀状のようなものです。

 15日目から8日間もしくは9日間、「スコット」〔仮庵祭(かりいおさい)〕というお祝いをします。これは「過越祭(すぎこしさい)」、「五旬祭(ごじゅんさい)」と共に、ユダヤ三大祭の一つです。スコットの起源はネヘミヤ記8:13−18にさかのぼります。昔、モーセに率いられたイスラエルの民が、奴隷の地エジプトから解放されて、先祖の故郷であるカナンの地を目指して40年の間荒野を旅していた間、夜はテントを張って眠りにつき、昼はテントをたたんで持ち運びながら、荒野の道を歩んだ苦難を偲び、また祝うのです。

 それ以来、イスラエルの人々は、この日、自分の家の屋上や敷地の一角に、また広場などに仮の住まいを作り、祭りの間そこで寝起きしながら、大人も子ども会堂に集まって礼拝をささげます。この日から1年かけて、「律法の書」と呼ばれるモーセ五書(創世記から申命記)を読み始めるのです。実はこれが子どもを祝福する礼拝であり、祝日でもあります。今日初めて礼拝に与る幼子であっても、この日から礼拝で旧約聖書を通して語られる神からのメッセージに触れる機会が与えられるからです。彼らはこの祭りを子どもたちと共に祝う中で、聖書に記録された先人の信仰の歩みと、彼らを導いて下さった神の愛の事実を一つ一つ子どもや孫に伝えるのです。

 このように信仰の継承を大切にするユダヤ教の良い習慣を、今日キリスト教会は引き継いでいるのです。主イエスが幼子を抱き上げて頭に手を置いて祝福の祈りをささげたのは、この幼子たちにも御言葉を聴く権利が与えられていることを教えるためでした。御言葉の中心は神の愛です。

   「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、

    愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」

 聖書はわたしたちに、「互いに愛し合いなさい。」と教えています。イエスは、十字架にあげられる前の日、弟子たちに向かって、「わたしの愛にとどまっているように。」(ヨハネ15:10)と言い、更に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)と言われました。神の愛をもって愛し合うとは、神がイエス・キリストにおいて見本を示してくださったように、兄弟姉妹、隣人に対して命をかけるほどに愛するということです。子どもたちを祝福するということは、この子どもたちのためには自分の命さえ与えるほどに愛するということです。今もイエス・キリストはわたしたちを愛し、わたしたちを清めてみ国の子として受け入れる用意があると招いてくださっています。しかもその手には、十字架に刺し貫かれた釘跡が生々しいのです。この愛を伝えてこそ子どもたちを真実に祝福したと言えるのです。

 わたしはこの仙川キリスト教会に仕える一人として、皆さんを誇りに思います。なぜなら、皆さんはそれぞれの置かれた環境で、この愛を実践しておられるからです。

 三浦綾子の小説に「海嶺(かいれい)」という作品があります。明治維新よりもまだ30年ほど前、ドイツ系イギリス人宣教師ギュッツラフがマカオにおいて、3人の日本人の助けを得ながらプロテスタント最初の日本語訳聖書を翻訳するという大事業を成し遂げた人々の、実話に基いたものです。彼らが翻訳した聖書とは、「ヨハネによる福音書」と、「ヨハネの手紙一・二・三」です。因みに今日(きょう)の聖書の箇所であるヨハネの手紙一4章7節は次の通りです。御自分の聖書と照らし合わせるつもりで聞いていてください。

「カワイガラレタヒトビト、ワシドモ カワイガリヤエヨ。
メグミ ゴクラクカラクル、ミナカワイガルニン(人)、
ゴクラクカラウマレタ、テンノツカサヲシル・・・」

 小説どおりであるなら、その頃この日本人たちは、まだイエス・キリストを信じるには至っていなかったそうです。ギュッツラフ宣教師から聞かされるギリシャ語の聖書に初めて出会い、しかもその一字一句の意味に相応しい日本語は何かと手探りしながら日本語に翻訳した彼らの苦労は大変なものであったに違いありません。

 それにしても、ギュッツラフ宣教師は新約聖書27巻のうち、どうしてわざわざヨハネによる福音書とヨハネ書簡の四つを選んで翻訳しようと思ったのでしょうか。本当のところは分かりません。しかし、ギュッツラフの聖書翻訳のお手伝いをした日本人漂流民と、福音書や書簡の著者ヨハネに共通するものがあります。それはどちらも漁師であったという点です。三浦綾子さんの集めた資料によれば、彼らは確かにこのことがきっかけでイエス・キリストを信じる者とされましたが、漂流民は理由の如何によらず大罪人であると、徳川幕府から帰国を拒まれて、そのまま異国の地に骨を埋めたと言われています。わたしたちは、ここにわたしたちを隣人として、わたしたちのために命をかけて十字架の福音を伝えてくれたギュッツラフや日本人漂流民の、神にある大きな愛を学ぶことができます。

 今日(こんにち)も、ギュッツラフを含めた世界中の宣教師や牧師たちは、この神の愛に啓発され、押し出されて福音の使者として献身し、身を挺して奉仕しています。彼らの働きに感謝し、更に豊かな祝福を祈りましょう。

 同時にあの日本人漂流漁民のように、彼らには何の責任もないのに、愛する母国からはじき出されて帰るところも閉ざされ、異国の地にあってそのまま骨を埋めなければならない寄留者がたくさんいます。しかし、その人たちにイエス・キリストにおける神の愛、十字架の福音を伝えることができたなら、わたしたちも、「互いに愛し合いなさい」といわれている御言葉の実践者となることができるのです。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 2000年前、イエス・キリストは幼子をその腕に抱き、祝福なさいました。わたしたち仙川キリスト教会も主イエスに倣って幼子の頭に手をおいて祝福を祈りました。またこの日、あなたはわたしたちに、「互いに愛し合いなさい。」と、恵みに満ちた勧めを与えてくださいました。わたしたちをみそばに招き寄せてくださるあなたの愛の御手は十字架の血潮にまみれています。心から感謝します。

あなたの愛に感動したギュッツラフ宣教師と3人の日本人漂流漁民は皆、苦難と侮辱をこうむりながら、後世のために尊い命の御言葉を伝えてくれました。

 わたしたちは、わたしたちの隣人に何をもってあなたの愛をお伝えすることができるでしょうか。御言葉を証すること以外にありません。信仰の継承に励む以上にあなたの愛を実践する道がないのです。どうか、この後もわたしたちをこの奉仕に徹することができますように。

私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。  アーメン。


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