【主日礼拝メッセ−ジ要約】 アドベント第1週                                2006年12月03日   
主にあって一つ」
  使徒言行録15章6-11節
高橋淑郎牧師

 

 聖書に、「三つ撚りの糸は切れにくい」という1節があります(旧約聖書コヘレト4:12)。毛利元就の「三本の矢」の教えもこれに似ています。皆が心を合わせて一つのことに当たるとき、一人ではできなかった不思議な力を発揮することができます。しかし「一致する」ことがいつも良い結果に結びつくとは限りません。学校などで集団が心を合わせて一人の弱者をいじめる。耐えられなくなった人は自らの命を絶つという痛ましい事件、負の連鎖が後を絶ちません。また、何が何でも数の力で法律を作り、或いは改訂し、結果的に高齢者の負担が増し、障害者の自立を妨げている現状があります。

 聖書を良く見て下さい。今日の箇所から、「一つになる」ことの本当の意味を学ぶことができます。エルサレムに集まった人々の大半はユダヤ教出身のユダ人キリスト者で、アンティオキアから来た異邦人出身のキリスト者はごく少数でした。しかし、会議の流れは異邦人キリスト者を受け入れる方向に進んで行きます。つまり、圧倒的多数のユダヤ人キリスト者たちが、心を一つにして異邦人キリスト者を同じキリストの教会のメンバーとして、またアンティオキアの教会を同じキリストの教会として受け入れようとしているのです。なぜ、このようなことが起こったのでしょうか。彼らが異邦人に対する人間的な同情や、政治的妥協という方法で解決しようとしたのではなく、「主にあって一つ」となれたからです。

 この、「主にあって」という前提に従うか、無視するかによって、この世の中は真に和解の道を歩めるか、緊張と対立の垣根の中に埋没してしまうのです。ここに言う「主」とは誰でしょう。イエス・キリストです。イエス・キリストを教会のかしら、この世界の真の王として受け入れ、この方に従うとき、わたしたちは、本当に一つになれるのです。ひとつ心で互いの重荷を負い合う社会を築くことができるのです。

 

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  【主日礼拝メッセ−ジ】 アドベント第1週                                2006年12月03日   

主にあって一つ」
  使徒言行録15章6-11節
高橋淑郎牧師

 

 週報のプログラムには「宣教開始43年」とありますが、これは教会活動が4月を年度の初めとしているためのずれで、実際は満44歳の仙川キリスト教会です。今日からまた新しい一歩を踏み出すこの教会のため、またわたしたちのために必要なことが何かを、今日も御言葉から神のメッセージを聴き取って参りましょう。

 ファリサイ派からキリスト者になった人々とパウロたちのグループはエルサレム教会に集まってきました。キリスト教会最初の総会です。会議のメンバーはアンティオキアの教会代表者とエルサレム教会の使徒たちと長老たち、及び全会衆(12,22節)です。

 会議のテーマは、「異邦人改宗者の取り扱い」です。ユダヤ教ファリサイ派出身のキリスト者のグループは、「異邦人はイエス・キリストを信じる信仰だけでは不十分で、彼らにも割礼を受けさせ、モーセの律法を遵守するように命じる必要がある。」と主張し、これに対してパウロとバルナバは、「異邦人であろうが、誰であろうが、キリストの教会に受け入れる上で確認すべきことは、イエス・キリストを信じる信仰のみであって、それ以上何の条件も課すべきではない。」と反論します。甲論乙駁(こうろんおつばく)、意見は平行線をたどり、双方とも容易に自説を曲げません。この時、使徒たちの代表格であるペトロが立ち上がって事態の収拾に乗り出します。それは意見と言うよりも証と言えるものでした。

 「兄弟たち、ご存知のとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。」と切り出します。ここで言うところの「わたしをお選びになった」というのは、「使徒」として選ばれた時のことではなく(マタイによる福音書10章)、カイサリアにいるコルネリウスという異邦人を訪ねたときのことです。使徒言行録10章にその当時の出来事が詳しく記録されていますので、読み返して見てください。あの時、ペトロが異邦人に福音を語っていたら、大リバイバルが起こりました。彼らの内に信仰が燃え上がり、その一人びとりに聖霊が注がれました。ペトロも聖霊に促されるまま彼らにバプテスマを授けたあの出来事のことです。そこでペトロは言います。「(神は)彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛(くびき)を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」と。

 そうです。彼らユダヤ人は一人残らず、モーセの律法という軛を負いきれなかったのです。一人残らず律法を遵守できなかったのです。その点ではユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、神のみ前に等しく罪びとなのです。だからこそ神は御子イエス・キリストを人間の姿でこの世に送り、彼らのために、彼らの身代わりの死を遂げなければならなかったのです。

 ファリサイ派から信者になった人々は今、ペトロの証(メッセージ)を聴いている内に、モーセの律法という軛を負いきれなかった罪を示されました。その罪を贖い、十字架に死んで甦ってくださったイエス・キリストを救い主と信じたからこそ、今の自分たちがあったのだ、彼らははたと思い知って「静かになり」(12節)ました。モーセの律法が存在することさえ知らなかった異邦人もまた不思議に教会に導かれて自分たちの罪を示された時、神は自分たちのためにも独り子イエス・キリストを自分たちの罪の身代わりとして自分たちが受けるべき罪の審きのしるしである十字架に死んでくださったことを感謝し、罪の悔い改めとイエス・キリストを救い主と信じる信仰に目覚めたのです。ここに教会は今、ユダヤ人と異邦人の壁がなくなり、一つとされました。「一致」したのです

 

 聖書に、「三つ撚りの糸は切れにくい」という1節があります(旧約聖書コヘレト4:12)。毛利元就(もうり もとなり)の「三本の矢」の教えもこれに似ています。人々が心を合わせ、力を一つにして事に当たる時、不思議な力が湧き、大いなる成果を見ることがあります。

 しかし「一致する」ことが、いつも良い結果に結びつくとは限りません。学校で、また世の中のさまざまな組織の中などでも、集団が心を合わせて一人の弱者をいじめる。耐えられなくなった人は自らの命を絶つという痛ましい事件、負の連鎖が生み出す事象が後を絶ちません。また、何が何でも数の力で法律を作り、或いは改訂し、結果的に高齢者の負担が増し、障害者をはじめ弱者の自立を妨げている現状があります。

 聖書を良く見て下さい。今日の箇所から、「一つになる」ことの本当の意味を学ぶことができます。エルサレムに集まった人々の大半はユダヤ教出身のユダ人キリスト者で、アンティオキアから来た異邦人出身のキリスト者はごく少数でした。しかし、会議の流れは異邦人キリスト者を受け入れる方向に進んで行きます。つまり、圧倒的多数のユダヤ人キリスト者たちが、心を一つにして異邦人キリスト者を同じキリストの教会のメンバーとして、またアンティオキアの教会を同じキリストの教会として受け入れようとしているのです。なぜ、このようなことが起こったのでしょうか。彼らが異邦人に対する人間的な同情や、政治的妥協という方法で解決しようとしたのではなく、「主にあって一つ」となれたからです。

 この、「主にあって」という前提に従うか、無視するかによって、この世の中は真に和解の道を歩めるか、緊張と対立の垣根の中に埋没してしまうのです。ここに言う「主」とは誰でしょう。イエス・キリストです。イエス・キリストを教会のかしら、この世界の真の王として受け入れ、この方に従うとき、わたしたちは、本当に一つになれるのです。ひとつ心で互いの重荷を負い合う社会を築くことができるのです。

 更にもう少し、この出来事について学ぶ必要があります。ペトロの証は、ユダヤ人と異邦人の心の壁を突き崩す、素晴しい出来事の礎となりました。しかし、そのペトロも首尾一貫して、「主にあってひとつ」という確固とした信仰に立っていたわけではありません。「ずっと以前」、カイサリアで経験した神の救いの出来事の後も、彼の聖書理解は右に左に揺れ動いていました。そんなことが聖書のどこに書かれているのか、と皆さんは怪訝(けげん)に思われるかもしれません。ガラテヤの信徒への手紙2:11−14(新約聖書 p.344)をご覧下さい。この事件は使徒言行録10章から15章までの間の出来事です。心では異邦人の信仰を受け入れながら、ファリサイ派からキリスト信仰に入ったが、なおユダヤ主義的な考え方をする人々の強い意見を前にして、ペトロは次第に異邦人との間に距離を置くようになったというのです。しかしその矛盾した姿勢をパウロに強い調子で非難されました。

 今日の箇所でのペトロの証はこういう苦い経験が薬となっていたことを見落としてはなりません。ファリサイ派から信仰に導かれた人々に悔い改めを促すペトロはその前に、自らも真剣に悔い改めの祈りをしていたのです。ここに、「主にあって一つとされる」教会の美しいもう一つの面を見ます。イエスは言われました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目にある丸太に気付かないのか。」(マタイによる福音書7:1−3)と。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 「一つになる」ということはどの社会、どの集団を力強く進める上で大切なことです。しかし、人間は愚かですから、つい、安易に数の力、多数の論理でことを進めようとしてしまいます。動機は良く、目指しているものも間違っていないのに、そのような決め方をした結果、思いもよらぬ悲しい結末を見るということがあります。

 今朝、あなたはわたしたちが一つ心でことを進める上で大いなる前提を見失うなと教えてくださいました。それは、「主にあって」という大前提でした。イエス・キリストを抜きに、或いはイエス・キリストを自分の目的のために利用するような形ではなく、一人一人がまず、主イエスの取り扱いを受けることが何よりも大切だということを気付かせて下さいましたからありがとうございます。

 ペトロは自分の内に絡み付いていた古い罪の性質をまず悔い改めましたから、あなたはペトロを豊かに用いてくださいました。エルサレムに集められた人々全てもまた、主のみ前に砕かれましたから、あなたはこの集団を聖霊の宮として大いに用い、宣教を実り多いものにしてくださいました。

 わたしたち仙川キリスト教会キリスト教会も、その誕生から44年の節目を迎えましたが、新たに伝道と教会形成に立とうとする今、まずわたしたちの思いと言葉と振る舞いを清め、砕いてください。

 わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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