【主日礼拝メッセ−ジ要約】 アドベント第2週                                2006年12月10日   
静まって聴く
  使徒言行録15章12-21節
高橋淑郎牧師

 

 大半のユダヤ人は、聖書はユダヤ人のためにあるのであって、異邦人(ユダヤ人以外の国籍の人)には縁のないもの、すなわち、天国への道を歩くことが許されているのはユダヤ人以外に考えられないと思い込んでいました。しかし、この箇所に紹介されている4人の人は同じユダヤ人ですが、イエス・キリストを信じる人に変えられてからは心の目が開かれて、聖書は一部の国の人だけに与えられたものではなく、全ての人に与えられたもの、神の愛は一部の人にではなく、全ての人に注がれているのだということを認めることができました。一方異邦人の側でも、聖書に書かれているこの教えはユダヤ人に与えられたもので、自分たちには関係ないという受け取り方をすることもおかしいのです。

 12節に、「全会衆は静かになり」とあります。わたしたちは人と話しをするとき、こちらの言いたいことだけをぶつけて相手の話に聞く耳を持たないとすれば、決して良い人間関係を築くことはできません。今、この会議の席に呼び集められた人々も、最初は議論百出、にぎやかな声で会議場は溢れていたでしょう。しかし、いつの時から静まって人の言葉に耳を傾けるようになると、一つ一つなるほどと頷けることばかりです。ましてや、ここで話されていることは神の御言葉であり、御業です。神に聴くということがどういうことかを彼らはこの時学ぶことができました。

 皆さんは今日ここへ何をしにこられましたか。もちろん礼拝をささげるためにです。礼拝とは、自分の先入観、自分の人生経験、知識など一切から解放されていなければなりません。ヘブル語には素晴しい言葉があります。「聴く」(シェマ)という言葉です。シェマにはもう一つ、「従う」という意味があります。聖書朗読者は最初に、「シェマ!」と呼びかけます。「聴け!」(従え!)であります。あなたがたの礼拝も、まず、「わたしは聴きます。主よ、お語りください」という祈りの姿勢が大事なのです。

 

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  【主日礼拝メッセ−ジ】 アドベント第2週                                2006年12月10日   

静まって聴く
  使徒言行録15章12-21節
高橋淑郎牧師

 

 今日初めて聖書を手にしたという方々のために、少し聖書というものを説明しておきましょう。ひとことで聖書と言いますが、実は大きく分けて旧約聖書と新約聖書の二つに分類することができます。「旧い約束の聖書」と「新しい約束の聖書」ということになります。旧い約束とは、神に造られたこの世界中で、ただ人間だけが罪を犯しました。このままでは人類は一人残らず地獄に落とされなければなりません。しかし、神は罪を犯した者でも救い、天国への道を閉ざさないという約束を与えてくださいました。そしてそのことを世界中の人たちにも教えるようにと選ばれたのがユダヤ人でした。彼らは天地創造の主である神を礼拝するための手引書としての、5冊の「律法の書」、12冊に上る「イスラエル興亡史」の記録書、人生の謎解きと幸福への道を教える5冊の「詩歌」集、神に立ち返る道を教える17冊の「預言書」の合計39冊の旧約聖書をもって、神の救いの約束を著しました。旧約聖書に書かれている内容を大雑把に言うなら、神は愛の方ですから、ユダヤ人をはじめ、世界中の人々を救うために、神が独り子を人間の姿でこの世に送るというものです。救い主をこの世に与えるという約束が書かれているのがこの旧約聖書なのです。

 次に新しい約束の書、新約聖書にはどのような約束が記録されているかというと、神は確かに旧約聖書に約束していた通り、救い主を与えてくださいました。このお方こそイエス・キリストです。しかし、人間はどこまでも神に逆らう者で、その時代の人々は、神の独り子イエス・キリストを、何一つ罪を犯しておられないイエスを犯罪者にでっち上げて、この方を十字架につけて殺してしまいました。これでは人を救うという約束は果たされないままで世界は終わってしまうのでしょうか。いいえ、十字架につけられて死んで葬られたはずのイエス・キリストは三日目に、墓から甦って、40日もの間、弟子たち500人以上もの人々に復活のからだをお見せになり、そして天に上げられました。実は天に引き上げられる前にイエス・キリストは二つの約束を与えて下さいました。一つは、イエス・キリストを救い主と信じる人が生涯その信仰を全うできるように助け主である聖霊を送るということ、もう一つは世の終わりの日、生きている者と死んだ者を裁くために、もう一度この世界においでになるという約束です。イエス・キリストが与えてくださった最初の約束はすぐに果たされました。イエス・キリストが天に引き上げられて10日後、聖霊は弟子たちの上に下り、一人びとりを清めてくださいました。こうしてこの地上にキリストの教会が生まれました。そして弟子たちの中で幾人かの人々が伝道の傍ら、「福音書」と呼ばれる4冊のイエス・キリストの物語、「使徒言行録」と呼ばれる教会誕生物語、教会を力づけるために書かれた21通の「手紙」集、そしてイエス・キリストが約束された二つ目の約束は必ず実現するという「ヨハネの黙示録」と呼ばれる預言書の、合計27冊を書き残してくれました。それが新約聖書です。

 さて今日は、使徒言行録15章12−22節を読んでいます。ここには何が書かれているのかと言いますと、イエスの救いがユダヤ人の枠を超えて世界中に及ぶのだということがはっきりした出来事の記録です。

 13節に登場するヤコブは、この時エルサレム教会の牧師として働いていましたが、今はまた議長としてこの会議の進行役を担っています。彼は議場の発言が一段落したのを見届けて、口を開きます。

 「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。預言者たちの言ったことも、これと一致しています。」と。続いて16−18節でヤコブが引用した預言書というのは、アモス9:11−12(旧約聖書p.1441)という箇所です。興味があればその箇所を開いて読み比べてみてください。

 要はヤコブが言いたいのは、7−11節で教えてくれたシメオン(ペトロのことです)の言葉は、「旧約聖書にもちゃんと裏づけられていますよ」ということです。異邦人とは、ユダヤ人から見てそれ以外の国籍の人全てを言います。大半のユダヤ人は、聖書はユダヤ人のためにあるのであって、異邦人には縁のないもの、すなわち、天国への道を歩くことが許されているのはユダヤ人以外に考えられないと思い込んでいました。しかし、パウロもバルナバもシメオン(ペトロ)もヤコブも、この箇所に紹介されている4人の人は同じユダヤ人ですが、イエス・キリストを信じる人に変えられてからは心の目が開かれて、聖書は一部の国の人だけに与えられたものではなく、全ての人に与えられたもの、神の愛は一部の人にではなく、全ての人に注がれているのだということを認めることができました。一方異邦人の側でも、聖書に書かれているこの教えはユダヤ人に与えられたもので、自分たちには関係ないという受け取り方をすることもおかしいのです。だから、ヤコブは万人が心得るべきこととして、旧約聖書の戒めのエキスとも言うべき、「偶像に供えて汚れた肉、みだらな行い、刃物で血を流さないで絞め殺した動物の肉とその血を避けるように。」という最低条件を守れば、それで良いというのです。偶像に供えたものであっても食べ物に違いないので食べても別に毒ではないのですが、もしクリスチャンがそれを食べているのをまだイエス・キリストを信じるに至っていない人が見た場合、いらざる誤解を与える元になります。また刃物を当てずに絞め殺した動物の血はその動物の体内に欝血してしまうので、その肉を食べる人によっては食中毒を起こすこともあり得ます。それを防ぐために、ユダヤ人は戒めとして禁じたわけです。この戒めを守ることは結局異邦人にとっても有益なのです。みだらな行いについては言うを待ちません。

 12節に、「全会衆は静かになり」とあります。わたしたちは人と話しをするとき、こちらの言いたいことだけをぶつけて相手の話に聞く耳を持たないとすれば、決して良い人間関係を築くことはできません。今、この会議の席に呼び集められた人々も、最初は議論百出、飛び交うにぎやかな声で会議場は溢れていたでしょう。しかし、いつのときから静まって人の言葉に耳を傾けるようになると、一つ一つなるほどと頷けることばかりです。ましてや、ここで話されていることは神の御言葉であり、御業です。神に聴くということがどういうことかを彼らはこの時学ぶことができました。

 皆さん、皆さんは今日ここへ何をしにこられましたか。もちろん礼拝をささげるためにです。礼拝とは、自分の先入観、自分の人生経験、知識など一切から解放されていなければなりません。自分の聴きたいことだけを聴くのではなく、神からのメッセージの一切を受け入れる姿勢が求められます。ユダヤ人が語るヘブル語には素晴しい言葉があります。「聴く」(シェマ)という言葉です。シェマにはもう一つ、「従う」という意味があります。聖書朗読者、またメッセージを取り次ぐ者は、最初に「シェマ!」と呼びかけます。「聴け!」(従え!)であります。あなたがたの礼拝も、まず、「わたしは聴きます。主よ、お語りください」という祈りの姿勢が大事なのです。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 今朝、わたしたちは聖書にはどのようなことが書かれているのか、それはわたしたちとどのようなかかわりがあるのかということを学ぶことができました。ヤコブは言います。聖書は万民に与えられた神からの愛のメッセージであるということを。そして、あのエルサレム会議に集められた人たち、また伝統的なユダヤ人の礼拝姿勢から、わたしたちは多くの言葉を発するのではなく、とりわけあなたの前にあっては静まってあなたに聴き、語られる御言葉を通して、あなたこそ生ける真の神であると知ることこそ最も大切であることを知りました。

 どうか、わたしたちの口を聖別し、耳を聖別してください。

 わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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