【クリスマス主日礼拝メッセ−ジ要約】                               2006年12月24日   

 

「 大きな喜び 」 

 ルカによる福音書2章8−20節

高橋淑郎牧師

 聖書を見てください。主の天使から御子のご降誕を告げ知らされた羊飼いたちは貧しい雇われの身分でした。社会的にも卑しい身分の者として事実上ユダヤ社会から締め出されていました。しかし、神は彼らを見捨ててはおられなかったのです。神は世界で最初のクリスマスを一番先に、彼らに祝わせてくださいました。天使は、イエス・キリストの降誕は民全体に与えられる大きな喜びだと言いました。この貧しい羊飼いにも喜びがもたらされました。しかし、彼らは神の御子を拝みに行った後も、見るところ、状況は以前と何も変わりません。天使はどうしてクリスマスは万人に与えられる喜びのしるしだと言ったのでしょうか。羊飼いたちは確かに喜びました。彼らが受けた喜びは外観の喜びではありません。静かに内側に燃える喜びがいつまでも彼らを離れませんでした。それは、神は自分たちを見ていて下さる。神はイエス・キリストを通してわたしたちの心の内にいつまでも宿っていてくださる。そういう喜びだったのです。このような喜びに満たされて彼らは、「神を崇め、讃美しながら生活の場に戻って行った」のです。

 あなたも、今日までかなり厳しい悲しみの中に置かれていた一人かもしれません。しかし、今日クリスマスの礼拝をささげたあなたは、以前のままのあなたではないはずです。わたしたちの生活が心の平安を失っていたのは、わたしたちが神と、その言葉とに目を留めず、人間と、その業に目を奪われていたからです。神がおられることと、神がその独り子イエス・キリストを与えて下さったことを信じる信仰によって、まことの喜びと平安に満たされるのです。

 

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 【クリスマス主日礼拝メッセ−ジ】                               2006年12月24日   

 

「 大きな喜び 」 

 ルカによる福音書2章8−20節

高橋淑郎牧師

クリスマスおめでとうございます。

 今日という日は世界中の教会でクリスマスが祝われています。そしてそれらの教会でもきっとこの聖書の箇所が読まれていることでしょう。しかし、どれくらいの国の人がこのクリスマス物語をアーメン、真実です。ハレルヤ!主はあがめられよ!という思いで読むことができるでしょうか。皆さんの中にも、どれくらいの人が、今日このクリスマスを喜びのうちに迎えることができているでしょうか。

 ドイツのマルチン・ニーメラーという牧師はナチスの政権に反対したためにダハウの強制収容所に投獄されましたが、そこで囚人たちと共に礼拝をささげ、同じ聖書箇所からクリスマス メッセージを取り次ぎました。1944年のこの日です。彼はそのメッセージの冒頭次のように語りだしました。「囚われの身で降誕祭を祝わなければならないというのは、当然のことながら、かなり厳しい悲しみであります。しかも、よくそう言いますように−「今度も無事に切り抜けて」祭りの日々を迎えたときこそ、まさしく満ち足りた思いになれるというのが普通であります。」と。

 アウシュビッツやダハウの強制収容所ほどではないにしても、この国でも、「かなり厳しい悲しみ」の中でクリスマスを祝う人が少なからずおられることでしょう。定年後、穏やかな年金暮らしを夢見て懸命に働いてきた人が、やっと今その年齢に達してみると、受け取る年金額は大幅に減額され、その上介護保険料や国民健康保険料、税金が軒並みに上がり、物価も高騰する、完全に息の根を止められそうです。働き盛りの人々も「かなり厳しい悲しみの中」にあります。ワーキング プアといういやな言葉が流行語になりつつあります。「働けど働けど、わが暮らし楽にならず。じっと手を見る」と歌った石川啄木さんの世界が、中高年に襲いかかってきています。「障害者自立支援法」という法律が障害者の自立を妨げ、彼らは悲鳴を上げています。国家国旗法が成立し、教育基本法が改定され、そのほか個人情報保護法や憲法改訂の動きと共に、国民の足元から自由が奪われ、じわじわと民主主義の危機が訪れつつあります。テロを防ぐという名目で、港湾や空港だけでなく、街のあちらこちらに監視カメラが行き渡り、わたしたちの生活を事細かに見張っています。こうした状況の中でクリスマスを祝うことに何の意味があるのかといぶかる人がいるとしても不思議ではありません。しかし、それでもわたしたちはクリスマスを祝うのです。今、ここにこそ喜びを見出すことができるのです。ニーメラー牧師のメッセージは次のように締めくくられています。

 「私どもは、こころの平安を失って痛みを覚えることまことにしばしばであります。私どもが神と、その言葉とに目を留めず、人間と、その業に目を奪われるからであります。−そのような私どもであるからこそ、降誕の福音がもたらす知らせに、特にこころを開くことができるはずではありませんか。恐れを知る私ども−生きる恐れも、またそれと同じように死の恐れも知る私ども−にとって、大きな喜びを告げる言葉は、特に深く関わるはずではありませんか。−それ故に、この聖なる降誕祭前夜に、主イエスに祈り願いたいと思います。この神を知らない世に、世を救うためにこそ、幼子として来てくださったこの方が、私どものところにも立ち寄ってくださり、私どもにその救いをもたらし、その喜びを与えてくださるようにと!アーメン。」(「光の降誕祭−20世紀のクリスマス名説教集−」 p.162)

 今朝、わたしたちは同じ神を崇めているのです。同じ神さまがその独り子をこの私たちの生活の場にも惜しみなく与えてくださったのです。もう一度今日の聖書に目を向けてください。主の天使から御子のご降誕を告げ知らされた羊飼いたちは貧しい雇われの身分でした。自分の羊を持たず、主人から何匹かの羊を預かり、その面倒を見ながらいくばくかの収入を得て家族を養っていました。彼らは社会的にも卑しい身分の者として事実上ユダヤ社会から締め出されていました。しかし、神は彼らを見捨ててはおられなかったのです。神は世界で最初のクリスマスを一番先に、彼らに祝わせてくださいました。天使は、イエス・キリストの降誕は民全体に与えられる大きな喜びだと言いました。この貧しい羊飼い、差別されていた羊飼いにも喜びがもたらされました。しかし、聖書を良く見てください。羊飼いは神の御子を拝みに行きましたが、だからといって見るところ、彼らの状況は以前と何も変わっていません。では、天使はどうしてクリスマスは彼らを含めて、万人に与えられる喜びのしるしだと言ったのでしょうか。一人でも多くの人がクリスマスに来るようにという、無責任な口から出任せの宣伝文句だったのでしょうか。いいえ、羊飼いたちは確かに喜びました。喜んだからこそ、わざわざ仕事場と反対方向の街まで出かけて人々に知らせました。彼らが受けた喜びは外観の喜びではありません。静かに内側に燃える喜びがいつまでも彼らを離れませんでした。その喜びとは、神はわたしたちを見ていてくださる。神はイエス・キリストを通してわたしたちの心のうちにいつまでも宿っていてくださる。わたしたちがいつ死んでも神の御許に行けるように、全ての罪を赦し、清めて下さる救い主だと信じることができた、そういう喜びだったのです。このような喜びに満たされて彼らは、「神を崇め、讃美しながら生活の場に戻って行った」のです。

 あなたも、今日までかなり厳しい悲しみの中に置かれていた一人かもしれません。しかし、今日クリスマスの礼拝をささげたあなたは、以前のままのあなたではないはずです。ニ−メラー牧師の言葉を借りて言うなら、

 わたしたちの生活がしばしば心の平安を失って痛みを覚えたのは、わたしたちが神と、その言葉とに目を留めず、人間と、その業に目を奪われていたからです。クリスマスは、わたしたちの目を見える世界に釘付けにすることから、神と、その言葉に目覚めさせてくれる日なのです。神がおられることと、神がその独り子イエス・キリストを与えて下さったことを信じる信仰によって、まことの喜びと平安に満たされるのです。 祈りましょう。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 あなたは今朝、わたしたちをベツレヘムのイエス・キリストの御許に導いて下さいました。それは、日常の事柄に心奪われて、あなたと、あなたの言葉に目を留めることのなかった罪深いわたしたちの心に真理の光を与え、罪を赦し、清める救い主であることを知らせるためでした。わたしたちは信じます。生きている時も、死んだ後もわたしたちに伴って下さるお方だということを。それ故にわたしたちは今、大いなる喜びに満たされています。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


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