【主日礼拝メッセ−ジ要約】                               2006年12月31日   

 

福音による解放」 

 使徒言行録15章22−35節

高橋淑郎牧師

 

 エルサレム教会は、「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。」との手紙を異邦人教会に届けました。もちろん聖霊と教会が同格というわけではなく、聖霊の導きに従い決議したのです。この手紙を読み、またユダとシラスの報告を聞いた異邦人信者たちは喜びました。これこそ幸福の音信(おとずれ=福音)です。讃美歌200番の「もろびとこぞりて」2節に、「悪魔の力を、うちくだきて 捕虜(とりこ)を放つと 主は来ませり・・・」と歌われていますが、異邦人キリスト者たちの思いも同じではなかったでしょうか。彼らはエルサレムの兄弟姉妹が自分たちのことを心にかけて会議を開き、また祈り、聖霊の導きのままに信仰を共有してくれたという喜びに満たされたのです。母教会のエルサレムと異邦人諸教会の結びつきが一層強くされた証でもあるのです。

 万事解決かと思われたら、話しの続きがあります。「ユダとシラスは預言する者でもあったので、・・・兄弟たちを励まし力づけ、しばらくここに滞在した」ということです。傷ついた異邦人教会に後遺症があってはなりません。霊的に癒される必要があります。再び偽キリスト者や偽預言者が教会をかき回さないとも限りません。しかし、誰が何を言ってきても、しっかりとキリストを礎とした教会形成ができておれば、二度と混乱することはないでしょう。

 今日(こんにち)わたしたちの教会でも同じです。教会は誰にでも門が開かれていなければなりません。しかし、その隙をうかがって悪魔も忍び込んできます。わたしたちは霊的に研ぎ澄まされた信仰に立ち、福音によって心が解放されていなければなりません。悪魔の誘惑に耳を貸さない為に自分の聖書を持ち、通読をし、書き込みをしてメッセージに耳を傾けて頂きたいのです。聖書に「(ユダヤ人たちは)非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日聖書を調べていた」(使徒言行録17:11)とあります。まずメッセージを熱心に聴き、そのメッセージが果たして御言葉に裏打ちされているのか、聖書をもって調べて頂きたいのです。昔から言われています。「聖書は聖書をもって学べ。」と。

 

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 【主日礼拝メッセ−ジ】                                2006年12月31日   

 

福音による解放」 

 使徒言行録15章22−35節

高橋淑郎牧師

 

 2006年は今日一日をもって終わろうとしています。この一年もいろいろなことがありましたが、皆さんにとってどういう年だったでしょうか。わたしはと言えば毎年この時期になると、「今日まで守られ来りしわが身  露だに憂えじ行く末などは いかなる折にも 愛なる神は 全てのことをば 善きにし給わん」という聖歌(292番)の一節が思い出されます。お互いに楽しい思い出、いやな思い出、心浮き立つあの出来事、胸締め付けられるこの出来事、いろいろあったでしょうが、この聖歌のように、全てのことを善きにして下さる愛の神に委ねて、新しい年へと歩み出して行きたいものです。

 

 私たちは2005年4月17日の主日礼拝から「使徒言行録」を読み始めました。毎週読み続けたら、今頃読み終わっていると思いますが、一年の間、教会カレンダーや特別の教会スケジュールに従って、その都度示された聖書からメッセージを聴いて参りましたので、使徒言行録はようやく半分を過ぎたところです。

 この機会を借りてメッセージに入る前に、皆さんに改めてお願いがあります。毎週ここに来てその日の箇所を読むだけでは不十分です。前後の脈絡が分からないからです。この使徒言行録という聖書は僅か28章です。内容は豊かですが、膨大な長さというほどではありません。ですから、予め通読しておいて下さい。聖歌隊と奏楽奉仕者には特にこのことをお勧めしておきます。そうすることによって「讃美によるメッセージ」が、より深く聴く者の心に入って行くからです。

 もう一つ皆さんにお願いしたいことは、毎週ここに来るまでに週報4頁にプリントされている、「次主日礼拝メッセージと奉仕者」という欄に案内されている「聖書」箇所に目を通して置いてください。そうすれば神からのメッセージが他人事(ひとごと)でなく、あなたの心により豊かになることでしょう。まだ教会に来て日の浅い方々も、ベンチに用意されている聖書を利用するだけでなく、是非御自分で聖書を買い求めて読む週間を身につけ、またご高齢の方、お体のご不自由な方は別として、礼拝ごとに御自分の聖書を持ってくる週間を身につけて頂きたいのです。神の祝福を受ける礼拝となるために。

 

 前置きが長くなりましたが、今日も示された聖書に聴くことにしましょう。聖霊は弟子たちの上に降って彼らの内に宿り、御霊なるキリストとして福音を宣べ伝える器として弟子たちを用いて下さいました。彼らは聖霊によって力を受け、イエスこそ主、キリスト、真の神であり、救い主であると証して各地に教会を立ち上げ、福音はエルサレム、ユダヤ、サマリアの国境を越えて異邦の国にまで拡大して行きました。しかし、救いの約束はユダヤ人に限られるという保守的なヘブライズムから抜け出せない一部のクリスチャンたちは、異邦人をそのまま教会に受け入れることに難色を示し、彼らにも割礼を受けさせてユダヤ人として帰化させなければならないと説を曲げません。そのためエルサレムにある母教会と異邦人伝道の窓口になったシリアのアンティオキア教会の代表者たちは母教会に集まり、この問題について協議を重ねた結果、一つの結論に導かれました。それを文書にして異邦人教会に持ち運ぶ人々が選ばれた経緯(いきさつ)について述べているのが今日の箇所です。

 会議のメンバーは決議を文書にしてこれをアンティオキアをはじめ、異邦人の諸教会に伝えるために、パウロやバルナバと一緒に教会の指導者たちの内からバルサバ(安息日の子?)と呼ばれるユダとシラス(アラム語「セイィラァ」のギリシャ語訳。ラテン名は「シルワノ」=コリント1:19)を選んで同行させることにしました。彼らは会議の決定事項を諸教会に口頭で報告することになっていますが、同時に決議の内容をきちんと文書にして持たせるという念の入れようです。その文書についてはわたしたちにも良く分かるように、使徒言行録の著者は全文を紹介してくれています。

 手紙は挨拶に引き続き、「聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。」と、今回の問題の所在を明らかにします。この「騒がせ、動揺させている」をそのまま直訳的にいうと、魂を混乱させ、破壊しようとしているという意味になります。勝手な聖書解釈に立って、キリストの十字架の意味をぼかしてしまうことは、教会の業ではありません。これこそ、かつて主イエスが警告しておられたことでした。それは次の通りです。すなわち、「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。」(マタイ23:15)と言われました。せっかくイエス・キリストの救いに与ることができた異邦人を再び地獄の子に舞い戻らせては大変です。それで「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。」というのです。もちろん聖霊と教会が同格と言うわけではなく、聖霊の導きによって決議したという意味です。

 この手紙を読み、またユダとシラスの報告を聞いた異邦人信者たちは一様に喜びました。これこそ福音です。幸福の音信(おとずれ)です。クリスマスを歌った讃美歌200番に、「もろびとこぞりて」という曲があります。その2節に、「悪魔の力を、うちくだきて 捕虜(とりこ)を放つと 主は来ませり・・・」と、喜びに溢れて歌われていますが、異邦人キリスト者たちの思いも同じではなかったでしょうか。彼らは今、遠いエルサレムの兄弟姉妹が、自分たちのことを心にかけて会議を開き、また祈り、聖霊の導きのままに一つの大切な決意をしてくれたという喜びに満たされたのです。この決定事項は母教会のエルサレムと異邦人諸教会の結びつきが一層強くされた証でもあるのです。

 万事解決かと思われたら、話しの続きがあります。「ユダとシラスは預言する者でもあったので、・・・兄弟たちを励まし力づけ、しばらくここに滞在した」ということです。ひと時とは言え傷ついた異邦人の教会に後遺症があってはなりません。霊的に癒される必要があります。今後再び誤ったユダヤ主義を克服できない偽キリスト者や偽預言者が教会をかき回さないとも限りません。しかし、誰が何を言ってきても、しっかりとキリストを礎とした教会形成ができておれば、二度と混乱させられることはないでしょう。ユダとシラスが派遣されたのはそのためだったのです。

 今日(こんにち)わたしたちの教会でも同じことが言えます。教会は誰にでも門が開かれていなければなりません。しかし、その隙をうかがって悪魔も忍び込んできますから、わたしたちは霊的に研ぎ澄まされた信仰に立ち、福音によって心が解放されていなければなりません。初めに申し上げましたとおり、悪魔のささやきに耳を貸さないために、どうか自分の聖書を持ち、通読をし、書き込みをしてメッセージに耳を傾けて頂きたいのです。敬虔な信徒たちは、「非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日聖書を調べていた」(使徒言行録17:11)ということです。まず聖書から語られる御言葉の解き明かしを熱心に聴くことと、同時にそのメッセージが果たして御言葉に裏打ちされたものかどうかを聖書をもって調べて頂きたいのです。昔から言われています。「聖書は聖書をもって学べ。」と。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

世はますます暗く、混迷を深めていますが、この年もあなたの支えの御手の内にあって、52回の主日礼拝へとわたしたちをお導きくださったことを、心から感謝します。

2千年前、心頑ななユダヤ人クリスチャンのために、ひと時異邦人の教会とエルサレムの教会の間に溝が生じかけましたが、御霊なるキリストはその十字架の恵み、福音の光によって、再び一つに結び合わされました。

天のお父さま、あなたは罪を悔改めてイエス・キリストを信じ、父お子と聖霊のみなによるバプテスマに与ることのほかに、わたしたちに何の条件も与える方でないことを今ひとたび確信できましたから、あなたの御名を崇めます。

これから後も、わたしたちが、まずあなたの尊い御言葉である聖書に聴き、聖書からあなたの深い御心を学ぶ者としてください。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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