【元旦礼拝メッセージ要約】                               2007年1月1日   

 

幕屋を建てよ」 

 出エジプト記 40章1−2節

高橋淑郎牧師

 

 明けましておめでとうございます。今年も皆さまの上に神の祝福が豊かでありますよう祈ります。

 「友とするのに、不適当なものが七つある。 一つには身分の高い人、二つには若い人、 三つには無病で身体の強い人、 四つには酒好きの人、 五つには勇気にはやる武士、 六つには嘘をつく人、 七つには欲の深い人。

友としていいのには三つある。一つには物をくれる人、二つには医者、三つには知恵のある友。」(吉田兼好著「徒然草 第117段」より)

 友とするのに不適当な者の一人に若い人を数えたのはどういう意味か、兼好さんに直接聞きたいところです。もう一つ無病で身体の強い人も友として相応しくないというのは、彼自身病弱な人であったことを思うと、何となく理解できるように思えます。体の丈夫な人は弱い人を思いやるゆとりがないからという理由からでしょうか。人によって、それはひがみ根性の表れと読むかもしれません。しかし、わたしたちが友と呼ぶ人を選ぶにあたって、これを聖書に照らしてみると、主イエスが言われたことと一致します。主は次のように言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである。」(マタイ9:12−13)と。

 教会の使命は身も心も病んでいる人を良き友と呼び、霊的に落ち込んでいる人を尋ね求めて招くために、主はこの世に来てくださったと宣べ伝えることなのです。

「第一の月の一日に幕屋、つまり臨在の幕屋を建てなさい。」と主は言われます。今年も手を取り合い、補い合って教会形成の業に励んでまいりましょう。

 

福音メッセージ一覧へ戻る


【元旦礼拝メッセージ】                               2007年1月1日   

 

幕屋を建てよ」 

 出エジプト記 40章1−2節

高橋淑郎牧師

 

明けましておめでとうございます。今年も皆さまの上に主の祝福が豊かでありますよう祈ります。

 

 ユダヤで新年を祝う月は一年の間に二度あります。ユダヤ暦で言うティシュレイの月(太陽暦11−12月)をローシュ・ハシャナと呼びます。ローシュとは「頭」、ハは定冠詞で、シャナとは「年」のことで、すなわち「年頭」のことです。この日、人々はお互いに日本で言う年賀状のようなものを交わし、「シャナ・トバ(よいお年を)」と年頭の挨拶をします。

 しかし、今日、皆さんと共に分かち合う新年のための御言葉は、ユダヤ暦ニサンの月(同3−4月)のことです(出エジプト記12:2)。この月は別名、「春」を意味する「アビブ」の月とも呼びます。ユダヤ人にとって特に重要で、起源をさかのぼると、モーセを通して定められた「過越の祭」(ペサハ)に由来します。このニサンの月について、主はモーセとアロンに、「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。」(出エジプト記12:2)とお命じになりました。しかも、このニサンの月というお正月はゆっくり骨休めなどしてはいられません。元日から仕事を命ぜられています。それが先ほど読んで頂いた出エジプト記40章1−2節です。口語訳聖書で読むと、「正月の元日にあなたは会見の天幕なる幕屋を建てなければならない。」とあります。各自の住まいのための幕屋よりも先に、主なる神の幕屋、神が臨在される幕屋を作ることから一年を始めなさいと、主は言われます。

 臨在の幕屋を建て上げるとは、人々が主なる神に出会う場を整える仕事に励みなさいということです。すなわち教会を形成することなのです。このことについて、使徒パウロは次のように言っています。

 「『昇った』というのですから、低いところ、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りてこられた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を作り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4:9−16)と。

 またパウロはこの仕事は一人でできることでないことをよく知っていましたから、続いてこうも言っています。

 「こうして、わたしたちは未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:14−16)と。

 

 最近書棚を整理していましたら、「徒然草」(角川文庫版。吉田兼好著〈1283−1350〉)を見つけました。懐かしさもあって、ぱらぱらと頁を繰っている内にもう一度読みたくなり、聖書と共に通読しています。今もよく見受ける人間模様が紹介されていて面白いです。その中の一つ、「友とするにわろき者」(第117段)という箇所にこう書かれています。

 「友とするのに、不適当なものが七つある。 一つには身分の高い人、二つには若い人、 三つには無病で身体の強い人、 四つには酒好きの人、 五つには勇気にはやる武士、 六つには嘘をつく人、 七つには欲の深い人。 友としていいのには三つある。一つには物をくれる人、二つには医者、三つには知恵のある友。」

 友とするのに不適当な者の一人に「若い人」を数えたのはどういう意味か、兼好さんに直接聞きたいところです。もう一つ「無病で身体の強い人」も友として相応しくないというのは、その反対に友として相応しい一人に、「くすし」つまり「医者」を上げていることと合わせ考えると、彼自身病弱な人であったことから、何となく理解できるように思えます。体の丈夫な人は弱い人を思いやるゆとりがないからというのがその理由でしょうか。人によってはひがみ根性の表れと読むかもしれません。しかしわたしたちが友と呼ぶ人を選ぶにあたって、これを聖書に照らしてみると、主イエスが言われたことと一致します。主は次のように言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである。」(マタイ9:12−13)と。

 教会の使命は身も心も病んでいる人を良き友と呼び、霊的に落ち込んでいる人を尋ね求めて招くために、主はこの世に来てくださったのであると宣べ伝えることなのです。

 「第一の月の一日に幕屋、つまり臨在の幕屋を建てなさい。」と主は言われます。今年も手を取り合い、補い合って教会形成の業に励んでまいりましょう。 祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神の御名を心から崇めます。

新しい年、あなたはまずわたしたちを友と呼び、礼拝へと招いてくださいました。そして、わたしたちに幕屋を建てよとお命じになります。それは、かつて主がそうして下さったように、わたしたちも友と呼ぶべき人を捜し求めて臨在の幕屋に導くためでした。

2007年度が間近に迫っています。かつての「過越祭」をイースターとして、復活の主イエスが永遠の命の道を、わたしたちも跡づける者とならせて下さい。「臨在の幕屋」造り、キリストの教会形成に一人でも多くの友が参加できるように、福音を宣べ伝える者とならせてください。

私たちの主イエス・キリストの御名によって。 アーメン。


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む