【新年主日礼拝メッセージ要約】                               2007年1月7日   

 

主の恵みに委ねて 」 

  使徒言行録15章36−41節

高橋淑郎牧師

 

 パウロはバルナバに、第一回伝道旅行で生まれた小アジア諸教会の様子を見て回りましょう、と提案しました。この提案はバルナバの賛成するところとなり、いざ出発のための準備に取りかかったとき、この二人の偉大な指導者の間に思いもかけない意見の衝突を見ることになりました。

  バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを「連れて行きたい」と言い、パウロは、前に中途で脱落したような者は連れて行きたくないと、お互いに譲りません。双方どちらにも一理あります。パウロにしてみれば、伝道は命がけの仕事だというのです。現にリストラの町ではキリスト教に反対するユダヤ人に扇動された群衆が、パウロめがけて石を投げつけ、そのため一時気を失うほどの目に遭いました(14:19−20)。

これに対して、バルナバも伝道がいかに危険で、一命を掛けずにできるものでないことは経験上、よく分かっています。だからこそもう一度マルコにチャンスを上げたいのです。マルコが先の伝道旅行の途中で身を引いてしまったのには、それなりの理由があったことをよく理解していたからかもしれませんし、或いは本当に意思が弱かったからであったにせよ、このまま見限ることはできなかったのです。こうして彼らはかなり激しい意見のやり取りの末、双方別々のパートナーを選びました。コースもバルナバは海路を選び、パウロは陸路を選んで出発しました。しかし、双方共にお互いのやり方を否定しませんでした。彼らは喧嘩別れをしたわけではないのです。また、聖書をそのまま読むと、教会が「主の恵みに委ねて」送り出したのは、パウロとシラスだけで、バルナバとマルコは自分勝手に出発したように見えますが、よく読み直すと、そんな片手落ちの祈り方をしてはいません。教会は公平に彼ら4人を祈りのうちに、「主の恵みに委ねて」送り出しています。更に、彼らは決して反目したまま一致を乱すようなことにはなっていません。

 主の御心はどこにあるのかという一点に向けられていた彼らに倣って、今日、教会の目指す方向もまた、「主に栄光を」と讃美する者、世の人に「主の恵みと平和を」と証する者でありましょう。

 

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【新年主日礼拝メッセージ】                               2007年1月7日   

 

主の恵みに委ねて 」 

  使徒言行録15章36−41節

高橋淑郎牧師

 

 一部のユダヤ人キリスト者が、教会に受け入れる条件として異邦人に対して高いハードルを設けたために、大いに混乱し、また傷ついたアンティオキア教会をフォローする役割をユダとシラスが果たしました。

 事態の収拾がついた段階で、パウロはバルナバに、第一回伝道旅行で生まれた小アジア諸教会の様子を見て回りましょう、と提案しました。もしかしたら、例のユダヤ人クリスチャンがそれらの教会にも先回りしてかき乱しているかもしれないからです。この提案はバルナバの賛成するところとなり、いざ出発のための準備に取りかかったとき、この二人の偉大な指導者の間に思いもかけない意見の衝突を見ることになりました。

 バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを「連れて行きたい」と言い、パウロは、前に中途で脱落したような者は連れて行きたくないと、お互いに譲りません。双方どちらにも一理あります。パウロにしてみれば、伝道は命がけの仕事だというのです。現にリストラの町ではキリスト教に反対するユダヤ人に扇動された群衆が、パウロめがけて石を投げつけ、そのため一時気を失うほどの目に遭いました(14:19−20)。

 これに対して、バルナバも伝道がいかに危険を伴うものであるか、一命を掛けずにできるものでないことは経験上、よく分かっています。しかし、だからこそもう一度マルコにチャンスを上げたいのです。今度こそ一人前の伝道者として成長させたいのです。いわば敗者復活戦に出場させてやりたいのです。それは肉親(マルコはバルナバのいとこ。コロサイ4:10)の情愛以上に、周囲からバルナバ(「慰めの子」、本名はヨセフ。4:36)と呼ばれていたことから見て、マルコが第一回伝道旅行の途中で身を引いてしまったのには、それなりの理由があったことをよく理解していたからかもしれませんし、或いは本当に意思が弱かったからであったにせよ、このまま見限ることはできなかったのです。

 彼らはかなり激しい意見のやり取りの末、双方別々のパートナーを選んで出発しました。コースもバルナバは海路を選び、パウロは陸路を選んで出発しました。

 

 この場合わたしたち読者は、ともするとパウロを支持し、またバルナバの味方をしてみたくなりますが、どちらに利があるとか、非があるとか、拙速に判断することは難しいことですし、しない方がよいでしょう。伝道をする上で、時にはこのように激しい議論のやり取りも必要です。生半可な妥協はかえって伝道の妨げになるかもしれないからです。大事なことは、「それほど言うなら、あなたの好きにしなさい。わたしはもう伝道などしたくない」というようなことにならないことです。この点彼らは立派です。お互いの意見は意見として、しかし、お互いのやり方を否定しませんでした。彼らは喧嘩別れをしたわけではないのです。実際、パウロは後にマルコを受け入れたばかりでなく、信仰の成長を認めて喜び、その働きを高く評価しています(コロサイの信徒への手紙4:10)。

 また、この新共同訳聖書の書き方をそのまま読むと、教会が「主の恵みに委ねて」送り出したのは、パウロとシラスだけで、バルナバとマルコは自分勝手に出発したように見えますが、よく読み直すと、そんな片手落ちの祈り方をしてはいません。教会は公平に彼ら4人を祈りのうちに、「主の恵みに委ねて」送り出しています。

 41節においてパウロの動向しか読み取れないのは、著者ルカはそれ以後パウロの第二回伝道旅行中のどこかで出会い、キリストの救いに与りました。また、彼は医者(コロサイ4:14)でもありましたから、救われて後、パウロの主治医として同行するようになりました。つまり、ルカは41節以後パウロの行動は全て分かるのですが、バルナバのことはアンティオキア教会で別れたことまではわかるのですが、それ以後の消息は分からなかったのでしょう。だから、パウロの活動を中心に書くようになったのです。

 使徒言行録を読んでいると、初代教会は実に御霊に満たされていてアグレッシブです。エネルギーに満ち溢れています。ペトロとヨハネは最高法院の前で、大胆にも、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4:19−20)と発言して、祭司長をはじめ、議会のメンバーを驚かせました。そしてあのエルサレムの教会での激しい議論(15:6−7)もまた然り、ここアンティオキアの教会でもそうです。しかし、先ほども言いましたが、彼らは決して反目したまま一致を乱すようなことにはなっていません。教会の目指す方向はいつも主の御心はどこにあるのかという一点に向けられていなければならないことをしっかりと弁えていたからです。何よりも主イエス・キリストが歩まれた十字架の道をしっかりと見据えていたからです。

 わたしたち仙川キリスト教会は、21日に「1月総会」を開くことになっています。何のための総会でしょうか。伝道のためです。もしかしたら、そこでは福音のために、かなり激しい議論も必要にあるかもしれません。しかし、忘れてはなりません。わたしたちは自分の意見、自分のやり方を押し付けるための議論になってはいけません。詩編16:8の、「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。」とのみ言葉を心に繰り返し思い起こしながら、お互いを尊重し、「主の恵みに委ねて」受け入れ合いましょう。「主の恵みに委ねて」とは、その人を主にあって祝福することなのです。

使徒パウロは、礼拝をささげる態度として次のような勧告を与えています。

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようにしなさい。」(ローマ12:1−2)

 

祈りましょう。

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

新しい年の最初の主日礼拝にわたしたちをお招きくださり、ありがとうございます。

私たちは今朝、パウロとバルナバの伝道に対する取り組みを学びました。どちらが正しいとも間違っているとも言えるものではありません。むしろ、二人の後姿に主を愛する愛と情熱が満ち溢れていることを感じます。私たちも時にはパウロのような厳しさを求められる時があるでしょうし、バルナバのような忍耐を必要とすることがあるでしょう。いずれにしましても、どうかわたしたちが自分を見失ってしまい、相手を憎む心、否定してしまう弱さからお守りください。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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