【主日礼拝メッセージ要約】                               2007年2月18日   

主イエスを信じなさい 」 

  使徒言行録16章6-10節

高橋淑郎牧師

 

 「二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。』」と。そうです。わたしたちが救われる為に神に対してなすべきことは、主イエスを信じるだけでよいのです。この16:31は口語訳聖書と新改訳聖書、また文語訳聖書に従いますと、「二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』」というように、ギリシャ語本文に忠実に詳しく訳されています。

 ここでわたしたちが今日聴くべき神からのメッセージの中心は何かと言いますと、主イエスを信じるなら、あなただけではなく、あなたの家族も救われるということなのです。きっと皆さんは、「えーっ!そんな簡単なことで良いの?」と驚かれるでしょう。わたしたちが神に受け入れられる道としてはこの外に何もありません。実に簡単です。これまでの罪が赦されるために厳しい修行を積むとか、悔い改めていることの証拠として慈善事業に励むとか、一切のことは何も要求されていません。また、この看守のように、家族全員が同時にバプテスマに与りましたが、ある人は自分が救われてから随分年月を経て、家族がそれも少しずつ救われるというケースもあるでしょう。いずれにしてもひとりの人がイエス・キリストの救いに与り、バプテスマを受けることによって、いつの日か家族全員救われるチャンスとなるのです。先に救われた人が自分の家族、友人、知人の救いのために祈り続けて行けば、神はあなたの祈りに必ず答えて下さいます。

 今、あなたがしなければならないことは、あなた自身がまず自分の罪を認めることです。あの人がどうの、この人がどうのということは問題ではありません。今までは自分は悪くない、あの人が悪いとあなたは考えていたかもしれません。しかし、違うのです。本当はあなた自身がまず自分こそ神に裁かれなければならない罪の囚人であることを認めることです。そして「わたしは救われるために何をなすべきでしょうか。」と告白しましょう。あなたがイエスを主なる神、個人的な救い主と信じるなら、あなたも救われてバプテスマを受けることができるのです。

 

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 【主日礼拝メッセージ】                             2007年2月18日   

主イエスを信じなさい 」 

  使徒言行録16章6-10節

高橋淑郎牧師

 

 パウロとシラスは、主イエス・キリストの名によって一人の女奴隷を占いの霊から解放するという奉仕を成し遂げました。しかし、彼女の主人は、それによって収入の道が途絶えたことで逆恨みをし、当局に告発しました。町の高官は地元民の訴えを一方的に聞き入れて、よそ者のパウロたちには一言の弁明も許さず、何度も鞭打って、鎖につなぎ、足には足かせまではめて投獄してしまいました。全く理不尽もこの上ありません。

 やがて真夜中ごろ、彼らは静かに祈りをささげ、更に讃美の歌を神に献げ始めました。何度も鞭打たれたので、傷口からは血が滴り落ち、激しい痛みが彼らを襲ったでしょう。それなのに、こんな時でも彼らは祈りと讃美を忘れませんでした。いや、こんな時だからこそ祈り、また讃美の歌をうたい始めたのです。ここに唯一真の神を信じる者の真価を見ます。心はずむ時にささげる讃美の歌も、整えられた穏やかな環境の中で祈る祈りも、もちろん神は聞き届けて下さるでしょう。しかし、打たれた傷がじんじん痛む中で、しかも寒さに震えながら、それでも祈りと讃美の歌をささげる二人の心を神はどれほど喜ばれたことでしょう。他の囚人たちは、この敬虔な二人の姿を見ている内に、言葉に表しがたい畏敬の念に導かれたようです。うるさいとも言わず、むしろ聞き入っています。こんな状況の中でも祈る彼らの姿にただならならぬものを感じたのです。いったいこの人たちの信じている神とはどういう神なのだろうかと感じ入ったのではないでしょうか。いつしか彼らの心も神のみ前に開かれていったその時です。パウロたちのささげた祈りと讃美を喜んでくださった神、次第に心が開かれていく囚人たちを喜んでくださった神は大変なことをなさいました。突然大地震が起こったのです。地震というものはいつも突然です。突然激しい地震に見舞われると、人は二つの反応を示します。一つは直ちに飛び起きて家から飛び出すか、もう一つはじっとしているかです。12年前の1995年、震度7強の「阪神淡路大地震」を経験したわたしは、あの瞬間動こうにも動けませんでした。パウロをはじめ、囚人たちも同じだったのでしょうか。足かせも鎖も外れました。彼らは皆自由になりました。そのまま飛び出そうと思えばできました。逃げようと思えばできました。しかし誰一人その場を離れようとはしなかったのですから、実に不思議です。しかし、このような時ひとりだけ慌てふためいている人がいます。看守です。突然の地震で囚人たちはきっと逃げ出してしまったに違いないと思い込んだのです。彼はその瞬間自分の運命を悟りました。理由が何であれ、囚人を逃がしたとあれば、ただではすみません。職務怠慢ということで死罪は免れません。哀れ看守は一思いに自害してその責任をとろうとしました。しかし、獄舎の奥の方から、「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」という声が聞こえるではありませんか。看守は転がるようにして二人の前にひれ伏しました。そして二人を外に連れ出して言いました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」と。立場が逆転しました。つい先ほどまで、二人をただの囚人として扱っていましたが、今では自分が神に裁かれるべき罪の囚人と自覚したのです。恐らくこの時看守は二人を通して神からどのような無理難題を押し付けられても従う用意があったに違いありません。これこそが神への悔改めの言葉です。しかし、神の要求は意外なほどに優しいものでした。「二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。』」と。そうです。わたしたちが救われるために神に対してなすべきことは、主イエスを信じるだけでよいのです。

 ここでわたしたちが今日聴くべき神からのメッセージの中心は何かと言いますと、主イエスを信じるなら、あなただけではなく、あなたの家族も救われるということです。きっと皆さんは、「えーっ!そんな簡単なことで良いの?」と驚かれるでしょう。そうなのです。わたしたちが神に受け入れられる道としてはこの外に何もありません。実に簡単です。これまでの罪が赦されるためにもっと厳しい修行を積むとか、悔い改めていることの証拠として慈善事業に励むとか、一切のことは何も要求されていません。今風に言えば、ルカはこの福音書を詳しく記録するだけの原稿用紙の枚数を十分持ち合わせていなかったのでしょう。所々わたしたち読者が知りたいと思う出来事を省いています。恐らくこの時、パウロたちはどうしてイエス・キリストを信じるだけで救われるのか、もっと詳しく語り聞かせたに違いありません。

 この宇宙にある全てのものはヤハウェと呼ばれる神によって創造されました。ヤハウェとは、何ものにも依存しないで永遠から永遠まで生きておられる方という意味です。全ての者は造り主であるヤハウェの御心に忠実でした。しかし、一人だけ神に逆らい、できれば神の地位を得たいと願う者がいました。サタンと呼ばれる存在です。サタンとは、「神に敵対する者」という意味で、別名悪魔です。この悪魔は神が創造されたエバを誘惑して神が禁じた善悪を知る木の実に手を伸ばし、食べるように仕向けました。アダムもエバも完全な人間ではありませんでしたが、無垢でしたから、サタンの囁きに乗り、結果的に神の戒めに背く罪を犯してしまったのです。神に背いた人間は神が備えて下さったエデンの楽園から追放されてしまいました。そして子々孫々人間はあらゆる罪を重ねて、もはや神に立ち返る道さえ忘れてしまいました。このままではせっかく神が心込めて創造した人間を全て滅ぼすしかありません。自分で造ったものを自分の手で壊すということほど造り主にとってつらいことはありません。罪は絶対に赦すことはできない。しかし罪に堕ちた人間をどうにかして救いたい。こんな矛盾に満ちたことができるのでしょうか。しかし唯一絶対であり、ヤハウェなる神は全知全能です。神にできないことは何一つありません。

 神はまず人類の中からユダヤ人をイスラエル、すなわち神に聖別された者として選び出し、まず、御自分の御心を示すために聖書を与え、これをもって全ての人に神の愛と聖さ、義と憐れみを教え、聖書が約束している救い主を現実の世界に与えてくださいました。これこそ神の独り子イエス・キリストです。しかし、こともあろうに聖書を託されたユダヤ人はイスラエルとしての特権と責任ある地位を放棄して、神の独り子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまいました。人間というものはとことん罪を犯さないでいられないどうしようもない生き物です。しかし、何としたことでしょう。聖書をよく読むと、神の独り子が十字架につけられて殺されることは既に神の予定に入っていました。むしろ、この方が十字架に死ぬことによって、全人類の罪の身代わりとなったのです。即ち、神の審きは罪を犯した人間に対してではなく、イエス・キリストがつけられた十字架によって果たされたのです。だから、全ての罪びとは自分の罪を認めて悔改めることです。悔改めるとは、自己中心の身勝手な生き方をやめて、愛と赦しの神に立ち返ることを言うのです。更に、神の独り子イエス・キリストこそ自分のために備えられた救い主であると信じることによって、その罪は一切問われません。しかも、イエスは十字架に罪の身代わりを引き受けただけではありません。彼はもともと神の子、神ご自身ですから、死ぬことはありえないのです。彼は三日目に甦って、彼を信じる全ての者の内に住み、その人たちにも永遠の命を与えてくださるのです。もはや神がいつの日か定めておられる最後の審判を恐れることはなくなります。エデンの園、神の御国に立ち返る者として頂いたからです。恐らくパウロとシラスはこのように語り聞かせたので、看守はその勧めに従って、イエス・キリストを救い主と信じてバプテスマを受けたのではないでしょうか。

 大切なことなので、あえて言わせて頂くなら、この16:31は口語訳聖書と新改訳聖書、また文語訳聖書に従いますと、「二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』」というように、ギリシャ語本文に忠実に詳しく訳されています。看守は二人の傷口を洗い流して手当てをし、直ちに家族と共にバプテスマを受けました。どうやらこの看守は家族ぐるみで駐在していたようです。また、この看守のように、家族全員が同時にバプテスマに与りましたが、ある人は自分が救われてから随分年月を経て、家族がそれも少しずつ救われるというケースもあるでしょう。いずれにしてもひとりの人がイエス・キリストの救いに与り、バプテスマを受けることによって、いつの日か家族全員救われるチャンスとなるのです。

 先に救われた人が自分の家族、友人、知人の救いのために祈り続けて行けば、神はあなたの祈りに必ず答えて下さいます。信仰生活の訓練とか、慈善活動の奉仕とかは、イエス・キリストを信じてから生涯かけて実行すればよいのです。

 今、あなたがしなければならないことは、あなた自身がまず自分の罪を認めることです。あの人がどうの、この人がどうのということは問題ではありません。今までは自分は悪くない、あの人が悪いとあなたは考えていたかもしれません。しかし、違うのです。本当はあなた自身が自分こそ神に裁かれなければならない罪の囚人であると認めることです。そして、「わたしは救われるために何をなすべきでしょうか。」と口に言い表して告白しましょう。ここに水があります。あなたがイエス・キリストを主なる神、個人的な救い主と信じるなら、あなたも救われてバプテスマを受けることができるのです。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

鞭打たれ、傷ついた体にもかかわらず、パウロとシラスの二人の伝道者は神に祈りと讃美の歌をささげました。この敬虔な神の人の姿に囚人たちの心も開かれていきました。

何よりもわたしたちの心を打つ出来事は獄舎の看守が救いに与った出来事です。地震のために囚人が逃げてしまったと誤解して自害しようとした看守が、それを引き止めるパウロの叫びによって、一命を取り留めただけではなく、神の愛に目覚めることができました。

主よ、今日もここにいる人たちの中に、自分の罪におののきながらも弱さのために、習慣的に繰り返してしまう罪に悩み、どうしてよいか分からずに苦しんでいる人がいるかもしれません。主よ、どうかこの人たちを憐れみ、顧みて上げてください。「わたしは救われるために何をすべきでしょうか。」と、あなたの前に跪き、告白する者としてください。今こそ、あなたの独り子イエス・キリストを信じてバプテスマを受ける決心へと導いてください。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。      


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