【主日礼拝メッセージ要約】                               2007年2月25日   

世に生きる信仰 」 

  使徒言行録16章35-40節

高橋淑郎牧師

 

 フィリピの高官はパウロとシラスの処遇について、鞭による懲らしめと一晩の留置で十分と判断しましたが、彼らによって騒動が再燃することを恐れて、二人を釈放する代わりに、この町から追放する旨通達しました。看守は直ちにこの命令を二人に伝えました。しかし、彼らは釈放を喜ぶどころか、異議を唱えます。「昨日は自分たちの言い分には全く耳を貸さずに、しかもローマ市民であるわたしたちを正式な裁判にもかけず、一方的に公然と鞭打って処罰し、その上投獄した。しかるに今になってひそかに釈放しようというのか。それはいけない。高官自らここに来て私たちを連れ出すべきである。」と。

 ここで、パウロとシラスが釈放命令を聞いたとき、素直に獄を出ないで、高官たちに異議を唱えたのはどういうわけでしょうか。ローマ市民であることの特権を主張して、少しは溜飲を下げたかったからでしょうか。もちろん違います。彼らが出獄するにあたってこのような態度に出たのは、自分たちがこの町を離れて後も、高官がこの町に生まれたばかりのイエス・キリストの教会に対して、不当な扱いをしないようにさせたいという配慮ではなかったでしょうか。

 この使徒言行録16章はパウロとシラスがヨーロッパに初めて足を踏み入れた伝道旅行の記録ですが、この記録から教えられることがあります。それは熱心で誠実なキリストの証人というものは、その誠実さにもかかわらず、行く先々で必ず苦難が伴うということです。同時にその苦難の中でも熱心で誠実なキリストの証人は、神に祈ること、讃美することをやめません。更に神への絶えざる祈りと讃美へと導く神は、不思議な方法で、伝道を継続して行くに必要な知恵と、この世で立派に生き抜いてゆくことのできる上からの力を与えてくださいます。パウロとシラスは今、ローマの市民としてのこの世の特権を利用しましたが、それさえも自分の利益のために用いるどころか、この特権を神から賜ったものとして、それを神の栄光のために用いているということです。いや、このような出来事の一つ一つを導かれたのは実に、聖霊という名の神ご自身であったということを、わたしたちは見落としてはならないのです。

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 【主日礼拝メッセージ】                             2007年2月25日   

世に生きる信仰 」 

  使徒言行録16章35-40節

高橋淑郎牧師

 

 一夜明けて、町は昨日の騒ぎが嘘のように平静を取り戻していました。高官たちは、あの流れ者の二人のユダヤ人の処遇について、鞭による懲らしめと一晩の留置で十分と判断して釈放するように命令を下しました。しかし、このまま彼らの滞在を許したのでは騒動が再燃するかもしれないと恐れた高官たちは、彼らを釈放する代わりに即刻この町から追放しようと考えて、その旨看守に通達しました。

 看守は直ちにこの命令をパウロとシラスに伝えたところ、二人は喜ぶどころか、異議を唱えます。「昨日は自分たちの言い分には全く耳を貸さずに、しかもローマ市民であるわたしたちを正式な裁判にもかけず、一方的に公然と鞭打って処罰し、その上投獄した。然るに今になってひそかに釈放しようというのか。それはいけない。高官自らここに来て私たちを連れ出すべきである。」と。

 ローマの法律によると、ローマ帝国の市民権を与えられた人には、正規の裁判を受ける権利があります。しかも不面目な刑罰、たとえば十字架刑や鞭打ちの刑などを免除され、一定の尊敬を受ける権利が与えられていました。何とこの二人はそのローマ市民だというのです。高官たちは今になってろくに取り調べもしないで一方的に鞭打った上に投獄してしまったことを今になって悔い、また慌てました。自分たちと同等のローマ市民に対して不当な取り扱いをしたということが当局に知れたら、高官たち自身がかなりの厳罰に処せられるからです。それで直ちに獄に来て平身低頭に詫びた上で、この町から出て行ってもらいたいと願うのでした。

 パウロとシラスは再び大手を振ってフィリピの町を歩くことができるようになりましたので、次の伝道地を目指して出発することになりました。しかし、その前にもう一度リディアの家を訪ねます。別れの挨拶をするためと、生まれたばかりのフィリピ教会の兄弟姉妹に会って、励まし、力づけるためです。この時リディアの家を中心に構成されたフィリピの教会のメンバーは、リディアの家族と使用人、牢獄の看守一家と部下たち、それにもしかして、奴隷として占いの霊に憑かれていた女性もその一人に加えられていたかもしれません。またパウロ、シラスと共に獄に入れられていた人の中に、二人の祈りと讃美を聴いて感動した囚人の幾人かが、後に回心してこの家の教会に出入りするようになったとも考えられます。

 ここで、パウロとシラスが釈放命令を聞いたとき、素直に獄を出ないで、高官たちに異議を唱えたのはどういうわけでしょうか。ここに及んでローマ市民であることの特権を主張して、少しは溜飲を下げたかったからでしょうか。もちろんそんな狭い了見ではありません。彼が出獄するにあたってこのような態度に出たのは、自分がこの町を離れて後も、高官たちがこの町に生まれたばかりのイエス・キリストの教会に対して、不当な扱いをしないようにさせたいという配慮ではなかったでしょうか。現に、彼はその後も機会あるごとにこの町を訪れて、教会のメンバーとの関係を深めていますし、教会の側でもパウロの指導を喜び、また彼らもパウロの伝道や個人的な生活のサポートを惜しみませんでした。

 この使徒言行録16章はパウロとシラスがヨーロッパに初めて足を踏み入れた伝道旅行の記録ですが、そこから教えられることがあります。それは、熱心で誠実なキリストの証人というものは、その誠実さにもかかわらず、行く先々で必ずと言ってよいほど苦難が伴うということです。同時にその苦難の中でも熱心で誠実なキリストの証人は神に祈ること、讃美することをやめないのです。更にこの神への絶えざる祈りと讃美へと導く神は不思議な方法で、伝道を継続して行くに必要な知恵と、神への信仰を土台として、この世で立派に生き抜いて行けるように、上からの力を与えてくださいます。以上のようにパウロとシラスは今、ローマの市民としてのこの世の身分的特権を利用しましたが、それさえも自分の利益の為に用いるどころか、この特権を神から賜ったものとして、それを神の栄光のために用いているということです。いや、このような出来事の一つ一つを導かれたのは、実に、聖霊ご自身であったということを、わたしたちは見落としてはならないのです。のです。

 

内村鑑三という人は、「後世への最大遺物」の中でこんなことを言っています。少し長いですが、今日の聖書テキストにぴったりの書物なので、紹介させてください。

「わたしには一つの希望がある。わたしがこの世を通り過ぎて安らかに天国に行くことができたら、それで沢山かと己の心に問うてみると、その時にわたしの心に清い欲が一つ起ってくる。この愛する美しい国に何も残さずには死にたくない、との希望が起ってくる。わたしがどれだけこの世界を愛し、どれだけ同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである。天文学者ハーシェルが言ったように、わたしが死ぬ時はわたしの生まれてきた時よりも、この世界を少しなりとも良くして逝こうではないか。では、自分はそのためにこの世に何を置いて逝けるのか。金を残せるだろうか。世には金儲けの上手な人がいる。金持ちが起ってもらいたい。実業家が起ってもらいたい。そういう人が伝道の為に働く後ろ盾になって大いに貢いでもらいたい。これをもってたくさんの人が教会に導かれてキリストに出会って、救われる機会を提供してほしい。しかし、現実にはこの金儲けで失敗した多くの人を見る。それに、自分には金儲けの才がない。後世のために金を遺す才のない者は何を遺せるだろうか。それは「事業」だ。事業とは即ち金を使うことである。東京の商人に聞いてみると、金を持っている人に商売はできない。金のない者が人の金を使って事業をするという。しかし、金の使い道を誤った事業家もまた多い。金もなし、またその金を上手に使って立派な事業を起こす力もない者は、何を遺せるのか。思想だ。わたしの思想をもって若い人たちに教育することだ。2千年前、無名の漁師やごく普通の人たちが「新約聖書」という小さな書物を書いた。その小さな本がついに世界を変えてしまいました。思想というものは人の心に大きな影響を与えるものだから。しかし、世界の歴史を振り返ると、ある思想が、また教育が、他面人類に大きな害をもたらしたことも事実である。

それならば真に後世への最大遺物とは何か。人間が後世に遺すことのできる、そして誰にでも遺すことのできるもの、利益ばかりあって害のない最高の遺物。それは、『勇ましい高尚なる生涯』である。高尚なる勇ましい生涯とは何か。それは、この世の中は決して悪魔が支配する世の中ではなく、神が支配する世の中であることを信じることである。失望の世の中ではなく、希望の世の中であることを信じることである。この世の中は悲嘆の世の中ではなく、歓喜の世の中であると信じることである。このような信仰をわたしたちの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈り物としてこの世を去るということである。この遺物は誰にも残すことのできる遺物ではないか」と。  

 皆さん、あなたはあなたにもこの世で行き行く上で、ずいぶん多くの天で与えられた特権というものがあるはずです。あなたはこの国の国民として生かされています。この町の住民として生活しています。また神から知恵と能力を与えられています。そこであなたに問いかけたいことがあります。あなたはそれらをあなたの個人的な幸福のためにだけ用いていませんか。神の栄光のために用いていますか。誰にでもできることですが、キリスト者であるあなただからできる地域社会への貢献、またキリスト者であるあなたにしかできない後世への最大の遺物、遺産として、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることに、あなたの生涯を貫き通していただきたいのです。これこそ「勇ましく高尚な生涯」に他なりません。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 パウロとシラスは絶望的な中でも祈りと讃美を忘れませんでした。このように取り巻く状況がどうであれ、彼らの代わらないプラス思考があなたの御心に届いたとき、あなたはあなたが彼らにおあたえになったこの世の立場を聖別して用いてくださったとき、あの傲慢なローマの役人の心をさえ変えてくださいました。そして、誕生したばかりのフィリピの教会の土台を固めてくださいました。

 主よ、わたしたちもこの世の中では真に小さく、無力に等しい者のようですが、あなたが共にいて下さいますから、わたしたちもこの世は悪魔の支配するところではなく、究極的にはあなたの支配の中にあることを信じます。失望の世の中ではなく、希望の世の中であることを信じます。この世の中は悲嘆の世の中ではなく、歓喜の世の中であると信じます。このような信仰をもってわたしたちの生涯を全うさせてください。わたしたちの生涯を世の中への贈り物としてこの世を去る一人となりますよう、お導きください。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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