【主日礼拝メッセージ要約】                               2007年3月4日   

イエスは主 」 

  使徒言行録17章1-9節

高橋淑郎牧師

 

 パウロのメッセージを聞いて、なお旧約聖書に預言されているメシアとイエスが同一の方であると信じられない人々がいました。彼らはパウロとシラスを取り逃がした腹いせにパウロの仲間を捕えて、「彼らは、『イエスという別の王がいる』と言っています。」と訴え出ました。これはイエスに対して少しだけ正しい理解をしていると言えます。確かにイエスご自身、「わたしの国はこの世に属してはいない。」(ヨハネ18:36)と言われました。しかし正確に言うなら、イエスは別の王ではなく、唯一絶対なる真の王、全宇宙の支配者なのです。わたしたちはこの世の為政者が、神の御心を行なうようにと立てられた者、神の権威を委ねられた者として従う義務があります。しかしこの世の王であれ、為政者であれ、もし彼らが神のみ心に背くことがあれば、もはやわたしたちには彼らに従う義務はないのです。彼らこそ真の王であるキリストに背く、別の王だからです。

 わたしたちの王なるキリストは、わたしたちの心を支配するために、以前からわたしたちの心を支配している罪を滅ぼして下さいました。わたしたちが罪を持ったままでこの世を離れるなら、わたしたちを待っているのは、神による最後の審判です。わたしたちは誰であっても、死後神のみ前に呼び集められ、裁かれて、その結果永遠の滅びの国、地獄へと落とされなければならないのです。

 しかし、愛なる神はその独り子イエスをこの世に賜って、わたしたちの内にある罪を滅ぼし、わたしたちを救うために、わたしたちの罪の代償として十字架の上で死なれました。それだけではありません。この方は神の御子、神ご自身ですから、三日目に甦られました。死はもはや御子イエスの永遠の命の内に呑み込まれ、滅ぼされたのです。ですから、わたしたちはこの方をわたしたちの救い主、永遠の命の主と信じることによって罪と死と滅びから救われるのです。そればかりか、このお方、復活の主イエスによって、わたしたちも永遠の命を持つ身とされるのです。

 あなたも今、このお方を王なるキリスト、救い主と受け入れ、信じて従う者となりませんか。

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 【主日礼拝メッセージ】                             2007年3月4日   

イエスは主 」 

  使徒言行録17章1-9節

高橋淑郎牧師

 

 フィリピの町を出たパウロたちはアンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケにつきました。その距離おおよそ220kmの旅路です。この町はマケドニア州の首都で、昔は温泉が出るということで温泉を意味するテルマと呼ばれていましたが、紀元前4世紀の初めごろ、カサンドロスがこの町を再建し、妻サロニカの名前からつけられました。今日でもテッサロニキという呼び名で40万を越えるギリシャ第二の都市ですが、紀元50年頃パウロがこの町を訪ねた時にも12万を数える商業都市として、ユダヤ人も多数住みつき、会堂(シナゴーグ)もありました。パウロはこの会堂で3回の安息日にわたって、説明し、論証しました。ここに言う「論証」という言葉から、後にキリスト教会の礼拝で、「説教する」という意味で用いられるようになりました。また、説明するという言葉は、聖書の意味を解き明かすというように用いられています。

 ではいったい、パウロは聖書のどの箇所から何を論証し、また説明したのでしょうか。残念ながらパウロがその時引用した聖書の箇所は分かりません。しかし、何について論証し、説明したのかは分かります。イエスというお方です。イエスこそ旧約聖書に預言されているメシア(キリスト)であると語ったのです。まだ新約聖書が完成していない時代です。しかしパウロは旧約聖書をテキストとして、たとえば、イザヤ書53章から語ったとすれば、そこにメシアの生涯が預言されていますが、「つい20年前にユダヤのエルサレム郊外で十字架刑に処せられたイエスというお方こそが、そのメシアである。あの預言書にはメシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていたが、わたしはあのイエスこそ、そのメシアだと断言できる。」と言いました。これは、かなりの反響を呼びました。会堂に集まった人々に強い衝撃を与えました。ある人には新鮮に聞こえました。なるほど、パウロが取り次いだイエスの生涯こそ、まさに旧約聖書に預言されているメシアの生涯とぴったり符合する。イエスこそメシア、王なるキリスト、わたしの罪からの救い主であると素直に信じることができました。直ちにイエスを心に受け入れました。しかし、同時にある人々には反感を与える結果となりました。

 イエス・キリストを信じることができない人は、広場にいるならず者を抱きこんで暴動を起こし、パウロたちを、「イエスという別の王を触れ回って世界中を騒がせている」と、わけのわからない言いがかりをつけて、当局に連行しようとしましたが、ヤソンという信者はこんなこともあろうと予想していたのか、手早くパウロたちをかくまって逃がしましたので、彼らは無傷で町を出ることができました。フィリピの経験が、この二人に素早い行動を取らせたのかもしれません。

 神の言葉が語られるとき、いつでもこのような反応が現れるものです。一方において信じて救われる人。他方では信じられないばかりか、激しく反対する人が現われます。反対者は言います。「パウロとシラスは世界中を騒がせてきた人たちだ」と。文語訳聖書によると、「天下を_覆(てんぷく)したる彼(か)の者ども」、また口語訳聖書によると、「天下をかき回してきたこの人たち」と言っています。いずれにしても、大げさな訴えの言葉です。しかし、考えてみると、パウロたちのメッセージは確かに行く先々で、それを聞く人々の心に、少なからず影響を及ぼし、大いに世間を騒がせました。これが神の言葉の持つ力です。

 パウロの論証と説明を聞いて信じたのもユダヤ人なら、激しく反対したのもユダヤ人です。ここはユダヤ人の礼拝所であるシナゴーグと呼ばれる会堂ですから。異邦人の改宗者も安息日礼拝に来ていたでしょうが、大半はユダヤ人です。ユダヤ人は、この会堂を中心に、しっかりと聖書を土台としたユダヤ教徒としての教育を受けて、どの地方、どの国にあってもユダヤ人はユダヤ民族としてのアイデンティティーを守り抜いていました。どの国に散らされようとも、決して散らされた国に同化しないで、彼ら独自のコミュニティーを形成していました。

 またユダヤ民族としての、彼らの情報網は豊かで、遠くエルサレムで何が起こったかということも、かなり正確に知らされていました。ですから、この日、パウロの口からイエスという名前、またイエスが十字架に処刑されたという事件があったことを聴いてもそれを疑いませんでした。問題は、そのイエスが彼らの待ち望んでいたメシア(キリスト)であるということと結びついて聴き取れる人と、結びつかない人がいたことです。

 そこで、パウロのメッセージを聴いて、なお旧約聖書に預言されているメシアとイエスが同一の方であると信じられない人々について考えてみたいと思います。彼らはパウロとシラスを取り逃がした腹いせに、二人に宿を提供していたヤソンとその仲間を捕まえて、「彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」と訴え出ました。これもまたある意味で、イエスに対して少しだけ正しい理解をしていると言えます。イエスご自身、「わたしの国はこの世に属してはいない。」(ヨハネ18:36)と言われました。もっと正確に言うなら、イエスは別の王ではなく、唯一絶対なる真の王、全宇宙の支配者なのです。わたしたちはこの世の為政者が、神の御心を行なうようにと立てられた者、神の権威を委ねられた者として従う義務があります。しかし、この世の王であれ、為政者であれ、彼らが神のみ心に背くことがあれば、もはやわたしたちには彼らに従う義務はないのです。彼らこそ、真の王であるキリストに背く、別の王だからです。

 そこで、皆さんにこのイエスという王がどのような方であるか、どのようにしてわたしたちを支配しておられるかを知っていただきたいのです。

 わたしたちの王なるキリストは、わたしたちの心を支配するために、わたしたちの心を支配している罪を滅ぼして下さいました。わたしたちが罪を持ったままでこの世を離れるなら、わたしたちを待っているのは、神による最後の審判です。わたしたちは誰であっても、死後神のみ前に呼び集められ、裁かれて、その結果永遠の滅びの国、地獄へと落とされなければならないのです。

 しかし、愛なる神はその独り子イエスをこの世に賜って、わたしたちの内にある罪を滅ぼし、わたしたちを救うために、イエスご自身をわたしたちの罪の代償として、神の裁きのしるしである十字架に釘付けにして、陰府の世界へと引き渡されました。しかし、この方は神の御子、神ご自身ですから、死に引き渡されたままではありません。三日目に甦られました。死はもはや御子イエスの永遠の命の内に呑み込まれ、滅ぼされたのです。ですから、わたしたちはこの方を永遠の命の主、わたしたちの救い主と信じ、従うことを言い表すなら、わたしたちはもはや二度と罪を問われることはないのです。そればかりか、このお方、復活の主イエスによって、わたしたちも永遠の命を持つ身とされるのです。

あなたも今、このお方を王なるキリスト、救い主と受け入れ、信じて従う者となりませんか。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 パウロとシラスが、テサロニケの町にあるユダヤ人の会堂で3週間に亘り、聖書を通してイエスについて語り聞かせたとき、そのメッセージを素直に受け止めて、イエス・キリストを信じる人々がいた反面、そうした光景をねたましく思った人々がパウロの話を捻じ曲げて、「イエスという別の王」の話として、政治問題に摩り替えてしまいました。

 しかし、わたしたちは今朝、パウロたちが語り伝えたイエス、「別の王」などではなく、この方こそ、わたしたちの罪の身代わりに死んで甦って、わたしたちの霊を罪の支配から解放してくださった永遠の命の主、真の王と信じることができました。

 主よ、今も罪の闇路をさまよいながら、あなたに逆らう人々がこの地上には沢山います。彼らがこのままその生涯を終えてしまったなら、彼らを待っているものは、最後の審判です。永遠の滅びです。そういうことにならないために、どうか、わたしたちに彼らを愛する心、彼らに真の王である主イエス・キリストを宣べ伝える言葉を与えてください。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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