【主日礼拝メッセージ要約】                               2007年3月11日   

「 御言葉に聴く」 

  使徒言行録17章10-15節

高橋淑郎牧師

 

 「ベレアに住むユダヤ人は素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れた。」ということです。パウロがその日、聖書のどの箇所からメッセージを取り次いだか分かりませんが、どこから語ろうが、その中心がイエス・キリストの福音である限り、礼拝で語られる御言葉を御言葉として、素直な心で、しかも熱心に聴こうとする姿勢はとても大事です。聖書66巻はすべてイエス・キリストを証しているからです。

 また、ベレアの会堂に集まってパウロとシラスの語るメッセージに耳を傾けていた人々は、礼拝でのメッセージを素直な心で受け入れながら、同時に次の安息日までの7日間を無為に過ごしてはいませんでした。毎日聖書を調べていたということです。疑いの耳で礼拝メッセージを聴いてはいませんでしたが、「神はこのわたしに何を語りかけていらっしゃるのか。」と、個人的に聴き取りたかったのです。これはすごいことだと思いませんか。彼らにとって、礼拝は会堂で献げた時間では終わっていませんでした。次の安息日までの7日間(168時間)が礼拝でした。しかし今と違って、誰でも聖書を簡単に手に出来る時代ではありませんから、個人的に聖書を読み、学ぶことには限界があります。それで、恐らく何人かが集まって、グループで聖書を研究していた(11節)のです。

 今は、キリスト教会のカレンダーで「キリスト受難節」(今年は2月25日から40日間)です。イースター(キリスト復活日。4月8日)まで日々、キリストの十字架の苦難を偲び、祈り、礼拝をささげ、日常生活でもできるかぎり、質素に過ごすことになっています。

 今日の聖書箇所から、ベレアの町に誕生したキリスト教会のメンバーの信仰生活に倣うなら、レントとか、イースターとか、特別の日だけではなく、一年365日、キリストの十字架の出来事を忘れることなく過ごしたいものです。キリストの十字架の贖いなしに、罪からの救いはありません。またキリストの復活がなければ、わたしたちは今なお神による審判による死と滅びの恐怖に脅え、わたしたちの前に永遠の命の道、天国への道は閉ざされたままなのです。

今、イエス・キリストを信じましょう。

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 【主日礼拝メッセージ】                                 2007年3月11日   

「 御言葉に聴く」 

  使徒言行録17章10-15節

高橋淑郎牧師

 

 今日の聖書箇所から、わたしたちは何をメッセージとして聴き取るべきでしょうか。それは、礼拝に与るとはどういうことかを知ることです。その前に先週までの聖書を通して語られているメッセージの流れをおさらいしておきましょう。

 パウロとシラスはテサロニケの町にあるユダヤ人の会堂で、3週間にもわたって主イエス・キリストの御言葉、すなわち福音を宣べ伝えました。彼が宣べ伝えた福音とは、イエス・キリストがわたしたちの罪のために死んだこと、甦ったこと、このイエス・キリストを救い主と信じる者には罪の赦しと復活の命が与えられ、神のみ国に迎え入れられるという恵みの約束です。

 これまでこの会堂でユダヤ人がラビ呼ばれる律法の教師たちから聞かされてきた話の流れは律法の朗読と、その解説が中心でした。そして、今は超大国ローマの支配を受けているわたしたちだが、やがていつの日かわたしたちを解放して救うユダヤ人の王、メシアが神から遣わされてきてわたしたちの目の前に現われる。その日を信じて希望を捨てないように、というものでした。

 パウロとシラスの宣べ伝えたメッセージも大筋これに近いものでした。しかし、結びの部分で違っていました。会衆はこの二人の使徒たちから、これまで耳にしたことのない勧めを受けたのです。

 彼らは言いました。「このメシアはいつの日かではなく、もう既においでになったのだ。わたしたちが知らずに十字架に釘打って死なせてしまったナザレ人イエスこそ、聖書に預言されていた真のメシア、王なるキリスト、救い主である。この方を十字架に上げてしまったのは彼が犯罪者だからではなく、わたしたちの無知という罪がそうさせてしまったのである。けれども、わたしたちの神は、このイエスを死人の中から甦らせて、再び弟子たちの前に復活の体をお示しになり、ここから出て行って全ての造られた人々に救い主イエス・キリストを信じる信仰に立ち返るべきことを宣べ伝えなさい。と命じられた。だからわたしたちは、今こうしてあなたがたにこの福音を証しているのである。」と、そういう風に3週間もの間、論証し、説明を繰り返したのです。

 メッセージを聴いた会衆の反応は大変なものでした。ある人たちは、「そうか、あの十字架に死んだイエスこそわたしたちが長年待ち望んでいた救い主、キリストだったのか。ありがたいことだ。信じよう。」という人たちと、「救い主はベツレヘムに生まれるとあるが、あのイエスはナザレ人と呼ばれているではないか。それにメシアがおめおめ重罪人のように十字架にかけられるはずがない。だから、彼がメシアであるはずがない。」と頑強に否定する人たちの二つに分かれたのです。そして信じられない人たちが起こした暴動によって、パウロとシラスはこの町から逃れて、南方の町べレアへと旅を続けることになりました。二人がこの町にどのくらいの期間留まったか分かりませんが、やはりここでも会堂に入って、テサロニケと同じように、イエス・キリストの福音を宣べ伝えました。

 13節以後を見ると、テサロニケで一騒動起こした人々が、この町にもやってきて騒ぎ立て、またまたパウロの伝道を妨げ、彼をベレアからも追い出してしまいました。このことについては次週の礼拝で詳しく読むことにしましょう。

 11節をご覧下さい。「ベレアに住むユダヤ人は素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れた。」ということです。この「素直」(ギリシャ語:ユーゲネストロイ←ユーゲネースの比較級)と訳されている形容詞ですが、他訳の聖書には、「良い人」とか、「善良な人」、また「高潔な人」とか、「立派な心がけの人(noble‐minded)」など、いろいろに訳されていますが、ここはやはり、素直な心で「素直」と読むのが良いでしょう。主イエスは、「何を聞いているかに注意しなさい。」(マルコ4:24)と言われました。また、「どう聞くべきかに注意しなさい」(ルカ8:18)とも言われました。パウロがその日、聖書のどの箇所からメッセージを取り次いだか分かりませんが、どの箇所から語ろうが、メッセージの中心がイエス・キリストの福音である限り、礼拝で語られる御言葉を御言葉として、素直な心で、しかも熱心に聴こうとする姿勢はとても大事です。聖書66巻はすべてイエス・キリストを証しているからです。その素直な心で聴きながら礼拝をささげる人を、神は一層豊かに祝福してくださるでしょう。

 それだけではありません。ベレアの会堂に集まってパウロとシラスの語るメッセージに耳を傾けていた人々は、その場限りの礼拝のささげ方をしてはいませんでした。礼拝でのメッセージを素直な心で受け入れながら、同時に次の安息日までの7日間を無為に過ごしてはいなかったのです。聴いたメッセージが果たしてその通りかどうかを確認する意味で、毎日聖書を調べていたということです。疑いの耳で礼拝メッセージを聴いてはいませんでしたが、神はこのわたしに何を語りかけていらっしゃるのか、個人的に聴き取りたかったのです。これはすごいことだと思いませんか。彼らにとって、礼拝は会堂で献げた1時間では終わっていませんでした。次の安息日までの7日間、すなわち168時間が礼拝でした。しかし今と違って、誰でも聖書を簡単に手にすることの出来る時代ではありませんから、個人的に聖書を読み、学ぶことには限界があります。それで、彼らは恐らく何人かが集まって、グループで聖書を研究していた、それが11節の意味なのです。

 わたしたちの教会ではこれに近いことを実行しています。礼拝に続いてファミリー分級という時間があります。そこでは短い時間ながら、礼拝で聴いたメッセージを分かち合い、また聖書教育という雑誌を読みながら、さらに詳しく神の御言葉を学ぶことにしています。初めてこられた方にとっても、また求道中の皆さんにとっても、礼拝メッセージの意味が分かりにくいことがあると思います。分級はそういう人たちのための時間です。聴きっぱなしで消化不良を起こさないために、分級に出て頂いて、そこに集まった信者さんに質問をぶつけて頂ける時間なのです。更に、水曜日や木曜日の聖書の学びとお祈り会は、礼拝後の分級では時間が足りない人の為に備えられているのです。それでも足りない人はパソコンを持っている人は教会のHPを開いて頂くと、もう一度メッセージの原稿をそのまま読むことができますし、パソコンを持たない人は、申し出ていただければ、今わたしが話しているこの原稿をコピーして差し上げることができます。これを基に、教会の信者さんに電話をかけるなり、最近のことですからメールで尋ねることもできます。勿論、牧師のわたしにお尋ね頂ければ、いつでもお答えします。

 

 最後に、キリスト教会のカレンダーを見ると、2月25日から40日間をレント(四旬節)とも、キリスト受難節とも言います。今日はキリスト受難節第3主日ということになります。では今年の場合、4月8日のキリスト復活日を記念するイースターまでの40日間、何をするかと言いますと、イエス・キリストの十字架のお苦しみを偲び、祈り、礼拝をささげ、日常生活でもできるかぎり、質素に過ごすことになっています。

 今日の聖書箇所から、ベレアの町に誕生したキリスト教会のメンバーの信仰生活に倣うなら、わたしたちはレントとか、イースターとか、特別の日だけではなく、一年365日、キリストの十字架の出来事を忘れることなく過ごしたいものです。なぜならキリストの十字架の贖いなしに、わたしたちにとって、罪からの救いはないからです。またキリストの復活の出来事がなければ、わたしたちは今なお神による審判による死と滅びの恐怖に脅え、わたしたちの前に永遠の命の道、天国への道は閉ざされたままなのです。

 しかし、十字架と復活のキリストを救い主と信じるなら、神はその人を無条件に救い、永遠の命の御国へと引き上げてくださるのです。今、イエス・キリストを信じましょう。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 ベレアの町の人々は、パウロとシラスが伝えたイエス・キリストの福音を素直に信じました。ヨーロッパの地にフィリピ、テサロニケに続いて3つ目のキリスト教会が生まれた瞬間です。ベレアの教会の人々は、ただそのとき、一瞬素直になったばかりでなく、その後も熱心に聖書を学び続け、確信を深めました。

 主なる神、わたしたち仙川キリスト教会のメンバー一人一人をも憐れんでください。まず、わたしたち自身が御言葉を御言葉として素直に聴き取る心を与えてください。そして、今日初めてこられた方に、また求道中の方々に、私たち自身の目と心と口で、神の御言葉の真理、イエス・キリストの福音の正しい意味をお伝えすることができますように。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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