【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年3月25日   

「 天地の主である神」 

  使徒言行録17章22-34節

高橋淑郎牧師

 

 パウロはここで、「一人の方」とか、「この方を死人の中から復活させて」と言っています。人々は、ここで初めてパウロが死人からの復活の意味で語っていることに気が付きました。話はまだ終わっていないのです。それなのに人々は、パウロをあざ笑ったり、その場凌ぎの言葉を残して去って行ってしまいました。それではパウロが言おうとしていた「ひとりの方」とは誰のことでしょうか。勿論イエス・キリストのことです。この世から偶像崇拝という愚かなことをやめさせようとして天の父なる神の御許から下ってこられた神の独り子イエス・キリストのことです。この世は真の神よりも、偶像に惹かれます。偶像は何も金や銀や鉄や石でなくても造れます。偶像はまず人間の心に住みついています。自己中心という偶像が神となってわたしたちの心を支配するとき、私たちは罪の奴隷と成り果ててしまうのです。イエス・キリストはその偶像を追い出して、わたしたちを自由にするためにこの世に来てくださいましたが、私たちはかえってイエス・キリストを敵と思い込んで、十字架にかけてしまったのです。造り主を受け入れるよりも、自分の思い通りの生活を楽しむ方を選んだ結果です。神は死んだと誰もが考えました。しかし、神は今も生きておられるのです。十字架に挙げられた方は葬られたはずの墓から甦られたのです。このようなメッセージを聴いてなお信じられないで立ち去った多くの人の中に、信じた人々も少なくありませんでした。アレオパゴスの議員ディオニシスや、ダマリスという女性その他の人々です。去って行った人々に比べて、信じた人の数は多くはなかったかもしれません。彼らは神のみ子イエス・キリストの復活物語を聞いたとき、そのメッセージを聴いてそのままに信じることができました。

 今ひとつお尋ねします。あなたの中にある自己中心という罪こそが唯一真の神を否定し、神が遣わされたその独り子イエス・キリストを十字架につけてしまったのだとお思いになりませんか。もし、あなたがあなたの中にそのような偶像が確かにあると認めるなら、そして、その偶像を打ち壊してほしいと願うなら、あなたのために十字架に死んで甦られたイエス・キリストをあなたの救い主とお信じになりませんか。

 

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 【主日礼拝メッセージ】                                   2007年3月25日   

「 天地の主である神」 

  使徒言行録17章22-34節

高橋淑郎牧師

 

 使徒パウロはアテネの人々の前でイエス・キリストの福音を宣べ伝えることになりました。前にもこのようなことがありました。それは小アジアにあるリストラの町でのことでした(14:15―17)。それは、町の人々がパウロとバルナバを神と崇めたので、それをやめさせなければ、という差し迫った事情のためでした。しかし、ここアテネでは、エピクロス派やストア派の学者たちから、わざわざアレオパゴス(アレスの丘という意味。アテネの軍神アレスが祭られていた)に連れて行かれて、「新しい奇妙な教えを聞かせてほしい」とリクエストされたからです。リストラの町では一般市民を前に福音を語りましたが、ここでは学者、裁判官、貴族階級の人々がほとんどです。しかし、福音はひとつです。場所によって、聞く人によって話の内容を変える必要はありません。教養の違い、身分の違い、貧富の格差があろうと、人間には違いないのです。どんな人間にも神さまを知りたいという欲求があります。だから手探りで宗教を起こし、手作りの神を拝むのです。だから、パウロはあのリストラの町で語ったと同じ内容で、但し今度はかなり丁寧に時間をかけて真の神とは何か。この神はどこにお住いか。わたしたちに何をして下さったのかということについて語りました。

 このようなメッセージこそいつの時代にも有効です。パウロはアテネの人々を前にして、「あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。」と言いました。この「信仰のあつい方」というところは、もともと、「より宗教的(な人々)」(デイスィダイモネステルース→デイスィダイモーンの形容詞、比較級)と書かれていますから、口語訳聖書や新改訳聖書、或いは文語訳聖書のように、「宗教心に富んでいる」とか、「神々を敬ふ(うやまう)心の篤(あつ)きを見る」と訳した方がパウロの意図を正しく伝えることになるでしょう。

 もしかして、皆さんのお宅にも仏壇があり、ところどころに神棚があり、朝に夕にお灯明を上げたり、清めの塩を盛ったり、温かいご飯や新鮮な水や美しい花を手向けたりしているご家族がおられるかもしれません。また道を歩いていても、山や海や川べりを歩いていて、太陽も月も星も、木も草も花も、そこに見える全てのものを創造主なる神の作品だとして、創造主を崇めて讃美する人よりも、見るもの触るもの、その全てを神として崇め、手を合わせる人が多いのです。それでも何かもの足りないと不安を覚える人は、「知られざる神に」と刻んだ祭壇に手を合わせることでしょう。しかし、わたしたちキリストの弟子は、そのような人々の宗教心を否定したり、小ばかにしてはいけません。それどころか、パウロはアテネの人々に、「あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。」(口語訳聖書)と、一定の評価を与えています。宗教心を持つことは良いことです。見えないものに対する畏敬の念を持つことは、真の神に目覚め、近づく第一歩なのです。しかし、そこで留まっていてはなりません。見えざる者、知られない神が誰であるかを知ることが大切です。使徒パウロは言います、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」と。この天と地とその中に住む一切のものを創造された方がおられるのです。この方こそ唯一の神であると、聖書は証し続けます。

 人は言います。「神はどこにいるのか?」と。この質問に答える二つの言葉があります。まず変なことを言うと思われるかもしれませんが、実のところ、わたしたちの神はこの世界のどこにもおられません。空を見ても神はそこにおられません。山にも海にも河にも、木々や草花の中にも神はいません。しかしまたもっと変なことを言いますが、わたしたちの神はどこにでもその痕跡をとどめておられるのです。ロケットで宇宙に飛び出した飛行士の一人は言いました。この宇宙が規則正しく運行しているさまを見て、またただひとつ生物が生きることを許されている地球という美しい星を見たとき、確かに神はこの宇宙の全てをお造りになったと信じることができました。そして地上に降り立った時、彼はどこへ行くよりも先に教会に行き、そして牧師になったということです。山にも、河にも、海にも、草の根にも、台所にも神の創造の業が満ちているのです。パウロが38節でストア派の学説(前半のカギ括弧は、ストア派のエピメデスという詩人の言葉、続くカギ括弧は、同じストア派のクレアンテスという詩人の言葉)を引用して言いましたように、神はわたしたちの狭い頭の中に、考え方の中におられるのではありません。反対なのです。実にわたしたちが神の中に生き、動き、存在させられているのです。

 31節をご覧ください。パウロはここで、「一人の方」とか、「この方を死人の中から復活させて」と言っています。人々は、ここで初めてパウロが死人からの復活の意味で語っていることに気が付きました。話はまだ終わっていないのです。それなのに人々は、パウロをあざ笑ったり、その場凌ぎの言葉を残して去って行ってしまいました。それではパウロが言おうとしていた「ひとりの方」とは誰のことでしょうか。勿論イエス・キリストのことです。この世から偶像崇拝という愚かなことをやめさせようとして天の父なる神の御許から下ってこられた神の独り子イエス・キリストのことです。この世は真の神よりも、偶像に惹かれます。偶像は何も金や銀や鉄や石でなくても造れます。偶像はまず人間の心に住みついています。自己中心という偶像が神となってわたしたちの心を支配するとき、私たちは罪の奴隷と成り果ててしまうのです。イエス・キリストはその偶像を追い出して、わたしたちを自由にするためにこの世に来てくださいましたが、私たちはかえってイエス・キリストを敵と思い込んで、十字架にかけてしまったのです。造り主を受け入れるよりも、自分の思い通りの生活を楽しむ方を選んだ結果です。神は死んだと誰もが考えました。しかし、神は今も生きておられるのです。十字架に挙げられた方は葬られたはずの墓から甦られたのです。このようなメッセージを聴いてなお信じられないで立ち去った多くの人の中に、信じた人々も少なくありませんでした。アレオパゴスの議員ディオニシスや、ダマリスという女性その他の人々です。去って行った人々に比べて、信じた人の数は多くはなかったかもしれません。彼らは神のみ子イエス・キリストの復活物語を聞いたとき、そのメッセージを聴いてそのままに信じることができました。

 

 そこで、今朝、あなたにお尋ねしたいことがあります。あなたはあなたの中に偶像の神はいないでしょうか。目に見える偶像、目に見えない偶像の神があなたの人生をおかしいものにしてはいないでしょうか。今日こそ天地の造り主である神を真の神として受け入れようとはお思いになりませんか。

 今ひとつお尋ねします。あなたの中にあるその自己中心という罪こそが唯一真の神を否定し、神が遣わされたその独り子イエス・キリストを十字架につけてしまったのだとお思いになりませんか。もし、あなたがあなたの中にそのような偶像が確かにあると認めるなら、そして、その偶像を打ち壊してほしいと願うなら、あなたのために十字架に死んで甦られたイエス・キリストをあなたの救い主とお信じになりませんか。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

わたしたちは先週に引き続き、使徒パウロはあなたの導きのままに、「宣教の愚かさという手段」で十字架の言葉、イエス・キリストの死と甦りの御業を宣べ伝え、神の救いの道を教え導きました。

天のお父さま、今日もまた、あなたのみ前にある一人びとりの心の目を開かせてください。霊の耳を開かせてください。あなたの御前にある一人ひとりの心の王座を支配している自己中心という罪と偶像をその心から追い出してください。そして、十字架に死んで甦られたあなたの独り子イエス・キリストだけを受け入れる者、信じて従う者としてください。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

 


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