【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年4月1日   

「ののしりの中で」 

マルコによる福音書15章21−32節

高橋淑郎牧師

 

 「十字架刑」というのは当時、極悪人にとって最後の死に場所でした。それほど残酷この上ない処刑の仕方でした。兵士たちは、主イエスの着ているものを剥ぎ取り、くじで分け合いました。また主イエスを十字架にかけることに成功した人々の勝ち誇ったような、ののしりの声が絶えません。通行人や左右の死刑囚だけではありません。祭司長や律法学者たちも、「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」とあざけります。人間とは、何という恐ろしい言葉を神に向かって発するものでしょうか。しかし、主イエスは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られたというのです。無実の罪で死んで逝こうとする人の祈りとは思えません。しかし、この祈りこそ、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。・・・彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」(イザヤ書53:3,12)というイザヤの預言が成就した証なのです。

 十字架の下でののしりの声を上げている騒音の中で、ひたすら静かに沈黙を守っておられる主イエスに目を留めましょう。人々は言います。「他人は救ったのに、自分は救えない。」と。その通りです。マルコによる福音書が証言している主イエスの特徴を挙げますと、それはあたかも黙々と田んぼを耕す牛にも似て、ひたすら自分の命をすり減らしながら、人々のために奉仕の業に徹する主イエス・キリストの姿が描かれています。自分のためには何一つ求めることをしないで、罪人に仕えてくださる主イエスのお姿を見逃してはなりません。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコによる福音書10章45節)と。これをこの福音書の鍵言葉と言います。

 人々のののしりの中で、弁解も反論もせず、またのろいの言葉を返すこともしないこの方の中に、真にわたしたち罪人のために自分を与えつくしてくださった神の無条件の愛が見えないでしょうか。

 

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 【主日礼拝メッセージ】                                    2007年4月1日   

「ののしりの中で」 

マルコによる福音書15章21−32節

高橋淑郎牧師

 

 最初に皆さんにお願いがあります。イザヤ書53章(旧約聖書1149頁)を全員で音読してください。ただ読むだけでなく、心を込めてお願い致します。

 今週からキリスト受難週です。それで、今日は週報の付録として「キリストの受難と復活までの七日間」を一覧表にまとめておきましたから、今日から8日まで、この表に書いてある日ごとのタイトルと聖句を参考にして読み、主イエスが十字架に上げられるまでこの地上に残された足跡の一つひとつを心に留めてお祈りください(このメッセージをお読みになっている方々のためには最後の頁に書いておきます)。そして聖書に挟んでおくとかして大切に保管してください。

 

 さて、今日は一足早く十字架上の主イエスを共に仰ぎ見ることにしましょう。マルコによる福音書とこの福音書を重要な資料にして書かれたと言われているマタイも、そしてルカも、主イエスが十字架にかけられた時間、十字架上で叫ばれた七つの言葉、全地が暗くなった時間、そして息を引き取られた時間のいずれも、それは全て9時、12時、3時という節目の出来事であったと証言しています。

 旧約聖書(ダニエル書)の中に、メディア・ペルシャ支配下に住む諸国、諸州の民は、ダレイオス王こそが神であるから、王以外のいかなる人間にも神にも願い事や祈りを捧げてはならないという禁令が発せられましたが、ユダヤ人のダニエルだけはエルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度天地創造の主であるヤハウェに祈りと讃美を捧げることを怠らなかったという記事があります(ダニエル書6:11)。その一日三度の祈りの時間こそ9時(使徒言行録2:15)、12時、午後3時(使徒言行録3:1)と言われていますから、十字架上の出来事はその節目 節目に起ったものであるというのです。

 「十字架刑」というのは当時、極悪人にとって最後の死に場所でした。それほど残酷かつ恥辱この上ない処刑の仕方でした。わたしたちの主イエスはその十字架の上で息を引き取ることになったのです。主イエスを処刑した兵士たちは、彼の着ているものを剥ぎ取り、くじで分け合いました。足元からは主イエスを十字架にかけることに成功した人々の勝ち誇ったような、ののしりの声が絶えません。通行人や共に処刑されている犯罪人たちだけではありません。祭司長や律法学者たちが、「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」とあざけって言いました。人間とは、何という恐ろしい言葉を神に向かって発するものでしょうか。しかし、マルコによる福音書には書かれていませんが、朝の九時に十字架に釘打たれ、罵声を浴びながら、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23:34)と祈られたというのです。無実の罪で死のうとする人の祈りとは思えません。しかし、この祈りこそ最初に皆さんに読んで頂いた、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。・・・彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」(イザヤ書53:3,12)と取り次いだイザヤの預言が成就した証なのです。

 マルコ福音書にはルカによる福音書23:34の祈りの言葉は見られません。しかし、著者マルコは十字架の下でののしりの声を上げている騒音の中で、ひたすら静かに沈黙を守っておられる主イエスにわたしたちを導こうとしています。十字架のイエスを見上げながら、人々は言います。「他人は救ったのに、自分は救えない。」と。その通りです。実にこの一言こそ、マルコによる福音書が証している主イエス・キリストの特徴を言い当てています。新約聖書に編集されている四つの福音書それぞれには主イエス・キリストの特徴が見られます。今日はマルコによる福音書がテキストですから、この福音書が証言している主イエスの特徴を挙げますと、それはあたかも黙々と田んぼを耕す牛にも似て、ひたすら自分の命をすり減らしながら、人々のために奉仕の業に徹する主イエス・キリストの姿が描かれています。自分のためには何一つ求めることをしないで、罪人に仕えてくださる主イエスのお姿をこそ、マルコは書き表したかったのです。そのことを最も適切に言い表している言葉は10章45節です。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 これをこの福音書の鍵言葉と言います。人々のののしりの中で、弁解も反論もせず、またのろいの言葉を返すこともしないこの方の中に、真にわたしたち罪人のために自分を与えつくしてくださった神の無条件の愛が見えないでしょうか。

 

 もう一つ見逃してならない出来事が見られます。アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人です。キレネは現在のリビアのことです。キレネ人と呼ぶのは正確ではありません。シモンという名前からして、彼はユダヤ人です。多分先祖がイスラエル王国の滅亡によって難民となり、流れ流れてこの地方に住み着いたいわゆる離散民のことでしょう。著者マルコはどうしてシモンだけでなく、その息子たちの名前を知っているのでしょう。使徒パウロが書いたローマの信徒への手紙16:13に「ルフォス」の名前が見られますので、もしかしたら関連があるかもしれません。それでなければ、わざわざシモンだけでなく、その子どもたちの名前まで書く必要がないのです。

シモンは過越の祭りの為に巡礼者としてエルサレムにやってきましたが、たまたまローマ兵の目にとまって、主イエスが架けられる十字架の横木を、負わされることになりました。まるでシモン自身が死刑囚でもあるかのように、あざけり、ののしる声の嵐の中、刑場までの長い道を、命ぜられるままにひたすら負わされて行きました。これはシモンにとって、とても恥ずかしい経験であると共に、イエス・キリストの御心を最もそば近くで感じる恵みに満ちた時、彼の人生を大きく変えるきっかけともなったはずです。

 

 聖書は言います。「あのキレネから来たシモンの身に起った出来事を思い起こしなさい。いや、シモンの前を歩まれるイエス・キリストを見なさい。」と。

 シモンがようやくゴルゴダに到着したとき、彼の肩に食い込んでいた横木は取り去られ、ふと気がつくと、イエス・キリストがその十字架に釘打たれ、ののしり叫ぶ声の中で、苦しみを味わっておられるのです。それはいったい誰のためだったのでしょうか。わたしたちの罪のためだったのです。わたしたちの罪の身代わりとなってくださるためでした。わたしたちも自分が何をしているか分からないで、十字架の下からイエス・キリストをののしるひとりであったことに気がつかなければなりません。今日こそ悔い改めて主イエス・キリストの十字架の御許にひざまずきましょう。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

 主イエスは、ただ沈黙して十字架の痛みと苦しみに耐えておられます。それは何のための忍耐だったのでしょうか。今日それが分かりました。この地上に生きる全ての罪びとのためだったのです。「十字架につけよ!」と叫ぶ声、それはわたしでした。「他人は救ったが、自分は救えない。」とののしる声、それはわたしでした。「十字架から下りてみよ、そうすれば信じてやろう。」と嘲る声、それもわたしでした。そんなわたしのために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈ってくださったのです。

 わたしたちは皆一人残らずこの祈りに支えられているのです。わたしたちは今まで神に造られた者であることを知らず、神に生かされていることも知らず、傲慢と不平と偽りを繰り返す者でした。こんなに罪深いわたしたちのために、主は父なる神に打たれ、見捨てられたのだと思うほどに、十字架の上でその尊い血潮を流し、肉を裂き、そして命を使い果たしてくださいました。天のお父さま、今、わたしの罪をお赦しください。

わたしたちの尊い主イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。

 


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