【イースター主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年4月8日   

「 ガリラヤへ  

マルコによる福音書16章1-8節

高橋淑郎牧師

  

 天使は言います。「あの方は、復活なさって、ここにはおられない御覧なさい。ここがお納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」と。

 エルサレムは宗教的エリートの住む都です。そこには、「自分は神の選民で、信仰的に成熟した者」と自負している人たちが礼拝している神殿があります。しかし、ガリラヤはそうではありません。そこはひなびた村、文明から取り残された田舎町です。そこは異邦人扱いされている人たちの住む町です。

 わたしたちのこれまでの生活はユダヤ人がかつて憧れていたエルサレムのように、文明社会に浸りきったものでした。しかし、その実態は表面ばかりを気にする偽りの生活、虚飾と欺瞞が渦巻く日々でした。こうした生き方の中にイエス・キリストが入ってこられたとき、わたしたちは彼を拒み、十字架に釘付けてしまいました。

 わたしたちは、今こそこの偽善と不信仰の町、虚飾と欺瞞の生活から抜け出さなくてはなりません。幸福な生活を願うのであれば、天使が告げたように、空っぽの墓をいつまでも見つめていてはなりません。

 復活のイエス・キリストはガリラヤにおられます。罪過と罪を素直に認めることのできる悔い改めの心というガリラヤこそわたしたちが本当に立ち返るべきホームです。そこに復活のキリストがおられるからです。今この方の御許に立ち返りましょう。

 最後にキリストがどのような方として復活されたか、その意味を学ぶ必要があります。復活とは人生のやり直しではありません。復活とは全く新しい生き方に変えられることです。つまり、この世で生きる間はこの世で生きるに必要な体とその機能を備えられていますが、復活とは、来るべき世にあって、すなわち天のみ国という永遠のみ国に生かされるに相応しい栄光の体という復活の体が備えられるということです。何という恵みでしょうか。

 だからこの朝、わたしたちは復活の主に感謝して、お互いの顔と顔を合わせて、心から次のような挨拶を交わそうではありませんか。「イースターおめでとうございます。」と。そして、感謝の祈りをささげましょう。

 

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 【イースター主日礼拝メッセージ】                                   2007年4月8日   

「 ガリラヤへ  

マルコによる福音書16章1-8節

高橋淑郎牧師

  

 王や豪族、また有名人の墓が長い歴史を超えて、今もなお世界各地に見られます。それらどの墓も見事な形であり、規模です。だからと言って、別に競うこともないのですが、主イエス・キリストが葬られた墓も、結構立派なものであったと、四福音書は言います。今読んで頂いたマルコによる福音書の15章を見てみましょう。

 「既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうか尋ねた。そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。」(42−47)

 マタイによる福音書にはこうあります。

 「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。この人がピラトのところに行って、イエス・キリストの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。ヨセフは遺体を受け取り、きれいな亜麻布に包み、岩に彫った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。マグダラのマリアともうひとりのマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。」(27:57−61)

またルカによる福音書にはこうあります。

 「さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだ誰も葬られたことのない、岩に彫った墓の中に納めた。その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。イエス・キリストと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。」(23:50−56)

ヨハネによる福音書の場合はどうでしょうか。

 「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤの出身のヨセフが、イエス・キリストの遺体をとり降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体をとり降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜたものを百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエス・キリストが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。」(19:38−42)

 以上のように、主イエスが墓に葬られた様子が四つの福音書全てに書かれています。主イエスの埋葬について、こんなにまで丁寧に書く必要があるのかと思わないでもありませんが、聖書はわたしたちのために必要と思われることを、できる限り分かりやすい言葉で詳しく書いています。本当を言うと、イエスを埋葬した墓が立派であったかどうかというのは大した問題ではありません。イエスが確かに息を引き取り、墓に葬られたことが大事なのです。それだけではありません。イエスの死後、十字架から遺体を降ろし、埋葬のために奔走したのは11人の使徒ではなく、ヨセフやニコデモという身分の高い隠れ弟子でした。ピラトの所に行ってイエスの遺体を引き取る交渉はこのような人たちだからできたことです。このように神は適材適所、人を用いられることが分かります。もうひとつ、彼らは大急ぎでイエス・キリストを墓に葬っています。それは後数時間で安息日が始まろうとしていたからです。律法によると、安息日にはどんな仕事もしてはならないので、弟子たちは前夜式やお葬式をする間もなく、また悲しんでいる余裕もなく急いでこの仕事を終えて、家に帰ったのです。このことから、イエスは金曜日に十字架にかけられ、死んで葬られ、日曜日の朝早くに甦られたことが分かります。それ以来、キリストの弟子である教会では、土曜日ではなく、日曜日こそ聖なる安息日、主の日として礼拝をささげるようになりました。

 こういうわけで、福音書の記者たちは、イエスが確かに十字架で死んで葬られたという事実を、実際に埋葬にかかわった人、それを目撃した人を実名入りで、その証言に基づいて書いているのです。

 6節以下をご覧下さい。若者は、日曜日の朝早くイエス・キリストの墓に来たマグダラのマリアをはじめ、女性信徒に対して、空っぽになった墓を指し示し、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。・・・さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたよりも先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」と告げました。この若者はいったい誰なのでしょう。マタイによる福音書やルカによる福音書は、それを主の天使と言っています。

 しかし、折角主の天使である若者から聞いた嬉しい知らせも、彼女たちの心には届きません。彼らは神が定められた最後の審判と死後の世界を信じていました。だからイエス・キリストも最後の審判の日には甦られるであろうと信じていましたから、それまでは代々の弟子たちが愛するイエスの墓をお守りするつもりであったのかもしれません。そしてもう一方では、やはり心の隅っこに、人は死んだらおしまいという人生哲学が、彼らの心を固く閉ざしてしまっていたのではないかと想像することもできます。なぜなら、彼らは主イエスの復活の御告げを受けながら、そして空っぽになった墓を目の前に見ていながら、恐怖に教われて御使の言葉を誰にも報告しないで沈黙を守っていたことでも分かります。

 しかし、9節以下をご覧下さい。ただひとり、マグダラのマリアだけは、イエスの復活を信じることが出来たと言います。残念ながら、9−30節はカッコつき( 〔 〕 )なので、テキストとして読むことを控えました。と言うのは、古い写本にはない部分でしたから、マルコによる福音書は事実上16:8で終わっているのです。9−30節は後世の加筆だと言われています。

 しかし、この福音書が8節で終わっていようが、30節で完結したものであろうが、福音書は証言します。「人が信じようが信じまいが、事実、キリストは甦られたのだ。」と。

 女性信徒たち(8節)、11人の弟子たち(11節)はそれぞれイエス・キリストの復活が信じられないでいます。マルコがあえて彼らの不信仰をそのまま書いているのは、彼らの恥を世に曝すのが目的ではなく、彼らの不信仰に自分自身のかつての姿を重ねているからだと読めないでしょうか。同時に今、礼拝メッセージを聴きながら、それでもなお戸惑いを感じている全ての人に共通する弱さではないでしょうか。

 そんなわたしたちに向かって天使は言います。「あの方は、復活なさって、ここにはおられない御覧なさい。ここがお納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」と。

 

 エルサレムは宗教的エリートの住む都です。そこには、「自分は神の選民で、信仰的に成熟した者」と自負している人たちが礼拝している神殿があります。しかし、ガリラヤはそうではありません。そこはひなびた村、文明から取り残された田舎町です。そこは異邦人扱いされている人たちの住む町です。

 わたしたちのこれまでの生活はユダヤ人がかつて憧れていたエルサレムのように、文明社会に浸りきったものでした。その実態は表面ばかりを気にして実体の伴わない生活、虚無と欺瞞が渦巻く日々でした。こうした生き方の中にイエス・キリストが入ってこられたとき、わたしたちは彼を拒み、十字架に釘付けてしまいました。

 わたしたちは、今こそこの偽善と不信仰の町、虚無と虚飾の生活から抜け出さなくてはなりません。幸福な生活を願うのであれば、天使が告げたように、空っぽの墓をいつまでも見つめていてはなりません。復活のイエス・キリストはガリラヤにおられます。罪過と罪を素直に認めることのできる悔い改めの心というガリラヤこそわたしたちが本当に住むべきホームです。そこに復活のキリストがおられるのです。今こそこの方の御許に立ち返りましょう。

 最後にキリストがどのような方として復活されたか、その意味を学ぶ必要があります。復活とは人生のやり直しではありません。復活とは全く新しい生き方に変えられることです。つまり、この世で生きる間はこの世で生きるに必要な体とその機能を備えられていますが、復活とは、来るべき世にあって、すなわち天のみ国という永遠のみ国に生かされるに相応しい栄光の体という復活の体が備えられるということです。何という恵みでしょうか。

 だからこの朝、わたしたちは復活の主に感謝して、お互いの顔と顔を合わせて、心から次のような挨拶を交わそうではありませんか。「イースターおめでとうございます。」と。そして、感謝の祈りをささげましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

 今朝、イースターの恵みを心から感謝します。あなたの独り子主イエス・キリストはわたしたちの罪のために贖いの死を遂げてくださったばかりか、黄泉の世界から復活してくださったことにより、わたしたちは罪と死と滅びの恐怖から救われて、永遠の命を持つ者としていただきました。わたしたちはこの世にあって生きるに必要な体が与えられて生かされていますが、また来るべき世にあっては、御国に相応しい栄光の体が与えられることを信じて感謝します。

 あなたは欺瞞と虚飾、不信の渦巻くエルサレムではなく、素朴なガリラヤに帰れと仰せです。どうか、わたしたちの傲慢な心を打ち砕いて頂き、謙った心、御言葉を素直に受け入れる柔らかな心を与えてください。私たちの家族、友人、近隣をあなたの愛で愛する者と造り替えてください。

 わたしたちの尊い主イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。

 


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