【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年4月15日   

派 遣  

マルコによる福音書16章14-18節

高橋淑郎牧師

  

 11人は代わる代わる、復活のキリストに出会った人たちの証言を聞いても信じることはできませんでした。信じられなかったのですが、それでも彼らは散り散りになることもなく、食事を共にしていました。暗い心で、主イエスの弟子とされて以来、短いような長かったような3年数ヶ月の思い出を語り合っていたのでしょう。信じる、信じないは別として、イエスの名によって集まる所に、イエスもまたその交わりの中に必ず入ってきて、じっと耳を傾けて下さっているのです。そして心の頑なさを責めながら、不信仰を叱りながら、手の釘跡、わき腹の槍による傷口を示して、復活の事実を信じることができるように導いてくださいました。弟子たちは、今初めて主は生きて今も私たちと共におられるのだと確信を得ることができました。よかった、本当によかった。

 しかし、話はここでめでたしめでたしと終わってはいません。まだ続きがあります。主イエス・キリストの派遣の言葉です。キリストの弟子たちは、イエスを救い主と信じるものの、その後何もしないで自分の好きなことだけをして日を過ごすことをお許しになりません。イエスの弟子であるということは、全世界に出て行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えるという使命が与えられるのです。

 礼拝は神からのメッセージを受けて、神の愛、イエス・キリストの恵み、聖霊による交わりの豊かさを味わって、救いと慰めを得る時であります。同時に、礼拝は祝祷に与り、父と子と聖霊なる三位一体の神の名によって、再びこの世に派遣される時でもあるのです。クリスチャンはこの世から切り取られるようにして礼拝に招かれ、再びこの世に出て行って、福音を語り聞かせるために派遣されて行きます。招かれて、再び散らされる、これがクリスチャンに与えられたライフスタイルでなければなりません。同時に特別な使命を授かってこの世に派遣されていく人々がいます。それはあの11人、後にもうひとり加えられて、12人はキリストの使徒として生涯を献げました。

 後に使徒として活躍した11人の弟子たちの信仰が再び燃え立つために、マグダラのマリアや田舎に引きこもろうとしていた二人の人々を復活の証人として選び出されました。そして、後に生まれてきた私たちがイエス・キリストの復活を信じて救われるようにと、使徒たちを用いて証人としてくださいました。これが新約聖書です。どうぞあなたも、今失望から希望へ、死から命へと移し替えてくださるイエス・キリストを信じましょう。

福音メッセージ一覧へ戻る


 【主日礼拝メッセージ】                                   2007年4月15日   

派 遣  

マルコによる福音書16章14-18節

高橋淑郎牧師

 

わたしたちの国がこれまで大切にしてきた平和の理念が大きく変えられようとしています。第二次大戦の反省に立って築き上げられたことも、次から次へと壊されているようです。それだけではなく、わたしたちの国が過去に犯した数々の罪も、きちんとした反省に立つことを恐れて、美しい国づくりのために都合が悪いからと塗り消されようとしています。わたしたちは今、こうした時代のただなかに生かされています。決して明るい未来が約束されてはいません。そして今は暗い時代です。しかし、わたしたちキリスト者は、この危うい状況にあるこの愛する国のために傍観することは許されません。そうしたことを心に留めながら、御言葉に聴いてまいりましょう。

もう一度この章の最初から読み直して見ますと、主イエスが甦られたという嬉しい知らせは三つのグループに伝えられていることが分かります。1−11節の人々と12−13節の人々に伝えられましたが、後に使徒として派遣されていくはずの11人の弟子たちには御使ではなく、また主ご自身でもなく、マグダラのマリアと田舎への道を歩いていた二人連れを用いて伝えさせました。これだけ念入りにイエス・キリストは甦られたという知らせを受けながら、それでも信じられないでいる11人の弟子たちは、何とその心が固いことでしょうか。

ここで、先週は読むことを控えた9−13節ですが、今日のためには大切な箇所なので、ご一緒に目を通しておきましょう。

最初にマグダラのマリアについて、彼女の過去が明かされています。「七つの悪霊」の虜(とりこ)にされていた彼女の生活は、きっと悲惨なものであったことでしょう。そんなとき、不思議な導きでイエス・キリストに出会いました。そして救い出されたのです。誰でも教会に来る前は、人に言えない生活を、多少はしているものです。しかし、その罪を悔改めたことで、そして主イエス・キリストを救い主と信じたことで、神は拒むことなく、また教会の人々も受け入れてくれました。もう過ぎた時の取り返しのつかない罪の生活を咎(とが)める人など誰もいません。本人が証するならともかく、第三者が、「あの人の過去はこうだった、ああだった。」と告げて回ることなど教会は決してしません。

それなのに、カッコ付のこの箇所(9節以下)は、後世の誰かが書き加えたそうですが、そういう人がわざわざマリアの過去をえぐり出すとは何ということでしょう。余りにも心無いことではないですか。文章というものは、それがいったん世に出されたら、どんどん一人歩きして、人は面白おかしく彼女のことを噂の種にして、後ろ指を指すことでしょう。しかし、わたしは思います。これはマリア自身の証であったのです。彼女は自分がどのようにしてイエス・キリストに出会い、救われて今日に至ったかを機会あるごとに、沢山の人の前で勇気をもって大胆に語っていたに違いないのです。もはや秘密にしておく必要はなくなりました。それどころか、彼女は自分の過去と現在を明らかにすることで、人は誰でも神に愛されているのだということ、神のみ前には絶望という二文字は何の力もないのだということを知ってもらいたかったのではないでしょうか。神に愛されている。イエス・キリストに救われている。だからこの喜び、この感謝へと導かれている今、もう失うものは何もないのです。この確信は復活のキリストに出会ったことで更に深まり、強められたのです。

次に、田舎への道行きの途上、復活のキリストに出会った二人連れについてはルカによる福音書24:13−35に詳しく紹介されています。彼らはイエス・キリストの弟子でした。しかし、その愛する先生が十字架に付けられて死んでしまいました。こんなむごいことがあるものかと嘆き悲しみながら、彼らはエルサレムを背にしてエマオという田舎に引き上げるところでした。しかし、彼らの話題はいつの間にか再び愛する先生のことへと戻っていきます。話に熱中している二人にはその歩みにいつの間にか加わったもうひとりに気がつきませんでした。ルカによる福音書はとても平易な言葉で書いてくれていますので、初めて聖書を読む人でもすぐに親しみを感じます。この箇所でもそうですが、この人は途中から口を挟んで尋ねます。「歩きながらやり取りしているその話は何のことですか。」と。こんな質問はわたしたちにとっても日常茶飯事的に経験することではないでしょうか。二三人が何か話し込んでいると、聞き耳を立てているつもりはなくても聞こえてくることがあります。それがどうやら自分と関係ありそうな話題であったりすると、つい、「それってどういうこと?」と話の輪に首を突っ込んでしまうことはないでしょうか。

田舎への道を行く二人連れの話の輪に途中から入ってきたこの方は、彼らに聖書のいろはから教え、また彼らの家に招かれながら、その家の主人のように晩餐を主宰する姿を見て、この方こそ救い主イエス・キリストであったことを知るようになるのでした。

このように、マグダラのマリアも田舎への道を歩いていた二人も、復活のキリストに出会ったとき、悲しみは喜びに、失望は希望に変えられ、11人の弟子たちに、「わたしたちは甦られたイエスさまに出会うことができました。」と伝えるのでした。

 

しかし、先ほど司式者に読んで頂いた14節をご覧下さい。11人は代わる代わる、復活のキリストに出会った人たちの証言を聞いてもなお信じることはできませんでした。信じることは出来なかったのですが、それでも彼らは散り散りばらばらになることもなく、食事を共にしていました。彼らは暗い心で、主イエスの弟子とされて以来、短いような長かったような3年数ヶ月の思い出を語り合っていたのでしょう。信じる、信じないは別として、イエスの名によって集まる所に、イエスもまたその交わりの中に必ず入ってきて、じっと耳を傾けて下さっているのです。そして心の頑なさを責めながら、不信仰を叱りながら、手の釘跡、わき腹の槍による傷口を示して、復活の事実を信じることができるように導いてくださいました。弟子たちは、今初めて主は生きて今も私たちと共におられるのだと確信を得ることができました。よかった、本当によかった。

しかし、話はここでめでたしめでたしと終わってはいません。まだ続きがあります。主イエス・キリストの派遣の言葉です。キリストの弟子たちは、イエスを救い主と信じるものの、その後何もしないで自分の好きなことだけをして日を過ごすことをお許しになりません。イエスの弟子であるということは、全世界に出て行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えるという使命が与えられるのです。

いつも言うことですが、礼拝は神からのメッセージを受けて、神の愛、イエス・キリストの恵み、聖霊による交わりの豊かさを味わって、救いと慰めを得る時であります。同時に、礼拝は祝祷に与り、父と子と聖霊なる三位一体の神の名によって、再びこの世に派遣される時でもあるのです。クリスチャンはこの世から切り取られるようにして礼拝に招かれ、再びこの世に出て行って、福音を語り聞かせるために派遣されて行きます。招かれて、再び散らされる、これがクリスチャンに与えられたライフスタイルでなければなりません。同時に特別な使命を授かってこの世に派遣されていく人々がいます。それはあの11人、後にもうひとり加えられて、12人はキリストの使徒として生涯を献げました。

更に伝道者として派遣されて行く人がいます。伝道者といってもいろいろな働きの場があります。ある人は宣教師として異国の地に遣わされてゆきます。ある人は国内各地を開拓伝道するために遣わされて行きます。また牧師としてひとつか二つの教会を預かって牧会の務めにと派遣されて行く人もいます。その外神から賜ったタレントを用いて、教会内外で奉仕するように遣わされて行きます。

実は、既に安部光彦兄と、これから同じ使命に生きるようにと召されつつある平山かおり姉は、その特別な使命を神から賜って派遣されていくことになっています。その働きは具体的には言葉による福音メッセージはできなくても、その奉仕の生活を通して、相手の方々がこの世の必要が満たされるだけでなく、霊的な飢えと渇きから救われることにつながるなら、それは立派にキリストの使者としての使命を果たしているわけです。

また、この後按手をもって主の祝福を祈らせて頂く紫園香姉は音楽伝道者として、今後とも教会内外で福音宣教に遣わされて行くことになります。

このように、どのような形で神に用いられることになろうと、彼らを通して主が働いて下さるとき、彼らは福音の使者なのです。福音の使者は、教会を通して天国の鍵を託された人たちです。派遣されて行く先々で、福音が宣べ伝えられていくとき、それを聴く人にひとつの決断を迫ることになります。何かと言いますと、イエス・キリストを神の子キリスト、救い主と信じるか信じないかの決断です。聴いて信じる人、そしてバプテスマを受ける人は救われるのです。しかし、聴いていながら生涯を閉じるまで信じない人は来るべき世にあって、滅びの宣告を受けなければならないのです。

伝道者はその導かれた先々で、このような務めに遣わされていくのです。それは大変責任の重い使命ですが、同時にこれに優る光栄ある務めはないのです。霊にかかわる仕事はこの世の誰にも与えられていません。クリスチャンだけなのです。

最後に、主イエスがわたしたちに与えられた約束の御言葉を紹介して祈りをささげます。

「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイによる福音書16:19)

 

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

今、わたしたちを取り巻く状況は非常に緊迫し、その為に世情は混乱を極めています。こういう時代にわたしたちはキリスト者として選ばれ、立てられています。

しかし、今朝示された聖書を通して、2000年の昔も今と少しも状況が変わっていないことを知りました。権力をほしいままに乱用する為政者がいました。キリストは否定され、ローマの皇帝が神とあがめられている時代でした。しかし、このような暗い世相の中に、主イエス・キリストは力強く死から甦り、弟子たちに、神が愛されるこの世界を救う使命を託されました。

主よ、今朝、あなたのみ前にあり、あなたを愛するこの方々を感謝します。この人たちは毎日この世にあって厳しい戦いを強いられながら、それにひるむことなく、今日も礼拝をささげるために、このところに導かれてまいりました。あなたは今日もこの礼拝を通して、一人びとりに霊の息吹を注いで下さいました。

そして今、あなたは、あなたの勝利の為に、そしてあなたの栄光が表される為にこの兄弟姉妹を、復活のキリストを証するために、再びこの世にお遣わしになろうとしています。

どうか主よ、この人たちを通して、世の人々が復活のキリスト・イエスを信じて救われますように。あなたの愛に目覚める者を与えてください。

わたしたちの尊い主イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む